
アカシア
モンキーポッド

モンキーポッド

アカシアはハワイオアフにある
有名な「この木なんの木」に似て
いる。
ハワイにあるのはモンキーポッド
という木でマメ化ネムノキ亜科ネ
ムノキ属の種で熱帯アメリカが原
産。
アカシアはマメ科ネムノキ亜科ア
カシア属だ。
同じマメ科ネムノキ亜科の木同士、
アカシアとモンキーポッド=レイン
ウッドの形はよく似ている。
両者の共通点は建材等に使われる
事ともう一つ。
両者はマメ科に多い白い花ではな
い。
アカシアの花

この木なんの木お猿の木は可憐な
紅白色だ。
これが「見たこともない花」(笑
少しオジギソウの花に似ている。


ちなみに、日本でよく呼びなら
わす街路樹などのアカシアはア
カシアではなくニセアカシア(マ
メ科マメ亜科ハリエンジュ属)
の事だ。






この花は食べられるので有名。
天ぷらにするとなかなかいける。
アメリカではハリエンジュのニセ
アカシアは、やはりアカシアと混
同されがちらしく、ディファレン
トであるとよくネットでは説明さ
れている。
ちなみに、ミモザとは本来オジギ
ソウの事だが、ギンヨウアカシア
やフサアカシアの事も日本ではミ
モザと呼ばれる。
これは英国人が南仏から花を輸入
した時の呼称間違いがそのまま日
本でも定着してしまったらしい。
なので黄色いフサアカシアの花の
木を日本ではミモザと呼んでいる。
本来はミモザとは触ると縮まるオ
ジギソウの事。
オジギソウ

ミモザ(ギンヨウアカシア)

木々と花々は、いろいろな種があっ
て、それがそれぞれ個体の個性が
あるから楽しいし、それらの個性
に触れられるのが素晴らしい。
百花繚乱とはよくいったものだ。
地球上の木々や花がすべて同種で
同じ形、同じ色だとしたら何と
味気ない事だろう。
そんな事をしたがるのは地球上で
は人間だけ、人間の独裁者だけだ。
地球はそのようには作られてはい
ない。いろんな個性と個体が相互
に咲いて色を彩る事が天の理とし
て許されている。
人間の独裁者は、反地球的な天の
ことわりに反する地球上では存在
を許されないものなのだ。
市内の親水公園にアカシアかモン
キーポッドに似た木がある。
太い木の枝にロープがかけられい
てブランコ遊びができた。
景観も良くて、昔はよく犬を連れ
て遊びに行った。
いつからか、ブランコは外され、
人は行かなくなった。
あれほど、多くの人がピクニック
などで楽しんでいた場所だったが、
今は雑草が胸程まで生い茂り、
芝のような草原だったエリアは
立ち入り困難な雑草地になって
しまっている。市は管理さえしな
い。
環境が破壊されるとはこういうの
をいうのだろう。
ありのままに放置する事が自然
保護ではない。
日立はハワイオアフ島のモンキー
ポッドの保護の為に毎年5000万円
近くを出費している。
放ったらかしは自然環境保護では
ないからだ。
日立の先進性は、企業の利益を第
一義としてガリガリ儲けに走らず、
地球環境を見越した遠い未来の
活動にも積極的に参加している点
だ。
中国などは儲け第一で行くのでは
なく、日本のこうした優良な企業
の体質から学んで欲しい。
日本もひどい事をずっとして来た。
水俣や四日市、森永ヒ素ミルクや
クロロキンはじめ多くの薬害。
公害大国ニッポンを日本人が反省
し始めたのは、市民たちが動いた
からだ。その歴史があったから、
日本は儲け第一で人と地球を苦し
め抜くやり方を方向転換した。
環境庁も1960年代にようやく設置
された。
そこから日本は「汚し、汚染させ
まくる国」からの脱却を図った。
それでも、私が学生の頃はまだひ
どい事をやっていて、1980年代に
は、原発の核廃棄物はドラム缶に
詰めて南洋に海洋投棄していた。
南の諸島の人たちが被曝しようと
も関係ない、という事を国がやって
いた。世界唯一の被爆国の日本が。
環境問題意識は日本では今はある
程度発達したが、原発に関しては、
フクシマの事故が起きるまで、国
も国民の大半も推進派だった。
今でも原発が必要だとする人たち
はかなりの数がいる。
原発政策の一番の問題は、核廃棄
物はどうするの?という問題だ。
安全ならば、安全と言う人全員に
振り分けて自宅保管立法でも作れ
ばいい。
それか、首相官邸の庭に埋めると
か広大な皇居内に埋めるとか。
それはやらない。
安全ではない事は分かりきってい
るからだ。
安全ならば、原発も東京湾お台場
とか新宿西口公園とか代々木公園
あたりに作ればいい。
でも、遠隔地に作る。
原発政策の骨子は「他の人に不利益
を与えて特定の人たちが利を得る」
という構造である。
しかも、核という人類ではどうに
もできない物を使って。
原発設置した田舎には金をばら撒き、
雇用も与えて手なずける。
放射線汚染と同じく、とことん汚い
やり口が原発政策というもの。
それは、ある意味、花の色を一色
のみにさせようとする動きと同じ
歩調を見せる。