御茶ノ水・駿河台・神田界隈
は昔も今も学生街だ。
ただ、世相も町の風景も1960
年代~1970年代当時からは様
変わりした。
明大などは他の大学と同じく
宇宙局のような建物になった。
このような喫茶店で高校1年
の時からバイトしていた。
そして自分の金で免許を取り
自分の金でバイクを買い揃え
た。
御茶ノ水・駿河台・神田界隈
に足げく通い始めたのは1976
年からだ。
激動の時代の7年後から。
そして、この界隈は大学生に
なってからも日常的に出入り
する特別な場所となっていた。
今は無きこの建物の喫茶店で、
1970年代末期に首都圏の学生
連合の会議で代表者が集まっ
てよく「謀議」をした(笑
共同共謀。
数年程時代遅れの僕たちは、
バリが解かれた跡地の各拠
点において、毎日死魚の腐
肉を喰らいながら、見果て
ぬ蒼ざめた馬を見ようとし
ていた。
たとえきょうは果てしもな
く、冷たい雨が降っていて
も。
1968年~1969年。
敷石を剥がせばそこは解放区。
人はそれを呼ぶ。
「神田カルチェラタン」と。
医科歯科大から御茶ノ水駅前
を見る。
権中核納言のセンターコアな
方々とモヒカンのマオツォー
トン・リンピョウ派の方々。
赤ブンは白中とは対峙してい
た。三派であっても。赤ブン
から分かれた銀前や怒涛の赤
黄線もしかりで、大手ホワイ
ティとは対立していた。悪い
けど言わせてもらうとZは番
外、論外、大気圏外。
という事を言うまでもなく、
内的ゲバルトは随時発生した。
権力の補完物である代々木来
襲とは別に。赤と白とモヒカン
と銀と黒らだけでなく、そこ
に青も入って来た。
「♪青が来ました青が来た
私も仲間に入れてよね」
(青い山脈の節で)と。
しっちゃかめっちゃかだった。
闘わずに組織温存のため安田
砦外周警護任務を放棄して逃
げたZたちに対しては全諸派
が反駁した。
当然だろう。
いろいろあった街。
答えは風の中だけにある。
風に吹かれて
若き日のディランは、若き日
の中原中也によく似ていた。
そして、僕らは思う。
どこまで歩き続ければ到達す
るのだろう、と。
どれだけの道を歩めば
一人前の「人」とみなされる
のだろう
どれだけの海を渡れば
白い鳩は砂の上で休む事が
できるのだろう
どれだけの砲弾が飛び交えば
撃つことを止める事ができる
のだろう
友よ 「答え」は風に吹かれ
ている
「答え」は風に吹かれている
どれだけの年を山は生存でき
るのだろう
海に浸食されるまで
何年かかるのだろう
人々が自由になるまでに
人は何度顔を背けるのだろう
見ないふりをして
友よ 「答え」は風に吹かれ
ている
「答え」は風に吹かれている
そうさ どれだけ天を仰げば
青空が見られるのだろう
いくつの耳を持ったなら
人々の悲しみが聴きとれるの
だろう
どれだけ多くの人が死んだなら
あまりにむごい犠牲を払った
事に気付くのだろう
友よ 「答え」風に吹かれ
いる
「答え」は風に吹かれている