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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

映画ロケ地めぐり 「こんにちは赤ちゃん」(1964) ~横浜市中区~

2025年08月09日 | open

1964年映画
【こんにちは赤ちゃん】
【横浜市中区】【吉浜橋】
【横浜中央病院】【吉田橋】
【吉田町第一名店ビル】
【カモメホテル】【横浜マリ
ンタワー】【和泉雅子】
【芦川いづみ】【川地民夫】
【派大岡川】


私が幼い頃の横浜。
抱かれている子はたぶん
私の3~4才年下だろう。

両親に連れられて食事し
に行った横浜中華街は、
まだ
「南京町」と呼ばれ
てい
た。
勿論現在とは全く景色も
異なり、二階建ての古い
建物がずらりと並んだ路
地裏の飲食店街のような
雰囲気だった。
夜の街灯は暗かった。


こうした横浜の戦後の雰
囲気は、1980年代末期の
バブル経済開始頃までは
残っていた。
無論1970年代末期に私が
大学
生になった頃は戦後
もなくの頃や私が生ま
た戦後15年目の1960年
頃とさして風景に変わ
りはなか
った。
横浜だけでなく日本の都
市部が大きく様変わりし
たのはまず1964年の東京
オリンピックの時に都内
都心部が大激変した。
それまでに江戸城の濠が
あちこち埋められて、数
寄屋橋の下には掘割が亡
くなった。
この年に新幹線が開通し、
高速道路が日本に誕生し
た。戦後20年を迎える前
に日本は大きく様変わり

したのだった。
一面焼け野原と化した東

京や広島を戦後数年で復
活させた日本の力は「東
洋の奇跡」と世界中で賞
賛された。

第二期大変動が1970年の
日本大阪万博の頃で、交
通社会の発達に伴い、国
内の道路事情が大幅に手
直しされた。
首都圏では年がら年中道路
工事をしていた時期。
新宿の副都心開発が進み、
淀橋浄水場跡地に超高層
ビルの建設が進められた。

第三の日本国内大変身が
1980年代末期のバブル経
済の頃で、地上げ再開発
ブームにより、東京都心
部の風景が一変した。
ゴミの島だらけだった臨
海エリアが整備され、ま
るで近未来都市のような
街が新たに東京に作られ
た。
首都高も整備され、その
臨海エリアの東京湾に橋
がかかり、さらに横浜港
にも大きな高速道の橋が
かけられた。
日本の都市部は戦後から
現代にかけて、大まかに
分けて1964年、1970年、
1988年に大きく変貌した。

私が2000年前に岡山に転
勤赴任した時、かなり懐
かしさを覚えた。
岡山には降り立ったこと
はそれまで生まれて一度
も無かった。
だが、懐かしさがあった。
それは路面電車が走り、
歩道にガードレールが無
く、街並みの低いビル群
と古い建物が並ぶ岡山駅
周辺の景色が1960年代の
東京の景色にそっくりだ
ったからだ。
今は岡山駅周辺もまるで
様変わりしてしまい、往
時の面影はほぼ無くった。
そうそう。
1980年代末期の首都圏の
街の大改造と共にもう一
つ大きく様変わりした事
がある。
それが大学の建物の再建
築だ。
明治から続いた古い伝統
大学の多くが、建物を再
建築し、まるで宇宙局の
ような建物ばかりが都内
の多くの大学の学舎とな
ってしまった。
それが1980年代末期の都
内の一つの風景だった。

そして、21世紀に入り25

年が過ぎる今、戦後第四
の波が国内に押し寄せて
いる。
それは鉄道駅周辺の大再
開発と超高層ビルの共同

住宅であるタワマンの建
設ラッシュだ。
これは首都圏で開始され、
大阪はじめ主要都市部で
タワマン建設ラッシュが
相次いで
いる。
主要都市の駅前再開発も
全国各主要都市部で進め
られている。
これは流れとしては戦後
第四の流れに今あるとい
えるだろう。
俯瞰するに、凡そ20年乃
至25年=四半世紀スパン
で都市開発や再開発の大
きな動きがあるようだ。
ただ、日本はヨーロッパ
やアメリカ都市部のよう
に古い建築物を残して、
れと融合するような新
都市
計画は苦手のようで、
面的にまっさらにして
まうような活動が過去
ら現在に至るまで見ら
る。
そのうち、日本国内の都
市部は京都を除いてドバ
イのような景観ばかりに
なるような気がする。

1964年の横浜。
東京オリンピックがあった
年のヨコハマである。


この1964年のハマの街の雰
囲気は、
1981年のTVドラマ
『プロハン
ター』でもまだ
残されてい
るのが作品の中
に映ってい
る。
それが、1980年代中期か

2000年代に入る頃まで続く
『あぶない刑事』では、だ
んだんと横浜が変貌してい
く姿も作品に収められてい
る。まだ浅野温子が妙竹林
なキャラに変貌する前の作
品から最新新作までの間に。

映画やドラマの映像作品は、

それが製作された頃の俳優
たちの当時の姿が映るだけ
でなく、
その当時の日本国
内の街の姿や人々の
様子を
そのまま残す記録映
像にも
なっている。

まるでタイムマシンに乗っ
たように、現代の私たちは
その過去の実像を実写で観
る事ができるのである。
吉永小百合が高校生の時の

名作『キューポラのある街』
などは、戦後の日本の零細
工業を支えた埼玉県川口市
の鋳物の街の様子が1962年
の作品映像に残されている。
そして当時の社会情勢、国
際情勢をも抒情的ではなく
シリアスに描いた作品とし
て『キューポラのある街』
は名作の名に恥じない。
映画やドラマ、映像作品と
いうのは素晴らしい。

現在のマリンタワー。


1960年代のハマ育ちからし
たらこれは結構ショックだ。
色がシルバーになっている。
通天閣かっつーの。
マリンタワーてのは大昔の
1961年開業時からビシッと
赤白のジャパンカラーだろ
さ~。当時の航空法の関係
からだけどさ。
1989年の改修で赤白のグラ
デーションになったのはま
だいい。
しかし、2009年大改修のこ
のシルバーは無機質すぎて
いけねぇや。
まあ、2006年にマリンタワー

と氷川丸は経営不振から営
業を停止して売却されての
リニューアルだったのだけ
どさ。1991年には150万人
以上の来訪者だったが、営
業停止時は45万人以下。
売却後は耐震工事を施して
再オープンとなった。
銀色になったのも衝撃だが、
マリンタワーと氷川丸が終
了のニュースは激震ものだ
った。
東京タワーが無くなります、
みたいなもん。
似たようなところでは、広
城がことし公開終了、解
される。
再建のプランは今のところ
具体的には無い。
原爆で倒壊した江戸期の広
島城だったが、戦後鉄骨建
築で外見を復元して再建さ
れた。形は江戸期のままだ。
だが、広島城は間もなく消
滅する

広島駅電停ビルを新築した
り、
タワマン建てまくった
り、地域密着型の
大型商業
施設マリーナホッ
プを消滅
させてトヨタが自社広報

イベント会場を作ろうと
も、
広島城の再建計画が具
体的
に検討される事は無い。

 
1961年の開業から2009年ま
ではマリンタワーは赤白だ
った。
これは俺がかみさんとハマ
で暮らし始めた1980年代の
氷川丸とマリンタワー。
湾橋もまだないよ。

空が近かったね。

 
こんにちは赤ちゃん(1963)


 


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