





現存最古の和菓子は三原にあり。
これはかなり歴史的に貴重。

市の歴史民俗資料館の館内を見学
すると、不思議な事に気づきます。
それは室町期に「三原大工」と銘
のある寺の釣鐘に関する史料が
展示されている事。
その当時は、現在の三原城は無く、
一面海でした。
果たしてその大工のいた三原とは
一体どこの事であるのか?
これはかなり歴史的には重要な
未解決案件なんです。
(中世においては、鋳物師=いもじ
のうち銅鐘等を鋳造する職方は
「大工」と称していました)
まさか、三原市教育委員会は現在
の三原とはしてないだろうな、と
いう疑問が湧きます。
三原の地名の由来についても、
「三原とは三つの原が合わさった
場所の事」
と行政までもが主張しています
が、それは現実的にはあり得な
い事です。
三つの原(谷戸)が合わさったのは
戦国末期に三原城が築城されて、
大小の小島と岩礁を埋め立てて
地面が登場してからです。
それまでは各谷戸は分離独立して
海に面していました。
「三原」などは存在しない。
だが、三原とは三つの原が合わ
さった場所がその地名の由来と
行政はしています。
日本刀界でもひどい認識が広まっ
ていて、大抵の刀剣書には鎌倉
南北朝時代の刀工備州正家の鍛
刀地を「現在の広島県三原市」
(平成大合併以前の三原市)とし
ていました。
現実の歴史ではあり得ない事なん
です。
後から歴史をねつ造すると、その
ような不整合と非現実を押し通す
事になります。東京月島は江戸時
代からあった、みたいな。お台場
臨海地区は江戸城築城時にあった、
というような。
現在の三原の場所には、戦国末期
までは地面など無かった。海です、
海。
そして、平成の大合併で三原市が
拡大するまでは、「三原」とは
城郭周辺の狭い地域の事を称して
いました。
これは戦国末期から450年くらい
ずっとそうした概念でこの城下町
が捉えられていた。
旧御調郡(みつぎ)三原町がそのエ
リアで、本当に城下町のみの狭い
エリアの事を「三原」と呼んでい
ました。
周辺は郡部の村です。ごく最近
まで。三原に市政が施行されて
から広島県三原市になり、周辺部
はようやく「町(ちょう)」になり
ました。それでも平成大合併まで
は周辺部は郡部です。広島県御調
郡と豊田郡。今は市に参入されて
います。三原市本郷や大和(だいわ)
などはほんの先頃まで郡部であり、
三原ではありませんでした。
想像図。
現在の三原という地区の戦国時代
末期の小早川築城以前は、たぶん
こんな感じ。地質学的見地と文献
史料からすると、今の三原の築城
以前はこのような地形。
