渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

人造物の面白さ

2022年06月05日 | open
 


友人にはプールキューでシャフト
など一切関係なくバットの木目
のみに惚れて買ったキューがあっ
た。目を奪われる程の見事なタイ
ガーメープルだ。

だが、シャフトの性能がまるで
気に入らなかった。そのバットに
は、あるハイテクシャ
フトが標準
装着されていた。

それから友人のシャフト探しの旅
が始まった。
日本メーカーのシャフトや有名な
アメリカンカスタムメーカーの
シャフト等を装着してみたが、
どうもしっくり来ない。
気づくと7年が過ぎていた。

昨日、たまたまだが、キューを30
本程持っている人が、とあるシャ
フトを装着して撞いていた。
友人はそのジョイントタイプが
自分の死蔵品になりつつあるキュー
と同じであると聞くと、試しに
装着試打を願い出た。
試しに撞いてみた。
「うお!」と唸った。
私も撞かせてもらった。
「こ、これは!・・・・」となった。

そのシャフトは、まるでアメリカン
カスタム
キューの超上出来のソリッド
シャフトのような動きを見せたの
だ。
私も友人もソリッドシャフト好き
だが、その二人が撞いても自由
自在に手玉を扱えるハイテクシャ
フトだった。

メイプルの一番良い部分を堅実に
活用して前面に出した製品とな
っている。素晴らしい。
人造物の素晴らしい仕事ぶりが

体現され切った良製品だった。


だが、すでに廃番。
入手には残存在庫等を探すしかない。
ハイテクシャフトの一番ネックの
部分だ。
ハイテクシャフトは「商業流行
商品」であるので、性能如何など
は一切企業側は関係ない。売れ筋
の製品ラインであっても、資本
主義商業資本の論理で、しばらく
したら廃番にして「もっと良いで
すよ」を謳い文句に新製品を出す。
ゴルフクラブのバカバカしい「さら
に飛ぶ」とかいう宣伝文句で毎年
のように新製品を出す商業戦略と
同じだ。そのような大馬鹿風潮は
日本企業が作り出した。すべて
は銭儲けのため。
そのため、どんなに優れている
ハイテクシャフトだろうと、
すぐに廃番にして新製品を「さら
に進化」とか宣伝して発売する。
完璧にゴルフクラブと同じなのだ。
だったら昨年までの製品は✖な
のか?と問いたいが、「時代遅れ」
を嫌う馬鹿な日本人たちはそうし
た新製品発売、新車販売にすぐに
飛びつく。結果バカ売れする。
それのやり口がおいしいと知った
連中が企業のそれを真似てタップ
やチョークで同手口を模倣し始め
る。そして、法外な異常価格で
製品を発売している。
また、馬鹿が多いからそれらが
売れる。
ポケットビリヤードでのグローブ
なども20年数年前まではビリヤー
ド100数十年の歴史の中でほぼ使用
されなかったのに、日本人の某
プロが広告塔となって流行させた。
それが出て来たら、ほぼ圧倒的
大多数の人間が右へ倣えだ。
馬鹿なのか?と思う。
そんなに良い物だったら、大昔から
科学は発達していたのだから、誰
でも使ってたわい、と。
だが、賢者は歴史に学び、愚者は
経験に学ぶ。愚者は目の前の事に
しか興味がない。それで誰もが
金太郎飴。アイデンティティも主体
性も独立自尊心さえも無い。

スポーツにおける道具というのは、
その道具の本当の性能と、資本の
販売論理とは決して同一軸線には
無い。資本の論理は物の良し悪し
を凌駕できない。これは絶対的に。
なぜならば、「売らんがな」の
製品群は資本利潤を第一義とする
ものであり、「良い物」を作る事
を目指すのではなく「売れる物」を
作る事に主軸が置かれる構造にある
からだ。
その資本の論理は、本質的に人間

の意思を介在させない。人間疎外
の構造を貫徹する仕組みになって
いる。
そこには、多くの矛盾と人間疎外、

階級的絶対対立を発生させる構造
になっている。資本主義とはそれ
である。
こうした絶対矛盾を持つ社会構造

は、資本主義が止揚されない限り
強大に死滅へと向かって発展しな
がら存続する。
また、時が経てば経つ程、階級格差
社会となるのは構造的な論理性に
依拠するものであり、これはその
システム自体を抜本的に壊して
新たな人類社会システムを構築
しない限り、死滅への継続性は
持続するのである。

それでも、資本主義社会システム
下にあっても、製品群は良い物は
良いという矛盾が存在している。
医薬品、工業製品、産業生産物等々
単純にその能力だけを抽出する
ならば、良い物は良い物として
の立ち位置を明確にする。これは
資本の論理とは絶対矛盾の立場
を論理的に形成する。構造とその
社会的有益性の連鎖の次元が異なる
のである。

だが、その有益性を具備する存在
性は、その事物が売れているかど
うか、
広告塔の紐付きプロが宣伝
で広め
ているかどうか、世間で流
行っているか
どうかとは一切関係
がない。

物の良し悪しは、そうした潮流とは
全く関係がない独立した存在とし
て厳然とそこに在る。
「みんながやってるから良い」と
か、「みんなが使っているから良い」
というのは、物事の本質とは必ず
しも乖離してはいないケースも稀に
あるが、根源的な部分では、両者は
一切関連性が無い。
これは政治でも同じで、「多くの支持
を集めるから良い政策の政党」という
ものがあるとしたら、それは虚構な
のだ。
「良い政策を出す良い政党だから
支持者が多い」というのが本質的
な真実なのである。
そして、資本論理での商業製品の
場合は、「良い物を消費者に届け
るのが使命」と本気で活動している
企業は一切存在しない。基準軸は
「売れるか売れないか」であり、
売れなければ販売戦略を変えるか、
どんどん「さらによくなりました」
という簡単な路線で新製品を出し
続けるかだ。
そうした資本主義的商業論理は、
例えばお茶であったり、伝統工芸
であったりの世界の物の「良し
悪し」とは一切無縁の構造にある
のである。

かつて、今世紀開始あたりまでは
日本のビリヤード界はそれほどまで
にエコノミックアニマルが餌食と
狙う業界ではなかった。
だが、仕掛け人たちの思惑は大当
たりして、ビリヤード産業界は豹変
した。どんなに良い物でもどんどん
捨てて消費させる方向に完全シフト
したからだ。
そして「流行」が大好きな人間
たちがそれを支えている。金太郎
飴、銀河鉄道999のような機械の
体を求めても結果としては機械の
歯車の一部になってしまうように。


友人は7年目にして、まさにジャスト
フィット、ベスト・オブ・ベストの
シャフトに出会った。
だが、廃番だ。
アンテナを張り巡らして新古、中古
の出物をリサーチしまくりで探すか
しかない。
まだ彼のシャフト探しの旅は、これ
からも続く。



 

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