goo blog サービス終了のお知らせ 

渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

戦国大名たち 武士の群像

2021年09月12日 | open


天下を獲った徳川家康は、豊臣家
潰しに持って行った大阪冬の陣、
夏の陣の前に、外堀を埋めた。
豊富家のかつての重臣たちが軒並み
立て続けに「病死」しているのだ。

<慶長16年(1611年)>
・浅野長政(4/7没、新暦5/29) 65才
・堀尾吉晴(6/7没、新暦7/26) 69才
・加藤清正(6/24没、新暦8/2) 59才
<慶長18年(1613年)>
・池田輝政(1/25没、新暦3/16) 50才
・浅野幸長(8/25没、新暦10/9) 38才
<慶長19年(1614年)>
・前田利長(5/20没、新暦6/27) 53才

こんな徳川家にとって都合の良いで
すぎた話は無い。
毒殺だろう。
かくして、豊富家に謀叛の疑ありと
して家康は前田利長死亡後に豊富方
の結束にヒビが入った機を見計らっ
て、慶長19年(1614年)10月11日、
駿府から出撃した。
幕府側20万の兵力で豊富方を制圧。
これが大阪冬の陣だ。
翌年慶長20年(1615年)には、再度
豊富方残存勢力の討伐に出る。
5月5日に京から家康は出撃。大坂
を主戦場として戦闘を展開する。
この時は、豊富方も奮戦し、一時
家康に切腹を決意させる程まで迫る
のだが、多勢に無勢、数で勝る幕府
側がじりじりと押し返し、ついに
完全勝利する。
戦後処理が熾烈で、その後10年以上
豊富方に与した大名から足軽に至る
まで徹底的に探索追撃処刑が行なわ
れた。
この時、豊富秀頼の子国松は潜伏中
捕縛され処刑された。
こうして応仁の乱(1467年)から続い
た長き戦乱の時代は終わりを告げ、
「元和偃武」という平和政策が始ま
った。

徳川幕府は、外国からの圧力で国内
騒擾状態となる幕末にあたり、西国
諸藩の叛乱によって倒されるまで、
以降250年の長きに亘り磐石の体制
を築き上げたのだった。
方法は飴と鞭。
そして、それを仕掛ける前には相手
方の体制をありとあらゆる手を使っ
てガタガタにする。ハニートラップ、
毒殺、濡れ衣、なんでもありだ。
同盟に対しては、仲間割れの構造に
なるように策を巡らす。
徳川家康、まことにおそるべし。
徳川慶喜、おそるるに足らず。将兵
を捨てて自分だけ逃げる将軍など、
古今東西、イクサを専らとする種族
において聞いたことない。
ただ、幕末の一件は、これまた西国
諸藩に有利なように将軍と天皇が相
次いで都合よく連続して「病死」し
た。
多分、それで利を得た勢力の首魁た
ちは、徳川家康の手口をかなり研究
したのだろう。

いやあ、それにしても、歴史の裏で
動いた実行者たる影の者たちの存在
は恐ろしい。
下手したら、「徳川家康」さえも、
首をすげ替えられた影武者だった
かも知れない。



この記事についてブログを書く
« 台風14号到来 | トップ | くず »