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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

三原鍛冶のルーツ探訪 ~備州国分寺助国について~(2012年8月10日記事再掲)

2025年03月12日 | open


三原鍛冶について、現地調査
の写真を紹介しながら、これ
までの研究の中間的まとめを
多少書き綴りたい。
今回は日記というよりも、文
献等の出典を明記して多少な
りとも学術的な検証を試みて
る。

【一、三原という地名について】
備後三原の「三原」は明治以
前には「ミワラ」と発音した。

『鍛冶銘集』(正安年間-1299
年~)には明確に「みわら」と
記載されている。

さらに古い文献では、源順(み
なもとのしたごう)が承平年間
(931年~)に
作成した辞書で
ある『倭名類聚抄』には「柞原
郷」とあり、発音は「ミハラ」
したようだ。
しかし、漢字の「柞」と「原」
を合体させた「柞原」の場合、
古語においては
「ははそ-はら」
と読むのが常であった。

「ははそはら」とは「柞(はは
そ)」の多く生えている原とい
う意味で、和歌では
母の意を含
むことが多い。新続古今・哀傷
には「母みまかりて柞原
散りし
別れを思ひ出て けふ
このもとは いがかしぐるる」
とある。

「柞」という漢字で表わす樹木
は二種類あるのでややこしい。

ひとつは前述した「ハハソ」だ。

ハハソとはコナラなど「酋
(おさ)の木」と書く楢(ナ
ラ)などのブナ科コナラ類の

総称のことである。英語で言
うと oak がこれにあたる。カ
ブトムシが生息する
クヌギな
どもこれにあたる。ドングリ
の取れる木のことだ。

また「柞」はイスノキとも読
む。イスノキとはマンサク科
の常緑高木のことであり、

ったくハハソとは別種である。
イスノキは別名ユスノキ(梼
の木)、ユシノキ、
ヒョンノ
キなどとも呼ばれる。高木と
なるので神社仏閣の境内に植
林される
ことが多い。粘りが
あるために和楽器の三味線の
棹に使われたり、木刀などに

使用された。

そして、「柞」の字は「ク」
とも読み、「柞原」を「クハ
ラ」、「クバラ」と読む地名
存在するので、かなりやや
こしい。『倭名類聚抄』に記
載された「柞原郷」が
ミハラ
ノサトであり大分一宮の地で
あるユズハラ、ユズハルでな
いのが不思議に
思われるが、
現在も使用している「三原」
という字の初見は文献上は
『伯耆志』
(景山粛-江戸時
代幕末)が指摘しているよう
に足利尊氏が佐伯荘司へあて
檄文に「備後國三原」とあ
り、その日付が「観応元年
(1350年)霜月八日」である

ことが初めてであるようだ。
観応とは南北朝時代の北朝側
で使われていた元号
である。
つまり、日本の文献資料上は
「三原」という文字は南北朝
時代以前には今のところ
出て
来ていない。


「三原」という文字が太刀銘
(刀のナカゴの部分に切る銘)
の中で最初に
出てくるのは、
文和2年(1353年)の「備後
國三原住兼光」というものだ。

この刀剣銘は、文献上では
『校正古刀銘鑑』(本阿弥
長根-文政13年)および
『掌
中古今刀剣銘鑑盡』(大西義
方-文政10年)に記載されて
いる。

文献上も歴史資料の価値が
ある刀剣銘上も「三原」と
いう文字は南北朝
以前には
登場していない。

さらに下って、室町末期の
『三好下野入道口伝』には
「備後國三原」を「にし原、

あく原、こもが原の三つの
原に起源とす」としている。
さらに約400年後の江戸期

幕末に広島藩の命により編
纂された『三原志稿』(青
木充延、青木充実-文政)

は三原を「湧原、駒ケ原、
小西原の三つの原から出る
川が海に注ぐ所とす」と

している。

室町末期と江戸末期の文献
に見られる三原の地名の解
釈は合致しており、
現三原
市内を流れる三つの川の源
流の三つの原という解釈に
なっている。

だが、三原は地質調査によっ
て、戦国末期までは現在の
市内の大半は海中で
あった
ことが判明している。
三原の町は戦国末期の天正
年間に海上の大小の
小島を
繋いで埋め立てて城が造ら
れた際に建設された町だ。
中世以前は
現在の広島空港
の山のふもとまで大きな入
り江で海だったのである。

従って、平安時代の承平年
間に書かれた『倭名類聚抄』
にある「柞原郷」は
室町末
期以降現在の三原とは土地
の形状、景観がかなり異な
ったことになる。
当然にして「三つの原」を
意味する「三原」は登場す
べくもない。ハハソあるい
はイスノキが生い茂る山間
部が急峻に海風と海面にさ
らされる土地だったことで
あろう。
それを裏付けるものとして、
後述するが、現在刀剣界で
「三原物」と一括りにされ
ている「三原物」について、
三原鍛冶と尾道鍛冶がいつ
頃から分立したのか、とい
う問題提起があり、このこと
は三原鍛冶のルーツを探る
アプローチそのものの一環
に属する検証であるのだが、
その中で古書に「三原津」
と「尾道関」という表記が
見られる。
「津」と「関」は読んで字
の如くであり、「津」は海
洋の「湾」を指し、「関」
とは海峡のことを指す。
尾道は古代から本州から見
て目の前に向島(むかいし
ま)が迫っており、まるで
河のような水道に面した湊
であった。
ここではその景観を表すも
のとして「関」が使われた
のだろう。
一方三原は、室町末期以前
には現在の三原駅から15km
以上北西部の山間地域まで
大きな入り江となっていた。
現在の三原市内はほとんど
海中である。これは景観と
しては「津」以外の何もの
でもない。
現在の三原市の地形とは大
きく異なる中世までの「ミ
ハラ=ミワラ」の形状は頭
に入れておく必要がある。
なぜならば、この後に説明
する「三原鍛冶とはどこで
作刀し、どこの地を三原と
呼んだのか」ということと
大きく関わってくるからだ。

【二、三原物、三原鍛冶に
ついての概要】
三原物あるいは三原鍛冶、
備後三原派と呼ばれる刀工
集団は鎌倉末期もしくは南
北朝初期に「ミハラ」なる
地に現れたと刀剣界のこれ
までの見解では比定されて
いる。
三原城は天正10年(1582年)
に小早川隆景によって海上
の島々をつないで築城された。
小早川氏は遠祖を鎌倉期の
土肥実平に辿ることができる。
土肥氏は桓武平氏良文流の中
村氏の出自で、相模国足下郡
(現在の神奈川県足柄下郡)
の土肥郷を主とした早川庄
預所を勤めていた平安末期
から鎌倉初期の武士である。
源氏の挙兵の際には嫡男の
遠平と共に武士団である中
村党を率いて相州伊豆源氏
方に馳せ参じ、源頼朝の信
任を得た。謹厳実直な武士
らしさから源氏軍の重鎮と
して扱われていた。
土肥実平は平家討伐の恩賞
として安芸国沼田荘(現在
の広島県三原市本郷町)の
地頭職を拝領して相模より
赴任してきた。実平の嫡子
の遠平の時代に出身地の相
模国土肥郷の北部にある小
早川(現神奈川県小田原市
付近)の地名を偲んで小早
川という名字を称したのが
小早川家の始まりである。
小早川家嫡男は室町末期に
病弱にて廃絶の危機に遭う
が、毛利家から養子に入っ
て小早川家を継いでいた毛
利元就の子である隆景が沼
田・竹原両小早川家を統一
して家を存続させている。
その室町末期の戦国武将で
ある小早川隆景が現存する
三原城を造った。
現三原市本郷町にある山城
の高山城、新高山城から小
早川隆景は三原城に移り、
四国大洲城攻めで戦功あっ
て伊予一国を拝領した際も、
隆景は三原に愛着があった
ためか本拠地は三原のまま
としている。備後国・安芸
国東部の領主であるばかり
か、伊予一国の領主となっ
ても三原を根拠地としたの
である。

この頃、三原城築城以降の三
原鍛冶は、小早川三原城内の
「鍛冶屋敷」と呼ばれる場所
において鍛刀していた。
これは三原城内にあたり、現
在の三原市館町(やかたまち)
になる。住居表示実施以前の
地番は館町(やかたまち)602
番地だ。
古くは三原鍛冶が焼き入れで
使用した井戸が残されていた
が、現在は鉄道施設拡幅(新
幹線敷設)のため取り壊され
ている。

三原鍛冶の井戸(昭和12年撮影)
館町602番地


この三原城内三原鍛冶の鍛冶
屋敷のことは、文献上では
『白石先生紳書』(宝永2年)

および『芸藩風土記』(勝島
翼斎-享和3年)に見られる。


三原城古地図(赤丸が曲輪内の鍛冶屋敷位置)


旧三原城と現在地図を重ねた
マップ
(赤丸がかつての三原
鍛冶屋敷の場所。茶色部分が
旧三原城)


実は三原駅構内にも三原城本
丸の石垣は残されたまま駅舎
が建設されている。
北口と南口を抜ける駅構内通
路には戦国期の石垣がそびえ、
異様な光景を醸し出している
が、地元三原の人間もこの場
所をあまり知らないようだ。


三原城内の鍛冶屋敷があった
曲輪跡の看板は路上に建って
いる。
少し位置がずれているように
思える。この位置は曲輪石垣
の東北端あたりではなかろうか。
だが屋敷でなく曲輪の場所説
明なので端っこであろうと間
違いではない。



三原鍛冶は、三原城築城後に
は銘の例として「三原住正真」
などが見られる。
正真は文禄3年(1594年)から
江戸期の正保2年(1645年)ま
での年紀銘が現存しているの
で、かなり息の長い刀工だっ
たといえる。
注目すべきは、三原城主が小早
川氏から江戸期に入り福島氏と
なり、その後紀州から入封した
浅野氏となった江戸期において
も同所で鍛刀を続けていたこと
だ。
このことは、三原鍛冶のルー
ツの探訪と行方という問題を
考察するにあたり極めて重要
な視点が必要となることを指
し示す。
事実、三原に住した三原鍛冶
本流の三原正近の子孫は生口
吉兵衛といい、明治末まで三
原の同地で鍛冶職を続けてい
た。(『刀剣と歴史』高瀬羽
皐-明治43年)
三原城内の三原鍛冶遺跡は生
口氏の先祖が使用していた井
戸と比定してなんら差し支え
ないと思われる。

一方、現在の三原市内、三原
駅から数キロ東に上った場所
に「刀水」と呼ばれる湧水地
があり、そこが三原鍛冶が使
用した水の場所であるという
伝承がある。
場所はJR糸崎駅の西方500m程
の所である。
現在のJR糸崎駅は明治25年
(1892年)に山陽鉄道が尾道
から御調郡糸崎(いとざき)
町まで延伸するにあたり「三
原駅」として開通した。
しかし、明治27年(1894年)
山陽鉄道が広島まで延伸する
際に、三原城の上に鉄道駅を
造ることになり、御調郡三原
町の駅が「三原駅」となった
ため、糸崎町の三原駅は「糸
崎(いとざき)駅」と改名さ
れた。
三原の町中に鉄道を敷設する
のは、新規埋め立て港湾地区
を持った三原町の工業立地化
と移動の利便性のために必至
ではあったが、平地部分が極
度に少ないため、やむなく小
早川が築いた三原城の真上に
駅舎を建設するという全国で
も例を見ないような大胆な発
想を実現させたようだ。維新
文明開化から四半世紀の後の
ことだった。
三原城は本丸敷地面積が日本
一で、海から見ると海上に浮
かぶ様であったため「浮城」
とも呼ばれ、そのまま遺構が
残っていたら世界遺産にもな
っただろうと言われる名城だ
った。現在では、名城であっ
た威風は取り壊されて一部し
か現存していない。城下町も
明治から続く開発により、江
戸時代の風情はほとんど壊滅
している。

北側の山側から見た三原城

この図で左端に帆船が見える港
が糸崎の港である。


この糸崎駅界隈の地名は、かつ
ては「いとざき」と駅名同様正
しく発音されたが、平成18年の
住居表示実施に伴い地名が「い
とさき」との発音に変更された。
駅は現在も「いとざき」のまま
だ。
この糸崎駅の西方約500mにあ
るのが「三原鍛冶の井戸」と
される旧湧水地である。

三原鍛冶の井戸。(平成24年7月16日撮影)




井戸の外枠は三原城内(旧館
町602番地)に存在した三原
正近=生口氏の井戸に酷似し
ている。新たに作られた外枠
だけに何らかの作為を感じざ
るを得ない。

説明書きの看板。


ここで不明瞭な事実が浮かび
上がってくる。
まず大前提として、鎌倉期の
「正家」がこの地どころか
「三原」なり「柞原」なりで
作刀したという文献上の記録
は一切発見されていない。
しかも、鎌倉時代においては
「三原」という文字地名表記
は存在していなかっただろう
ということは文献資料上から
比定されているのは前述した
通りだ。
ただし、なんらかの鍛冶に
まつわる伝承は残っていたの
だろう。藩主が浅野家の広島
藩時代の文政2年(1819年)
に藩命を下し、家士が調査し
て、地元伝承の「鍛刀の清水」
と云い伝えられる場所を「正
家遣い申す水の由」と憶測で
報告を上げている。
事実としては、文献的資料が
現在のところ一切存在せず、
単なる伝承があるゆえに幕末
に見過ごすこともできずに調
査したのであろうが、結果と
しては「云われているのはこ
こだろう」という程度の調査
結果に留まっている。
これを以て「こここそが三原
鍛冶、鎌倉時代の正家が使っ
た清水なり」とするのはあま
りにも安直で我田引水である
し、さすがにこの清水の案内
板は教育委員会が掲示した看
板と文言ではない。
伝承などは、それを裏付ける
考古学的遺跡や歴史学的文献
によって科学的に裏打ちされ
ない限り、それを「真実」や
「事実」としてはならない。
まして、三原鍛冶の遠祖ルー
ツがどこであるのか、学術界
や刀剣界でも異説諸説乱立の
状態であるのに、「我が祖先
は三原正家で、時代は天平年
間、我が家は由緒ある名家で
ある」という内容で三原鍛冶
本流の子孫を僭称して「三原
正家」なるウェブサイトを公
開している尾道の三原派鍛冶
の一分派の末葉がいるが、そ
の行為は科学的な学術研究の
進展と学問の真理探究の阻害
要因にこそなれ、健全な学術
研究や学問の発展にはなんら
寄与しない。そういう歴史の
事実を捏造歪曲して私(わた
くし)する行為はやめるべき
だ。
尾道の丘の上に観光城を建て
てあたかも名所のように振舞
う愚行と同じで、何も知らない
一般人をして錯誤を誘導せし
むる行為は厳に慎むべきだと
私は思量する。

ちなみに、天平時代は、御存
じの通り「天平の甍(いらか)」
の奈良時代、729年~749年の
頃のことである。日本刀など
は存在せず、日本の刀剣はま
だすべてが「直刀」の時代だ
った。
その時代に「三原正家」なる
「刀鍛冶」が存在して、それ
が備後三原鍛冶の始祖となっ
たのであるならば、日本の歴
史研究に大きな新説をもたら
すので、是非とも根拠文献な
り考古学的事物の出典表示を
お願いしたいと切に願ってい
るが、出典は未だに明らかに
されないまま「史実である」
とウェブでは公的に表示され
ている。ただし、刀剣界や学
術界では一切無視されている
のが事実、現実である。
三原市糸崎町にある「刀水」
の伝承地にしろ、尾道の一分
派の子孫のウェブサイトにせ
よ、それが「公式」と銘打つ
限りにおいては、科学的な裏
付けなしに歴史検証の「断定」
をするのは極めて危険なこと
であり、そこには学術的研究
という公正中立な視座を放棄
した「おらが自慢」の意識が
行動の源となっており、冷静
さを欠いた知的生産活動では
ない所業との誹りを受けても
致し方ないように思える。
(2025年追記。件の氏は尾道
市内に「日本刀発祥の地」の
モニュメントまで私的に勝手
に建立してしまった)


【三、三原鍛冶とは】
(一) 三原鍛冶の特徴
三原鍛冶の作品には刀剣界で
「三原兼(かね)」と呼ばれ
る独特の銘切りの鏨(たがね)
運びが存在する。
それは、備前や関の「兼」と
は違っていて、明確に楷書体
で銘を「兼」と切る。関など
はいわゆる「魚兼」と呼ばれ
る崩し書体で銘を切るのが特
徴だ。
「三原兼」の特徴を表す三原
派の刀工には南北朝期の兼光、
兼安、兼次などが存在する。
三原の三原城は戦国末期の天
正年間に小早川隆景が築城し
たことはすでに述べた。
だが、それ以前に三原の地に
城が存在しなかったのかとい
うとそうではない。
小早川三原城から300m程北
に桜山という小山がある。
その頂上に鎌倉時代に山城が
築かれていた。
その山城は文永の役(1264年)
には山名氏が立て籠もり(『芸
備風土記』勝島翼斎-元和3年)、
応仁の乱(1467年)には三原
清五郎が立て籠もった(『三原
志稿』青木充延、充実-文政)。
ただし、前述したように「三原」
という地名は鎌倉期には出て
こない。土地に原がなかった
からだ。たぶん、現在の桜山
ふもとまで海面だったのだろ
う。景観としては、海面に突き
だした半島の頂上に構えた砦館
だったと思われる。その頃の海
岸線は、現在よりも内陸部にあ
り、まだ三原城が現れる120~
320年前のことであるので、当
然にして三原城内の鍛冶屋敷も
海中ゆえ存在せず、糸崎の「刀
水」なる清水も海岸線上にある
ので存在は考えられない。そこ
に三原鍛冶がいることの科学的
合理性は一切見出せない。
では、数百年後の後年にいわゆ
る「三原鍛冶」と呼ばれた刀工
は、鎌倉末期から南北朝期に
かけては、どこにいたのか。
それは、もっと内陸部にいたと
考えるのが妥当だろう。

三原鍛冶の足跡、遠祖のルー
ツを辿る前に、三原鍛冶につ
いての概要を再度確認してお
こう。
三原鍛冶とは、『能阿弥本』
(能阿弥真能-室町)によると、
「三原物は下類で値も安かった
が、応仁の乱で切れ味の勝れて
いることが分かり世に注目され
るようになった」というような
記述が見られる。
現在まで続く「三原物=一段も
二段も下作の実用刀」というま
るで肥後同田貫に対するような
認識は、実は室町期にすでに存
在していたようだ。
これは私見では、後鳥羽上皇の
御番鍛冶を勤めた刀工の殆どが
備前備中に集中していたことに
よる「備前至上主義」がもたら
した現在まで続く刀剣界の睥睨
観が背景に存在すると思われる。
もう一方では、確かに備前の刀
は明治以降に刀剣学習のために
作られた「五箇伝」(大和伝、
山城伝、備前伝、相州伝、美濃
伝)の中の雄であり、事実名刀
が頗る多いことも挙げられる。
現代刀工においても、備前伝を
目標に作刀する刀鍛冶は幾多存
在しても、三原物を目標とする
現代刀工が皆無であることを見
ても、備前伝の優れた側面とい
うのは大きなものがある。
ただし、備前の刀剣も、勿論、
古の時代にはすべて実用刀であ
った。
備前刀の特徴はここでは割愛す
るが、刀姿も身幅も地鉄も焼き
刃も実用刀として最高峰に位置
すると言っても過言ではない。
無論、源平合戦の頃は多くの武
将が備前刀を愛用したし、その
後の南北朝や室町戦国の時代も
備前は日本一の刀工数を誇る利
刀の一大生産地だった。

一方三原鍛冶は、古来より大和
伝の作風が強いとされている。
備前-備中-備後と西に向かう
につれて大和伝が強くなってい
ることは刀剣を見ればすぐに
判明するが、これらは何に起因
するのか。
次の項で多少なりとも、備前と
三原鍛冶の関係性を紐解くアプ
ローチを試みる前に、三原刀に
ついておさらいしたい。

(二) 三原鍛冶の流れ
三原派と呼ばれる刀工集団は
不思議なことに数ヶ所に点在
し、時代も微妙にズレがある。
刀剣界で定説とされている主
だった三原鍛冶の区分につい
て箇条書きで説明しよう。

(1) 古三原
(イ) 概念規定
概念規定は古くは諸説あった。
・始祖正家のみを「古三原」
と呼んだ説(『三好下野入道
口伝』三好下野守-室町末期)。
・正家と正広のみを「古三原」
と呼んだ説(『如手引抄』三
宅重行-慶安3年/『古刀銘盡
大全』仰木伊織-寛政3年/
『未燈記』(異本)-江戸初
期/『空中斎秘伝書』竹屋-
江戸初期)。
・与正、正家、正広を「古三
原」と呼んだ説(『古刀賞監
伝』今村幸政-文化元年)。
・南北朝期の三原物を総称す
る説(『古刀銘盡伝書』(刀
工鎮次本)永禄2年)。
※ただし、明治以降は「古三
原」とは、南北朝の三原物を
総称するようになった(『新
刀古刀大鑑』川口陟-昭和5年)。

(ロ) 特徴
・刀姿・・・・・・鎬(しのぎ)
 高く、鎬幅が広い
・地鉄・・・・・・小板目に柾
 まじり
・刃文・・・・・・直刃
・切味・・・・・・作風は地味
 だが、切味は抜群(『古今鍛冶
 備考』山田吉睦-文政13年/
 『懐宝剣尺』柘植方理-寛政9年)

(ハ)その他
目利き数え歌(『目利書国々
図入』嘉吉元年)に次の歌あり。
「古三原は 沸匂広くやきまぜて
 板目の肌を上に現す」

(2) 末三原
(イ) 概念規定
古三原が諸説あるので、当然
それに連動して諸説ある。
・応永(1394年~)頃以降の
 物とする説(『南朝紀伝』)。
・寛正(1469年~)頃以降の
 物とする説(『日本刀の掟』
 本阿弥光遜-昭和30年)。
・永正(1504年~)頃以降の
 物とする説(『刀剣鑑定講
 話』本阿弥光遜-大正14年/
 『日本刀大百科事典』福永酔
 剣-平成5年)。
・天文(1532年~)頃以降から
 文禄(1592年~)頃までの物
 とする説の物とする説(『新
 刀古刀大鑑』川口陟-昭和5年)。

起源の諸説のうち、福永酔剣
医学博士は永正説を採用して
いる。理由としては永正期に
正奥、正おく(奥の米部分が
メの字)、正近、正直など多
くの刀工が出現したためとし
ている。

(ロ) 特徴
・刀姿・・・・・・反り浅く、
 鎬(しのぎ)高く、菖蒲造も
 あり
・地鉄・・・・・・小板目やや
 肌立ち、白気映りや澄み肌現
 れる
・刃文・・・・・・直刃を主と
 するが、互の目も焼く
・帽子・・・・・・小丸、返り
 は滝落としや虎の尾返りとなる

【四、国分寺助国について 
~三原鍛冶の始祖か~】
三原鍛冶の遠祖である備州国
分寺助国という刀工について
は、その出自や系統や鍛刀地
について、諸説の異説が存在
する。
それをまず整理してみよう。

(一)備後説
主として銘による判断に基づ
いている。
 例)「備州国分寺住人助国作」、
「□□(不明)国安那東条助国」
<この説に基づく文献>
(1) 『往昔抄』斎藤元粛-永正3年
(2) 
『古刀銘盡大全』仰木伊織-
 寛政3年
(3
) 『光山押形』本阿弥光山-
大正6年
[備考]
安那郡(やすなごおり)は備後
国で、現在の広島県福山市神辺
町。
東条とは現神辺町中条の東部に
あたるが、現在は地名は消滅し
ている。(後述画像説明)
国分寺の地名は残っており、唐
尾山国分寺という真言宗の古刹
として現存している。(後述画
像説明)
『倭名類聚抄』では安那は「夜
須奈」と記している。また、
「あな」とも発音する。
文字は「婀娜」と書くこともある。
(『日本書紀』広国押武金日天
皇2年5月9日条には「婀娜国」と
記載してある)

(二)備前説
主として作柄による判断をして
いる。
<この説に基づく文献>
(1) 備前にて小乱を焼く
(『正和銘鑑』(観智院本)
応永30年)
(2) 福岡一文字延真の末の
助村の子とする説(『古刀
銘盡大全』仰木伊織-寛政
3年/『長谷川忠右衛門刀工
系図』長谷川忠右衛門-元
和元年/『日本国鍛冶惣約』
長谷川忠右衛門-元和2年)
[備考]
この説は備前から移動し、国分
寺尼寺(にじ)跡付近で鍛刀し
たともしている。
なお、備後国分寺は国分寺尼寺
から500m程東にあり、再建寺
院が現存。
国分寺尼寺は平安時代にすでに
廃寺となっている。
(3) 備前一文字派とする説
 (『如手引抄』三宅重行-
 慶安3年)
(4) 備前国分寺派であり「新作
 物」に入るとする説(『上古
 秘談抄』竹屋家-元亀元年)
[備前説の問題点]
→銘に「備前」と切った助国の
 作は存在しない。

(三) 同人説
備前国分寺助国と備後国分寺
助国を同人とする説。
(『古今鍛冶備考』山田吉睦-
文政13年/『古刀銘盡大全』
仰木伊織-寛政3年)

(四) 別人説
(1) 備前と備後を別々に掲示
 している文献(『如手引抄』
 三宅重行-慶安3年/『校正
 古刀銘鑑』本阿弥長根-文政
 13年/『長谷川忠右衛門刀工
 系図』長谷川忠右衛門-元和
 元年/『上古秘談抄』竹屋家
 -元亀元年/『掌中古刀銘鑑』
 大西義方-文政10年)
(2) 備前は助国の子、備後は
 政広の子との区別をしている
 説(『本朝鍛冶考』鎌田魚妙-寛政8年)

[福永博士説]
 「備後説以外は『備州国分寺
 住』を備前と誤解してもので
 あり、ともに誤り」

[福永説の限界性]
備前説の銘読みの誤りを指摘し
たに留まり、国分寺助国がどこ
からやって来て、どこで鍛刀し
たかについての考察を避けてい
る。


【五、国分寺助国の作柄】
資料による解説は次の通りだ。
(一) 「一文字に似たり」
 (『能阿弥本』能阿弥
 真能-室町期)
(二) 一文字信房の末流と
 する系図(『古刀銘盡大全』
 仰木伊織-寛政3年/『長谷
 川忠右衛門刀工系図』長谷川
 忠右衛門-元和元年/『日本
 国鍛冶惣約』長谷川忠右衛門
 -元和2年)

[問題点]
国分寺助国の現存作を見る限り、
備前物よりも備後物(三原派)
に近似している。

[問題点の問題点]
かつて備前一文字派の作柄の
国分寺助国の作が存在したが、
それが何らかの理由(損傷、
銘磨り上げによる別作者への
化け等)により存在しなくな
ったかもしれないという可能
性を払拭する資料が未発見で
ある。

<国分寺助国の特徴>
・刀姿・・・・・・鎬高い
・地鉄・・・・・・柾目肌が
 まじり、備前風の映りは出ない
・刃文・・・・・・直刃丁子乱
 れに沸がつき、棟焼き現れる
・帽子・・・・・・返りが深い

※上記特徴は典型的な備後物の
 特徴を備えているといえる。

 
【推定仮説と今後の検証課題】
国分寺助国を備後国葦田郡物
(法華一乗など)の祖とする
古説は、作柄と
立地条件の側
面のみから推定するには、妥
当性を損なわない。

文献(『古今銘盡大全』-慶
長16年/『古刀銘盡大全』仰
木伊織-寛政3年)


【六、現地調査】
平成24年8月9日午後5時40分
過ぎ、旧安那郡国分寺と東条
地区国分寺尼寺跡
のフィール
ドワークを行った。

三原鍛冶の始祖と比定される
国分寺助国の現在までに確認
されている銘は
以下の通り。

<銘の年紀の時代>
元徳(1329年-鎌倉時代最末
期~)から建武(1334年-南
北朝両元号-南北朝時代)

作あり。この時代の刀工であ
ることは間違いないと比定で
きる。


<銘>
「備後国安那郡東条助国」
「備後国安那郡東条住右近助国作」
「助国」
「助国作」
「備州国分寺住人助国作」
「国分寺助国」


備後国三原と備後国分寺尼寺
と備後国分寺および備中・備
前国の位置関係


A表示が備後東条国分寺尼寺跡

現地の位置関係


(クリックで拡大)

備後国分寺も国分寺尼寺跡も
古街道である旧山陽道に面し
ていることが
判る。
この道は東には現在の井原市
を抜けて備中国分寺へとつな
がり、
備前まで一直線に進む。
また、備後国安那郡は備中国
と隣接しており、
備前から備
後国安那郡までは徒歩でも2日
の距離だ。

なお、末三原派から分派して
備中青江派と合流して末古刀
末期に
三原辰房(たつぼう)
派が備中国で松山水田国重派
を形成し、後にイバラ
(井原、
荏原)にて大月を名字とする
水田国重一門を構えている。

水田国重は末古刀から新刀中
期まで盛んに備中国井原にお
いて
鍛刀した。
最初は三原および青江派のよ
うな直刃だったが、慶長新刀
期の
四代目大月三郎兵衛国重
から相州伝に転じている。


備後国国分寺(再建)


ここから西に向かう。


現広島県福山市神辺町に国分寺
と国分寺尼寺跡(推定)はある。


小山池。かなり大きな池だ。
(西端から撮影)

池の向う側の小山は迫山(さ
こやま)古墳群となっている。
そのふもとの茂みが国分寺尼
寺跡地と推定される場所だ。

池の北部を小山に向けて移動
する。するとすぐに迫山古墳
群に達する。


拡大。

迫山古墳群 (深安郡神辺町
大字湯野字迫山)
「標高八十四mの丘陵南斜面に
位置する当古墳群は、横穴式石
室をもつ古墳を中心に箱式石棺
二基を含む計十一基の古墳から
構成されています。一九八三年
に発掘調査が行われた第一号古
墳は、直径十九m、高さ五mの
円墳で、全長十一・六mに及ぶ
県内最大の横穴式石室を有して
います。石室からは、副葬品と
して環頭大刀・直刀・鉄鏃など
の武具類をはじめ、馬具や装身
具(耳環・玉)、土器(須恵器・
土師器)が出土しました。なか
でも環頭大刀は鞘と柄に金銅製
の金具を、柄頭に鳳凰を形どっ
た環頭を装着したもので、大和
政権が地方へ進出する過程で各
地の豪族に政治的、軍事的シン
ボルとして分与したものと考え
られています。この古墳は六世
紀末頃に造られたと推定され、
大和政権の地方支配と密接に係
わった豪族の墳墓として、当地
域の古代社会を考える上で極め
て重要な文化財といえます」

貴重な古墳の研究と古墳時代
の環頭大刀(かんとうたち)
にも非常に興味があるが、

回はその時代よりも
700年後
の南北朝期の備後助国の探訪
なので散策を続ける。


小山池の北東部にある国分寺
尼寺跡と推定される寺跡。









再建された社の横は漆が群生
していた。いわゆる漆原とい
う状態か。




かなり古い手水鉢が舟形であ
るのが非常に気になる。


説明書きの看板。

小山池廃寺(神辺町大字西
中条字藤森)
「小山池廃寺は、白鳳時代末期
(七世紀後半)に創建され、平
安時代(一一世紀)まで続いた
寺院跡です。過去の調査で、東
側に金堂(本尊を安置する建物・
現在地)、中央に塔、西側に講
堂(僧が説教をする建物)が並
ぶ珍しい伽藍配置が明らかにな
りました。
白鳳時代は各地の豪族が仏教文
化を積極的に受け入れた時代で、
この寺院もこうした背景の中か
ら地元の豪族によって建てられ
ました。
また、備後国分寺と近接し、共
通の瓦が出土していることから、
奈良時代になって国分寺尼寺と
して再利用されたものと考えら
れます。
平成十六年一月 福山市教育委員会」



ここは刀剣史上において、備
後三原鍛冶の始祖と文献上に
出てくる
国分寺助国の鍛刀地
付近であるばかりでなく、歴
史上も貴重な伽藍
配置であっ
たらしい。
ただ非常に気になることがあ
る。
地名が「西中条字藤森」であ
ることだ。
助国の銘には「東条住」とあ
る。
ということは、助国の鍛刀場
所を「国分寺尼寺付近で鍛刀」
とする文献に拠るよりも、素
直に助国の銘にある「東条住」
を基準に位置探査を進めたほ
うが自然なのではないか。
東条という地名は遥か昔に消
滅している。
ただし、中条は残っており、
それの東区域であることは容
易に理解が及ぶ。
江戸前期以前の地誌等を精査
しないと神辺地区の「東条」
の地域を特定はできないが、
位置的にこの迫山古墳の丘陵
のふもとで助国が鍛刀したで
あろうことは推定できる。

さらにもうひとつ気になるこ
とがある。
助国が国分寺尼寺跡で鍛刀し
たならば、なぜ隣りの「国分
寺」を銘に冠したのであるの
か。この点も多角的な解析が
必要かと思われる。
案外、ここ国分寺尼寺跡では
なく、もっと国分寺に近い東
の場所で助国は鍛刀したので
はないだろうか。
実は、周辺を探索していて、
なんの根拠もないが直感的に
「ここは・・・」と感じた場
所があった。国分寺尼寺跡か
ら国分寺までの距離500m、
その中間よりも国分寺寄りに
位置する場所に「荒神社」が
あるのだが、どうにもそこが
何らかの関係があるように思
えてならない。
また古書においても「国分寺
尼寺跡で鍛刀」とは記してい
ない。「尼寺跡付近」として
いるのである。

その荒神社で多くの写真も撮
影したが、敷地内に長く滞在
するには危険を伴う。
なぜならば、そこは気持ち悪
くなるくらいの土蜂の巣が所
狭しとあり、スズメバチ程の
大きさの肉食の土蜂が無数に
飛び交っているからだ。まる
で荒神社を守っているかのよ
うに。地面に開けられた巣穴
は.45口径で撃っても開かない
ような大きな穴が開き、そこ
から素早く土蜂が出入りして
いる。その巣穴が地面に無数
にあるのだから、無警戒には
探索できない場所なのである。
この場所は、追って適切な装
備を用意してから調査したい
と考えている。
ちなみに土蜂は『和名抄』で
は「ゆするばち」と読まれて
いる。雌は土中のコガネムシ
の体内に卵を生みつけるとい
う生態を持っている。成虫は
かなり大きく黒い。
荒神社にいたのは正式名ジガ
バチもしくはアナバチのどち
らかだろう。
クロアナバチのようにも思え
た。自分の体よりも大きなカ
マキリを刺殺する瞬間を私は
見た。
スズメバチよりは危険度が低
いとはいえ、足の踏み場もな
い程の巣穴を見たらやはり無
警戒ではいてはならないと私
は判断した。
狩りをするカリバチを舐めて
はいけない。自然環境の動植
物に無警戒・無関心・ズボラ
でいると、屋外活動では時に
生死の危機に瀕する。「兵士
の一番の敵は敵兵ではなく自
然である」と訓じたのは、傭
兵部隊ワイルド・ギースの隊
長であるマイク・ホアー大佐
だった。

東端から国分寺尼寺跡を望む。

前述した荒神社は凶暴なハン
ターである土蜂に守られ、こ
ちらは漆原が人間の侵入を

いでいる。

南北朝期の頃のここらあたり
は、一体どんな風景だったの
だろうか。

古代には豪族の古墳が建設さ
れたくらいだから、「聖域」
ではあるのだろう。

備後国分寺から小山池周辺を
歩いてみて、日本刀鍛冶の右
近助国が
この界隈を作刀地と
して住したのも、なんとなく
頷けるような気がしてくるの
であ
った。

三原鍛冶のルーツと各地に散在
する三原派刀工群の関係性の解
明の旅は、備後国三原住の私の
ライフワークとして今後もまだ
まだ続く。


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