
中原中也は大好きだ。
彼がではなく、彼の文学が。
現実的な彼と出会っていたら、多分、何と
はなもちならない嫌な野郎だ、とか思って
いた可能性が高い事だろう。
鉄拳を喰らわしているかも知れない。
長谷川泰子に至っては、もうどうにも受け
付けない。
小林秀雄は、書く物も人物も好きだ。
そもそも、書き手の如何と書いた物は分割
してそれぞれ捉えないとダメだ。
例えナチスの党員が奏でるピアノであろう
とも、演奏は奏者の性質に関する人的資質
とは切り離して捉えるべきで、良い演奏は
例えどんな人物が演奏したものであっても
良い。良いものは良いのだ。
ダダイズムもシュルレアリスムも理解は
できても、それを受け付けるかどうかは
別問題だ。
第一、肌に合う合わないがある。
人と人になると、もっと極端だ。目に見え
ないウマなんてもんが厳として存在する
現実があるからだ。
これらの合致性や感覚の共有性の有無は、
好き嫌い、好意と嫌悪とは別な感覚として
決して払拭できない。
そんなもんだろ、人は。肉の身体には肌が
あるのだから。
多分、おっぱい星人は一生おっぱい星人。
私は星人とは違うが。
でかけりゃいいってもんじゃない。
思索の狭間とは、そうした観念をどう自分
が捉えて自覚しているかによって、その
実存と本質に関する認識の乖離性の幅が
決して来るように思える。