渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

旋回時のイン側のつま先

2023年10月03日 | open

旋回時、イン側のつま先は
後ろに引っ込める。
外には絶対に出さない。
路面に接触してバランスを
崩すからだ。
膝はいくらこすっても折り
たたむことで対処できるが、
ステップを抑えるフット部
が路面と接触すると外力で
もって行かれる。
それでもフルバンクでは足
の先のサイド部分をこすっ
てしまうのだが。

とにかくイン側足先は引っ
込める。



イン側とアウト側の足の使い方
の違いがよく分る画像。
1983年WGP。
これは一般公道でも同じ原理が
働くので同じような足遣いを
採るのが正解だ。

世界チャンピオンのフレディ・
スペンサーは世界チャンピオン
だったケニー・ロバーツと同じ
足の使い方をしている。


ヤマハ時代(1989)のフレディ。


両足とも直線部においてつま先
を外側にだらしなく出す乗り方
などは無い。
これはレースの世界だけでなく、
同じ操作が必要なオートバイで
は公道であっても同じ事だ。


公道でロードスポーツモデルで
後ろブレーキを使って制御不能
で事故を起こす人の殆どが、直
線部ではつま先がだらしなく外
を向いている。一切ステップへ
の荷重・加重・加圧等を駆使し
てマシンを下半身でホールドす
ることをしていない。

そして、事故の直前、後ろブレ
ーキを踏もうとつま先を真っす
ぐに直すことが動画等に映り込
んでしまっている。
事故原因は後ろブレーキの不適
切な使用と、それ以前のステップ
への荷重方法の選択肢=考え方
に大きな間違いが存する点にあ
る。

操縦ミス(というより操縦その
ものができていない前提欠落)
の原因は、大元の考え方に齟齬
があるケースが殆どだ。
やれるかやれないか以前の問題
で、最初からボタンを掛け違え
ていたなら服はまともに着られ
ない。
だが、ボタンが段違いにとめた
ままになっていようとも、それ
でいいのだ、俺らは楽しんでい
るんだから、という類の人たち
は、大抵はその大間違いを真因
として操作不能を惹起させて事
故を発生させている。
立ちごけやUターンごけなどは

その典型だ。失敗を改めて改善
する気さえないので何度でも
やる。そのうち重大事故で死ぬ。
交差点で右折時に交差点の中で

停車していて、右に立ちごけし
て放り出されてそこに対向車線
から直進大型トラックやトレー
ラーが進んで来て轢かれたら
まず死ぬ。立ちごけは死への
近道切符なのだ。
だが、自覚無き者があまりにも

今の時代は多すぎる。
1980年代からの「バイクブーム」
時代には立ちごけなどは頻発さ
せる人は二輪乗りにはいなかっ
た。社会世相として、現代より
も二輪ライダーの技量は遥かに
高かったし、二輪を巡る制度
改革への社会行動等を見ても、
社会的意識性も今より遥かに
高かった。

操作の前に選択の定めあり。
選択の定めの前に視点洞察の
如何あり。
正しい事を正しいと見抜き、嘘
を嘘と見抜かないと操縦などは
最初からできない。
スタートの立ち位置が異なるか
らだ。
目的地に向かう為に右折しなけ
ればならない進路で
直進してし
まうようなものだ。

「俺はこれが好きだからこれで
いいんだ」は物理的対処が必要
となる二輪車の操縦においては
一切全て排除される。
好きだろうが嫌いだろうが、そ

んな個人的な嗜好性などは物理
現象とは一切関係ない。物理的
な現象の現出は、そうした個人
の好き嫌いとは別な次元のもの
として存在している。
右に曲がるには右に曲がるのだ。

直進していながら右に曲がった
つもりだ、俺は直進が好きなの
だ、などというのは通用
しない。
そして、そうした身勝手な判断
と行動は、自分と他人とを不幸
する結果を自ら招く事になる。
オートバイに乗る際に、結果良

否を最大に司るのは「意識の
問題」だ。
悪しき点を指摘されて逆切れし
ているようでは、自分が事故誘
予備軍にいる事を証明してい
るようなものだ。





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