1970年。昭和元禄の頂点の年。
ベトナム戦争が激戦となったこの年、
繁栄を続ける日本では多くの事が起きた。
安保条約改定阻止に向けて全国で学生
運動とベトナム反戦運動が激化したの
が1960年代末期。
だが、学生運動のピークは1968年であり、
1969年の東大安田講堂での攻防戦が
最後のあだ花の様相を呈した。
しかし、日本は第二次世界大戦の敗戦を
乗り越えて再興し、躍進を続けていた。
モーターリゼーションも発達したが、
1960年前後はまだ四輪車を購入する事など
は、一般国民にとっては戸建て住宅を購入
する程に困難な状況だった。
それが、1970年前夜になると、所得倍増
計画が実り、多くの国民たちが高額な二
輪車や四輪車を家庭で持てるようになって
きた。「マイカー」という造語も誕生し
ていた。大花火が大阪国際万博誘致開催
だった。日本での万博開催は21世紀の
未来の繁栄を予見させることを狙った
大イベントだった。
その1970年。日本国内に実に多くの
サーキットが建設され開設された。
広島県の野呂山は、明治維新後の士族
困窮を救済するために、元武士たちが
開拓団として入植させられ、農地として
山全体を開墾した。
だが、標高839mの野呂山での士族の開拓
団はすべてがのちに離農した。
映画『北の零年』と同じ事が広島県でも
あったのだが、明治新時代が進み、士族
救済措置の殖産としての農業よりも、
工業立国化で工場が多く設立されたため、
そちらに労働人口が流れたためではなか
ろうか。
明治時代初頭から中期にかけて、元武士
たちは、華族に近い上級士族以外は実質
上プロレタリアートとしての労働力を
供給する無産階層でしかなくなっていた。
多くの自由民権運動の壮士がほぼ士族
であったことは、そうした新時代の
「新たな」社会矛盾を肌で感じざるを
得ない階層を多くの労働者たる人民の
中に士族が占めたことが背景にあった
ことも日本史の中で見逃すことはでき
ない。旧知識階級であった旧武士の
士族たちが、あたかも政治的に鋭敏な
大学生たちが学生運動として社会運動
を牽引するかの如き現象が、明治初頭
から中半にかけて日本国内の都市部を
中心に疾風となって吹いていたという
日本の歴史が明治にある。
それから約100年後。
日本は第二次世界大戦での敗戦の困難を
乗り越え、空前絶後の大繁栄をしていた。
GNP(国民総生産)は世界第二位となり、
アメリカ合衆国に次ぐ経済大国となって
いたのが1960年代最後の年の1970年当時
の日本だった。
第一世界の資本主義国家群の中の最先進
国となっていたのが日本だった。
そして、モーターリゼーションの発達
と共に、モータースポーツも大隆盛を
みた。
これより先、1960年代初期から日本は
二輪では世界グランプリに日本メーカー
が参加して世界レベルの車両製造技術
とスポーツとしての競技技術を習得
せんとしていた。
ヤマハなどは初めてレースに出た時に
は「楽器屋がモーターサイクルを作る
なんて途中で分解することだろう」と
欧米からは揶揄されたりしていた。
だが、日本の二輪メーカーは1960年代
に世界グランプリで強さを示し、1970
年代に入ると日本車でなくば勝てない
世界グランプリの図式を打ち立てた。
その日本車でなくば勝てない地球上の
状況はその後40年以上続くのだった。
日本国内に多くの専用閉鎖自動車競技場
=クローズド・サーキットが誕生した
ものの一つに広島県の野呂山サーキット
がある。正式には野呂山スピードパーク
略してNSPと呼ばれた。
だが、国立公園内に自動車競技場を建設
誕生させたため、騒音問題が問題視され、
行政側から自粛要請が強力に通告され、
開設から5年目の1974に止む無く閉鎖の
運びとなった。
1973のオイルショックによる高度経済
成長の一挙的崩壊と、何でもかんでも
自粛を強要する社会風潮の蔓延も野呂山
スピードパーク閉鎖の背景として存在
しただろう。遊園地や行楽施設も併設
して大変な人手で賑わった広島県の野呂
山も、閑散とした寒山にならざるを得な
かった時代性が1974年当時にはあった。
その野呂山に登ってみようと思った。
何度か登った海側の表からのルートでは
なく、山の裏の内陸部の登頂ルートから
アプローチしようと思った。

すると、なんと通行止め。
土砂災害によるものか。

仕方ないので、海側の国道185号線まで下りて
表側から登ることにした。何十キロかの迂回
ルートになる。

かつての有料道路で、現在はフリー
ウェイのさざなみスカイラインの
途中位置から。

三原地区と並ぶ瀬戸内海の多島地帯だ。
野呂山は六甲に次ぐ瀬戸内海国立公園
内で標高が高い山である。

夏の炎天下。気温が落ちる日暮れ時と
はいえ、野呂山を走っていると、長野の
ビーナスラインの5月ほどではないが、
凍えるように寒かった。気温が下界と
はまるで違う。これは農地開墾が成せ
ても農作は非常に厳しいのではなかろ
うか。
山頂付近のローターリーに出た。
久しぶりにここに来た。

広島県で初めてのロータリー式公道との
ことらしい。
標高741メートル地点。
ここにはかつて小学校があったという。

氷池とは、殖産興業で製氷のために作ら
れた池だった。
NSP閉鎖の後、跡地周辺はオートキャンプ
場となった。
この看板は1980年代のものだろうか。

ロータリー駐車場。
かつては食堂等もあったが、現在は
廃墟と化していた。

路面。さざなみスカイラインもほぼ
このような路面状態。1970年頃の
舗装だろうか。
日本で初めて本格的な舗装道路が広が
ったのは1964年の東京オリンピック
開催と、日本初の高速道路(名神)が
登場してからだった。
それでも、都市部以外の日本全国の
地方は砂利道で整備されていればまだ
良いほうで、雨が降ると通行不能の
ようなぬかるんだ道だらけが日本国内
の状況だった。

日が暮れそうなので、NSP跡地の探索は
後日に再度トライすることにし、下山
することにした。
途中、ハチマキ展望台という見物コーナー
がある。
ここのヘアピンは傾斜度が強いのだが、
かつてはローリング族の見せ場のメッカ
だった。
1997年当時、ここを走ったら、まだ
ローリング族がかなりいた。



四国山脈が遠方に薄っすらと見える。

野呂山の日暮れ。かなり寒い場所だ。
メッシュジャケットだと凍えそうだった。

ベトナム戦争が激戦となったこの年、
繁栄を続ける日本では多くの事が起きた。
安保条約改定阻止に向けて全国で学生
運動とベトナム反戦運動が激化したの
が1960年代末期。
だが、学生運動のピークは1968年であり、
1969年の東大安田講堂での攻防戦が
最後のあだ花の様相を呈した。
しかし、日本は第二次世界大戦の敗戦を
乗り越えて再興し、躍進を続けていた。
モーターリゼーションも発達したが、
1960年前後はまだ四輪車を購入する事など
は、一般国民にとっては戸建て住宅を購入
する程に困難な状況だった。
それが、1970年前夜になると、所得倍増
計画が実り、多くの国民たちが高額な二
輪車や四輪車を家庭で持てるようになって
きた。「マイカー」という造語も誕生し
ていた。大花火が大阪国際万博誘致開催
だった。日本での万博開催は21世紀の
未来の繁栄を予見させることを狙った
大イベントだった。
その1970年。日本国内に実に多くの
サーキットが建設され開設された。
広島県の野呂山は、明治維新後の士族
困窮を救済するために、元武士たちが
開拓団として入植させられ、農地として
山全体を開墾した。
だが、標高839mの野呂山での士族の開拓
団はすべてがのちに離農した。
映画『北の零年』と同じ事が広島県でも
あったのだが、明治新時代が進み、士族
救済措置の殖産としての農業よりも、
工業立国化で工場が多く設立されたため、
そちらに労働人口が流れたためではなか
ろうか。
明治時代初頭から中期にかけて、元武士
たちは、華族に近い上級士族以外は実質
上プロレタリアートとしての労働力を
供給する無産階層でしかなくなっていた。
多くの自由民権運動の壮士がほぼ士族
であったことは、そうした新時代の
「新たな」社会矛盾を肌で感じざるを
得ない階層を多くの労働者たる人民の
中に士族が占めたことが背景にあった
ことも日本史の中で見逃すことはでき
ない。旧知識階級であった旧武士の
士族たちが、あたかも政治的に鋭敏な
大学生たちが学生運動として社会運動
を牽引するかの如き現象が、明治初頭
から中半にかけて日本国内の都市部を
中心に疾風となって吹いていたという
日本の歴史が明治にある。
それから約100年後。
日本は第二次世界大戦での敗戦の困難を
乗り越え、空前絶後の大繁栄をしていた。
GNP(国民総生産)は世界第二位となり、
アメリカ合衆国に次ぐ経済大国となって
いたのが1960年代最後の年の1970年当時
の日本だった。
第一世界の資本主義国家群の中の最先進
国となっていたのが日本だった。
そして、モーターリゼーションの発達
と共に、モータースポーツも大隆盛を
みた。
これより先、1960年代初期から日本は
二輪では世界グランプリに日本メーカー
が参加して世界レベルの車両製造技術
とスポーツとしての競技技術を習得
せんとしていた。
ヤマハなどは初めてレースに出た時に
は「楽器屋がモーターサイクルを作る
なんて途中で分解することだろう」と
欧米からは揶揄されたりしていた。
だが、日本の二輪メーカーは1960年代
に世界グランプリで強さを示し、1970
年代に入ると日本車でなくば勝てない
世界グランプリの図式を打ち立てた。
その日本車でなくば勝てない地球上の
状況はその後40年以上続くのだった。
日本国内に多くの専用閉鎖自動車競技場
=クローズド・サーキットが誕生した
ものの一つに広島県の野呂山サーキット
がある。正式には野呂山スピードパーク
略してNSPと呼ばれた。
だが、国立公園内に自動車競技場を建設
誕生させたため、騒音問題が問題視され、
行政側から自粛要請が強力に通告され、
開設から5年目の1974に止む無く閉鎖の
運びとなった。
1973のオイルショックによる高度経済
成長の一挙的崩壊と、何でもかんでも
自粛を強要する社会風潮の蔓延も野呂山
スピードパーク閉鎖の背景として存在
しただろう。遊園地や行楽施設も併設
して大変な人手で賑わった広島県の野呂
山も、閑散とした寒山にならざるを得な
かった時代性が1974年当時にはあった。
その野呂山に登ってみようと思った。
何度か登った海側の表からのルートでは
なく、山の裏の内陸部の登頂ルートから
アプローチしようと思った。

すると、なんと通行止め。
土砂災害によるものか。

仕方ないので、海側の国道185号線まで下りて
表側から登ることにした。何十キロかの迂回
ルートになる。

かつての有料道路で、現在はフリー
ウェイのさざなみスカイラインの
途中位置から。

三原地区と並ぶ瀬戸内海の多島地帯だ。
野呂山は六甲に次ぐ瀬戸内海国立公園
内で標高が高い山である。

夏の炎天下。気温が落ちる日暮れ時と
はいえ、野呂山を走っていると、長野の
ビーナスラインの5月ほどではないが、
凍えるように寒かった。気温が下界と
はまるで違う。これは農地開墾が成せ
ても農作は非常に厳しいのではなかろ
うか。
山頂付近のローターリーに出た。
久しぶりにここに来た。

広島県で初めてのロータリー式公道との
ことらしい。
標高741メートル地点。
ここにはかつて小学校があったという。

氷池とは、殖産興業で製氷のために作ら
れた池だった。
NSP閉鎖の後、跡地周辺はオートキャンプ
場となった。
この看板は1980年代のものだろうか。

ロータリー駐車場。
かつては食堂等もあったが、現在は
廃墟と化していた。

路面。さざなみスカイラインもほぼ
このような路面状態。1970年頃の
舗装だろうか。
日本で初めて本格的な舗装道路が広が
ったのは1964年の東京オリンピック
開催と、日本初の高速道路(名神)が
登場してからだった。
それでも、都市部以外の日本全国の
地方は砂利道で整備されていればまだ
良いほうで、雨が降ると通行不能の
ようなぬかるんだ道だらけが日本国内
の状況だった。

日が暮れそうなので、NSP跡地の探索は
後日に再度トライすることにし、下山
することにした。
途中、ハチマキ展望台という見物コーナー
がある。
ここのヘアピンは傾斜度が強いのだが、
かつてはローリング族の見せ場のメッカ
だった。
1997年当時、ここを走ったら、まだ
ローリング族がかなりいた。



四国山脈が遠方に薄っすらと見える。

野呂山の日暮れ。かなり寒い場所だ。
メッシュジャケットだと凍えそうだった。

野呂山サーキットについて、一部の人々
の記憶にとどまるのみで、記録さえなか
なか見つからずに存在さえ忘れ去られ
ようとしていた中、綿密に歩いて調査
した方がいる。
力作の調査レポートがまだネット上に
残っているので、紹介したい。
モータースポーツ関係の方の手による
もののようだ。
の記憶にとどまるのみで、記録さえなか
なか見つからずに存在さえ忘れ去られ
ようとしていた中、綿密に歩いて調査
した方がいる。
力作の調査レポートがまだネット上に
残っているので、紹介したい。
モータースポーツ関係の方の手による
もののようだ。
モータースポーツと日本の歴史に興味