渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

福永武彦『廃市』(1959)

2022年10月29日 | open




福永武彦『廃市』。1959年発表。
1960年出版。

高2の時の模試の現代国語の試験
で、長文問題に福永武彦の『廃市』
の文が引用された。
旺文社だったか学研だったかは忘
れたが、その現国は98点だった。
間違えた1問2点減点の問題は今で
も覚えている。
結果交付後の単科の全国偏差値が
自分としては超絶物で驚いた。
シグマ計算とはいえ、計算値で
は知っていても、こんな偏差値
ほんとにあるんだ、目を疑った。
うちの高校では学年トップ、都内
でも学科別上位に入った。その
時の現国単科のみ。
高偏差値はその回のみだったが、
現国と倫社のみは異様に他の学科
よりは普段高かった。一切専門勉
強などしない。受験勉強さえしな
い。単に評論や文学を読みまく
ていただけだ。玉撞き28時間撞き、
のように。
他の学科はてんでサッパリだ。
英語も「I my me は曖昧味だべ。
ゲヘゲヘ」てなもんだった。
勉強は基本的にできない。基礎学
低い。
大学の受験勉強はした。3週間。

試験で福永と初めて出会ったのだ
が、これは中学の時にカミュ、サ
ルトル、小林秀雄と出会う以上に
感銘を受けた。
研ぎ澄まされた感性で引き込むの
は三島文学だったが、福永の中に
流れる基督教的な脈流に感じるも
のがあった。アンドレ・ジッドの
息吹を感じた。
以降、福永作品に没頭した。


現在住む町を眺めて「まるで廃市
のようだ」と日記に記したら、
脊髄反応で「三原を馬鹿にしやが
って」と文句を言って来た者がい
た。
文学を知らないのだろう。
後年、その時を思い出して感じた。
パスカルを知らず、私のこのウェブ
コラムの副題にあるパスカルの「パ
ンセ」の言葉を勘違いして、私の
この日記をネットで口汚く揶揄中傷
愚弄する時にパンセパンセと連呼す
る族と同族である、と。
根本的に正確な認識が不在だ。

動画サイトで、上綱克彦さんが自分
の広島市内の店で自作曲『青い瞳の
ステラ 1962年夏・・・』を歌う動
画がある。
上綱さんが柳ジョージに引き抜か
れてレイニーウッドのキーボード
として活動していた時に提供した
曲だ。なので、レイニーウッド
の名を出してネットにアップした。
自分のバンド、レイニーウッドの
曲だからだ。
すると、長年のレイニーウッドの
ファンであると称する者が、他人
の曲を勝手に名乗るな、カバーと
書け、歌もせいぜいうまいカラオ
ケ程度でしかない、とコメントに
書き込んだ。
曲を作った本人であると知らず、
また、上綱さん自身がレイニーウッ
ドであったと知らないでそのような
上から目線のかましをしている。
もう、これは笑止しかない。
恥ずかしい事この上無い。
廃市とパンセのくだりも、その自称
レイニーウッドファンと全く同種同
族であるといえる。
つまり、族(やから)ですね。

そうしたヤカラは昔から世の中いる
ようで、映画『キネマの天地』では
その滑稽さが描かれていた。
戦前、映画製作者の部屋に特高警察
「アカ狩り」で踏み込む。
その時、書棚に喜劇俳優のマルクス
兄弟の本があった。
すると特高警察の者は上司に言う。
「見てください。こいつマルクスな
んて読んでやがる」
「とんでもねえ野郎だ」
この時、映画館内でクスクスと
笑い声がした。
無知蒙昧は時として人を人でなし
そのものにする暴力性をその者に
付与させる。
それは、無知そのものが人として
罪であると人に自覚させない。
その無知は、「やっていい事と
いけない事」の判断能力の欠落
に直結する。人として。
無知は罪なのだ。
だが、無知は悪ではない。
知ればいい、知ろうとすればよい
だけだ。
罪であるのは、無知であるのに
人間が手前勝手な独断と思い込み
で、事実を知らずになにか仕掛け
て人を攻撃する事だ。その行為。
だが、その罪たる犯罪的行為の
発現の源は無知による識別力不在
を己がよしとする思考回路に己が
支配されているからだ。
己で己に洗脳をかけているので
ある。
それは知性の不在となり、恥を
構成する。自覚の無い恥。
無知の知、認知の知、知性の知。
この知なる人類固有のものを持た
ないと、人は人ではなくなる。病
気は別として。
倫と理と知の不在。
これは、前述のように、人を虐げ
る暴力性を伴う人間にとっての最
大の危険を発生させる。ナチや
ゲシュタポや特高やカルトのよう
に。
理知的に生きる事を捨てたら、人
はおしまいだ。
人よ、英知とともにあれ。



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