渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

2ストチャンバーを発明した男と活かした世界チャンピオン

2024年09月10日 | open


ウォルター・カーデン
(1919〜1996)
2ストロークエンジンの脈動
効果によるチャンバーを発明
し、モーターサイクル界に大
革命を起こしたドイツ人。


エルスント・デグナー
(1931〜1983)
ドイツ人。東ドイツモトラッド
社からの出場で世界グランプリ
を戦っていたが、後に西側に亡
命。
日本のスズキと契約してライト
ウエイトクラスで世界チャンピ
オンとなる。

ネット百科によるとデグナー
の経歴は以下。

「ドイツ国オーバーシュレジ
エンのグライヴィッツ(現ポ
ーランド領グリヴィツェ)生
まれ。
出生名はエルンスト・オイゲ
ン・ヴォツラヴェク
(Ernst Eugen Wotzlawek)。

第二次世界大戦後、家族と東
ドイツに移り住んだ。1957年
から1961年にかけてデグナー
は東ドイツのMZ社のオートバ
イを駆り、ロードレース世界
選手権の125ccクラス、250cc
クラスで活躍した。MZの2ス
トロークエンジンは同社の技
術者 Walter Kaaden が発明し
た排気脈動を利用するチャン
バー技術等によって高いパフ
ォーマンスを誇っていた。

1961年8月にベルリンの壁が
完成した後、デグナーは彼の
家族を西ドイツに亡命させる
準備をおこなった。9月13日
水曜日、彼の妻と2人の息子
は西ドイツの友人の協力によ
って、車のトランクに隠れて
国境を越えることに成功した。
一方デグナー本人は、その週
末に開催となる第10戦スウェ
ーデンGPに出場した。125cc
クラスではホンダのトム・
フィリスと年間タイトルを争
っていたが、デグナーは3周
目にエンジン破損でリタイア
する。レース後彼はフェリー
に乗り、デンマーク経由で西
ドイツへの亡命に成功、家族
と合流することができた。亡
命が発覚後、東ドイツ側から
は「わざとエンジンを壊した」
と非難されることになった。

スウェーデンGPでフィリスは
6位に終わり、タイトルの決定
は最終戦アルゼンチンGPに持
ち越されていた。当然デグナ
ーはMZからの出場は不可能に
なったが、個人タイトル獲得
のために他チームからの出場
を模索していた。しかし結局
東ドイツのモーターサイクル
協会にライセンスを取り消さ
れて出場は不可能となり、ホン
ダの125cc・250cc個人・メー
カータイトル独占を許すこと
になった。

翌1962年シーズンには、デグ
ナーは日本のスズキと契約し、
この年から始まった50ccクラ
スでスズキにグランプリ初タ
イトルをもたらした。
同年11月に行われた鈴鹿サー
キットのオープニングレース
「第1回全日本選手権ロードレ
ース」ではトップを独走中に
転倒。その転倒したコーナーが
「デグナーカーブ」と命名され
ることになった」


後にデグナーカーブと命名さ
れた鈴鹿サーキットのコーナ
ーで転倒、新型250マシンご
と火に包まれるデグナー。



この現実の場面は、映画『汚
れた英雄』
(1982)の中でオ
マージュとしてこの
シーンが
ラスト間際に描かれている。

 
デグナーはかろうじて命は
とりとめたが、全身大火傷
の重症で、その後長く浜松
の病院に入院していた。
その後、世界グランプリに
復帰したデグナーの最後の
GPレースは1966年のマン島
T.T.レースだった。
世界グランプリの一戦である
マン島T.T.では、日本人では
唯一伊藤光男氏が1963年に
優勝している。
いずれもウォルター・カーデ
ンが発明したチャンバーを装
着した2ストロークマシンだ。

母国が政治権力者の思惑に
よって二つに割けられてし
まう。
こんな悲しいことはない。
共産主義も資本主義も悪く
ない。
それを利用して自己勢力を拡
大しようとする権力者が悪い。
どちらの陣営も、どんなに綺
麗事を語っても、結局は人の
命や基本的人権などは無視す
る。
私は「権力」が嫌いである。

デグナーについては、こちら
の記事がとても感慨深い。
➡︎ デグナー追想


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