渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

新学説についての雑談 ~鉄~

2018年10月11日 | open

2011年7月15日記事からの抜粋を再掲
紹介する。
前段には小林康宏刀の製作方法を記載
してあったので、削除した。

(以下抜粋記事)

鉄というのは人間が作り出すものだが、純度99.9999%の超高純度鉄は
最近日本人が作り出した。
これは、東北大学金属材料研究所の安彦兼次客員教授により、電解鉄を
超高真空中で溶解し、電子銃を用いた浮遊帯溶解精製で処理することに
より1999年に製造に成功し、2011年に日本とドイツの標準物質データベース
に登録された。
wikipediaの記載によると、「固体の順鉄はフェライト相(BCC構造)、オーステ
ナイト相(FCC構造)、デルタフェライト相(BCC構造)の3つの層があり、911℃以
下ではフェライト、911–1392℃はオーステナイト、1392–1536℃はデルタ
フェライト、1536℃以上は液体の純鉄となる。常温常圧ではフェライトが安定
である。強磁性体であるフェライトがキュリー点を超えたところからオーステナイト
領域までの770–911℃の純鉄の相は、以前はβ鉄と呼ばれていた。」とある。
ちょっと待て、と思った。
記載はすべて理解できるが、最後段の「以前はβ鉄と呼ばれていた」という記載
に「んん?」となった。

調べてみると、「結晶構造解析が未発達だった時代では、強磁性体の鉄と
常磁性体の鉄の相は異なると想定されていた。その時、前者をα鉄(フェライト)、
後者をβ鉄としていた。しかし、その後、α鉄・β鉄両方とも同じ体心立方格子構造を
とるとわかった。つまり、α鉄とβ鉄の結晶構造は同じであり、相変態が起こって
いないということがわかった
。現在では、α鉄に統一されたため、『β鉄』という
用語は用いられていない。
なお、純度100%の鉄において、770℃を境目にして鉄の磁性が変化する。
この温度は鉄のキュリー温度であり、A2点という。」(出展wikipwdia「β鉄」)
とのこと。

なんとー!
現在出版されている刀剣関係の書籍記載の変態曲線図にβ鉄の記載のある
ものなどは、すべて前時代のものとなったのだ。


相変態が起きていない~?
いつよ?いつわかったの?(笑)
当然、私が2001年に有志の山岳焼き入れを楽しむ会向けに作った
小冊子も古い学説に基づくものとなる。
日本刀関連の著述をする人は、最新学説に準拠してβ鉄記載部分に
ついては今後訂正していく必要があるだろう。
私の従来の知識も、この部分に関して古いものとなったのだ。
従って、鉄の変態について現今の学説で相変態の原子配列を
まとめると以下のようになる。
<純鉄の場合>
・910℃以下の温度ではα鉄となり結晶構造が体心立方格子
・910~1400℃ではγ鉄となり結晶構造が面心立方格子
・1400~1534℃ではδ鉄で体心立方格子
・1534℃以上では液相

<補足説明:炭素鋼の相変態状態図>

鋼はA1変態点である727℃以上に加熱しないと原子配列の変態を
生じないので絶対に焼入れができない。また、上の状態図の水色部分
の温度を外しても焼きは入らない。
かつて私に「鋼は炭素の量によって変体点が上下するから絶対的な
変態の温度の下端が決まっているなどということはありえない。君は
嘘つきだ」と言い張る慶應義塾工学部出身の剣士がいたが、誤謬も
甚だしい。
炭素鋼とは炭素を何%以上含有するものを指すのか、まずその初歩的な
規定概念の理解からやり直してきてほしいと思った。726℃以下では
焼きが入らないのは現代刀工の世界では常識であり、そのはざかいの
色については色見本を示して康宏刀工も私に教えてくれていた。
また、「正確な色(温度)がわからなくなるから、ずっと火を見続けるな」
とも。正確な温度を見切るために、刀身に焦点を合わし続けるのでなく、
目を横にそらして、頃合ごとに刀身に焦点を合わせて色を見るのだ。
私を嘘つき呼ばわりした某は再輝点の存在も知らなかったので論外
なのだが、科学的根拠もなく思い込みと思いつきで他人を揶揄することは
なんという恐ろしいことであるか。
多角的に真摯な姿勢で日本刀を探求されている軍刀サイトの主宰も、
こうした妄想にとりつかれた脳内創造作家によって口汚くブログで罵られて
いて大変気の毒だが、妄想概念を唯一の心の支えとする人間は排外行動
によってのみ自己のアイデンティティを保全しようと常軌を逸して他人を
揶揄攻撃するので、相手にしない方がよい。特に刃物関係だけに、君子
危うきに近寄らずが賢明な措置と思われる。世の中捨てたものではなく、
見るものを見ている人、見るべきものが見える人にはきちんと本質が
見えているので、懸念はない。どこに行っても、脳内戯言をまき散らす
人間はいるので、いちいち相手にしていたら身が持たない。まして、
それが境界例とおぼしき症状の発現の一環として為されている中傷
ブログであるなら、なおさら関わらない方がよい。無視に限る。
人生の大先輩の方の受難を指してこのように申し上げるのは大変僭越
至極なのではあるが、現在軍刀本家サイトの氏は件の妄想者に対して
無視という対応で大人の態度を示してくれているので、心ならず安心して
いる。在野の草莽の士が権威主義的「定説」の欠缺(けんけつ)を突くのは
なんとも痛快ではないか。今後も斯界の健全な研究成果獲得のためにも、
淀んだ水が滞留する業界に一石を投じる瑞々しい勇気ある活躍を影ながら
応援したいと私は思う。

β鉄について科学的にα鉄と同じであると証明されたならば、古い知識は
過去の時代のものとしなければならない。

もっとも、それ以前に、注目すべき評価できる研究発表をしていながら、
以下のように日本刀の基本構造が炭素量を変えた鉄の積層組み合わせ
構造によるとする旧式の発想をする学術研究者は、その立脚点自体を
冷徹に自己検証しないとならないのであるが。↓
日本塑性加工学会鍛造分科会 第0回実務講座 (2003年2月6・7日)
資料番号 2003・30-2
日本刀の鍛錬と焼入れのシミュレーション
京都大学大学院エネルギー科学研究科 井上達雄
(pdfファイル)
まだこの研究発表は「日本刀の素材の多くは、砂鉄」としており、包括的に
日本刀の基本構造は「砂鉄+たたら製鉄+積層組み合わせ」と画一的に
一括する表現を避けているところが救われる。
ただ、横道にそれるが、日本刀の焼き入れ温度について冷却媒体である
水(湯)の温度に関して「高炭素の備前伝では780℃,低炭素の相州伝
では800℃程度と,いずれもAc1変態点(760℃)以上に加熱し,前者では
常温から40℃,後者ではやや高めで80℃以下(温度を測ろうとして腕を
切られた話は有名である)の水に焼入れる.
」とあるのは「マジか?」と
思う。随分湯温が高い。扱う鋼や焼き刃土にもよるが、私が真水のみで
焼き入れするときには17℃を保持して良好な結果を得ていたからだ。
(小林康宏伝はもっと高温水。真水ではない古式鍛冶の手法を導入)
しかし、よく読むと「常温から」とあり、冷却によるマルテンサイト変態を得る
湯温の上限値を示したものだろう。なお、Ac1変態点を760℃としたのは
頭に「約」を書き漏らしたのだと思う。学術発表なのに案外ざっくりしている。
二代目康宏刀工は私に「762℃ちょい超えを保つ」とよく言っていたが、
「762℃なんてどんなのかわからない」という私に「この色だ」と色を
指し示していた。オレンジよりももっと赤身のある色である。肉眼で見る
上り始めの月とよく言われるが、私が教わったのは上る月よりもっと低い
温度を示す赤い色。
こちらよりも・・・


こちらの色。


刀剣製作動画や画像の焼き入れや鍛錬は撮影用に温度を上げた物が多い
ので、あれらの動画や画像をそのままを信用しては危険を伴う。実際に肉眼で
見てみないと体感は難しい。そして火の色が判らないため、焼き入れは夜行なう。
また、舟に突っ込むちょいとしたロスタイムですぐに刀身は20℃くらい温度が
急激に下降するので、敏感な鋼を使って低温で焼き入れをするにしても、舟に
刀身を突っ込む直前温度が762℃以上でなければならず、逆に温度が高すぎる
とバカ鉄になったり、反りが極端になったりすることがあるので難しい。一度、有志
の焼き入れでチューンという刀の唸りと共に刀身が逆鎌のように丸まる程反り
返ったことがある。
また、私が催した山岳焼き入れを楽しむ会での焼き入れにおいても、刀身を
真っ直ぐに刃先から舟に入れるのを指示したのに真横に入れた人がいて、刀が
横に強くコンニチハしてしまったことがあった。やむなく焼きなましてから成形し、
土を置くことからすべてその刀身はやり直しとなった。熱処理の際の温度管理の
難しさを実感する。舟へ入れる刀身の向きの厳密さも左右の温度を平均にとる
温度管理の一つである。
炉についても安易に飛びつくのはどうかと思うが、刀姿によっては、デンガクを
利用するのもひとつの選択肢ではあると思う。
バカ鉄になるのを避けるのには火造りでも手早く作業を進めることが要求され
るが、20年以上前から私が動画を見る限りでは、吉原義人刀工の手さばきは
当代一で、あまり過熱を繰り返させずに手際良く魔法のように仕上げている。
(実際に拝見したことはない)
手際よいだけでなく、彼は刀身を浮かせて金床(かなしき)に槌で打つ手法により
刀身温度低下をできるだけ回避して、再加熱の回数を減らしていることもバカ鉄
回避に大きく貢献しているだろう。吉原刀工は鋼を殺すことは決してしていない。
他の刀工には申し訳ないが、義人刀工の火造りを見た後に他の刀工のさばきを
見たらまるで素人のように見える。他の刀工も抜きん出た手技ではあるのだが、
それ程吉原義人刀工の技が冴えているということである。

話を戻す。

学術研究者には、「日本刀の構造は芯鉄を皮鉄でくるむ構造である」という
固定概念から一度離れて日本刀の歴史と古刀の現実的な構造に着目してもらい
たいものだが、国内の日本刀の権威筋が終戦直後のGHQ対策の時の一時的
な対策用の見解から脱してはいないので、現在の段階ではなかなか困難を伴う。
現在youtubeにアップされている慶應義塾大学の講義などは、講師は自信満々
で吉原義人刀工の作での「兜割り」フィルムを交えて日本刀を「科学的に」解説
しようとの講義を行なっているが、新刀以降の構造である積層組み合わせ構造
は鋼の歴史的な質の変化に伴う一時的な工法であるという事実を100%無視
している。
さらに「積層構造こそが日本刀の構造」「それゆえ強い」として日本刀が
強靭さを具備するといった誤った認識に立脚して兜割りを引用することで
誤謬へと学生を誘導しており、甚だ遺憾である。
自信満々の語り口で講義しているところがまた恐ろしい。
この若い学者は、この講義動画を見る限りにおいて、日本刀で鉄が斬れる
ことに驚いて講義教材としたのだろうが、芯鉄構造の日本刀を日本刀の
基準工法と規定している時点で、日本の鋼と日本刀の歴史について
不勉強も甚だしい。
あくまで歴史的な政治経済背景に規定された材料入手問題によるたたら
製鉄とそれによる鋼の変質が日本刀の構造変節に深く関連していることを
考察検証せずに、歴史の中で一時的な工法が伝統的で普遍性を持つ工法
であるとする視点は、あたかも太平洋戦争中の一時的な日本の政治体制
こそが日本そのものであり日本の伝統的姿なのであって日本の基本なのだ
と言っているのと同質である。
それは事実ではない情念的な思い込みであり、思い入れと歴史的事実や
推移は弁別して考えないと学問の科学性は保全されない。
こうした思い込みを定説としたがる学者たちが「権威」という学会のバックボーン
を背景にして公に誤謬を豪語し続ける限り、日本刀の真の科学的解明など
おぼつかないのは当たり前のことだ。
日本の夜明けは遠い。


あとね~、以前からどうも鼻についていたのだけど、上記二名の学者も
まったくそうなのだけど、学者センセが書くことに必ず出てくるフレーズ
として「このことを刀工が経験から知っていたことは驚異に値する」みたいな
表現があるのね。
これって、冶金学を修めた学識経験者がよく口にする言い回しなのだけど、
そこには工夫や経験や口伝によっての長い韓鍛冶から続く連綿とした
鍛冶職の歴史を軽んじる視点が見えて仕方ないのね。つまり、「鍛冶屋が
経験のみによって冶金学的学識もないのに科学的に合理性を具備した
工法を体現していることは驚異だ」みたいな。
これは学識経験や学術的知識こそが第一等ですべてに優位に立つという
視座に立脚している学者特有の上から目線が如実に現れているもので、
鍛冶屋を馬鹿にしているとしか思えない。
厳密に解析すると、西洋人が「未開の」部族やサルの生態を研究しているのと
同じような視点がそこにはある。
近代学問が成立する以前の鍛冶職が冶金学など知るわけないのは
あたりまえのことで、また近代の科学が発生する以前の鍛冶職が非科学的
な呪術的なことを取り入れていたのもあたりまえのこと。
どうも学者たちは古代人やわれわれの近代文明とは異なる「未開」の
文化を持つ人間、つまり自分たちの最先端学術を学び得なかった人間の
ことを「下等」とみているのか、自分たちの学識を裏付けることを
昔の人間がやっていたら「驚きだ」というような表現を使いたがる。
これは上級教育機関の教育を受けた学識経験者に顕著な傾向で、
明らかに蔑視意識が常に動員されている。
近代科学や学術が成立する以前の人間や古代人が現代人よりも
劣ってるなどということはまったくありえない。むしろ、現代人よりも
優れた点が多いことが往々にしてある。
例えば、日本刀を作ってきた鍛冶職などはその典型で、長年の創意工夫で、
科学知識もないからトライ・アンド・エラーで適切な工法を模索して
結実させてきた。
科学知識を有する現代人が古代人よりも優秀であるとするならば、
なぜ現代科学を以って平安鎌倉南北朝時代と同じ刀剣が造れないのか。
それこそ「驚異に値する」というやつだ。
「鍛冶屋の鼻黒」と呼ばれた時代から続く鍛冶職は下等であるかの
ような意識をサルを研究する文明人のごとき潜在意識とリンクさせる
からこそ、先人や古代人の知恵に敬意を示すのではなく、サルが道具を
「適切に」使うのに驚くがごとき傲岸な表現を平気で学者は使うのである。
日本刀業界で日常よく語られる「冶金学の知識もない昔の刀工が
これをしていたのは驚く」という陳腐な表現は、学識経験を持つ者こそ
優秀であるという中華思想的学者連中とそれに連なる権威主義追従者
たちの潜在的な選民意識に基づく侮蔑的表現の現出に他ならない。
「優秀な」自分らが古代人が作った刀を超える刀ひとつ造れないくせに
何を偉そうな、と私は思うのである。

ハリウッド映画『SFソード・キル』では、戦国時代に氷漬けになった武将を
現代科学で蘇生させて、その武将が現代と自分の価値観があまりにも
違うことに気づいて最後は「武士の道は理じゃ」(字幕と翻訳と台詞
に間違いあり。「理」を「死」としてしまっている)と叫んで再び氷湖に
飛び込んで自決する。


この映画の中で主人公の藤岡弘が使う日本刀をはじめ出てくる刀は
すべて初代小林康宏の刀なのだが、それは置いといて・・・
この映画作品の中で、現代に蘇った戦国武将藤岡の知能テストを
するシーンがある。
いわゆるトランプの神経衰弱のようなテストなのだが、正解する武将に
試験者は驚きカードを増やそうとする。だが、サムライ藤岡はニヤリ
と笑ってそれを制して自分から「すべてのカードを並べよ」と指示し、
すべてのカードを記憶により全部合致させて正解する。
ここに至って現代人の科学者はとてつもなく驚く、という映像表現が
なされているのだが、これは西洋人科学者が先時代の東洋人を
「未開人」として下等な生き物だと思っているから驚くのだ。
自分らと同等もしくはそれ以上の知性があると考えているなら
「さもありなん」と納得こそすれ別段驚いたりすることはありえない
のである。下等とみた者が自分らの知りえている「正解」と合致した
答えを出したからこそ驚くのだ。
そこには明らかに先人を未開で遅れた人間と見る近代優越主義
の意識が存在する。
映画『猿の惑星』では、檻に捕えられたチャールトン・ヘストンが
言葉を発することにサルが「人間がしゃべった!」と驚くシーンが
あるが、あれは現実的な人間社会を批判的に警鐘を鳴らす意味を
込めて皮肉たっぷりに描いた映画であった。しかし、今なお、現実社会
では、人間が人間に対してそのような優越主義を以って潜在的に
見下そうとしているのである。

日本の学術界でも、こうした西洋選民思想にとらわれた連中が
大手を振って跋扈しており、それらは日本刀研究の世界にも多く
いる。
それの現象として検出されるのが、上述した先人鍛冶職を侮蔑する
陳腐な表現の言い回しだ。
必ず出てくるこれらの言い回しの根源がどんな意識に基づいているのか
という自己解析をして毒素を除去しない限り、日本刀の科学的解析
による所見の妥当性の確保などは夢のまた夢である、と私は強く思料
する次第なのである。

(以上抜粋再掲終わり)


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