(タイプA-1)
革ジャンは大まかに分けて数
種類のタイプがある。
詳しいことは専門家に譲ると
して、私が知っている範囲で
簡単に説明する。
まず、レザージャケットとし
ては、アメリカ陸軍のフライ
トジャケットとして作られた
タイプA-1フライングサマージ
ャケットが革ジャンの嚆矢だ
ろう。これは1927年(昭和2
年)に作られた夏用の航空ジャ
ケットだ。
A-1の次に後継モデルとして
作られたのが1931年のタイプ
A-2で、これの完成度は非常
に高い。私も米国アヴィレッ
クス製のタイプA-2を一着長く
愛用している。
(タイプA-2)
バイク専用の革ジャンとして
登場したのは、アメリカのシ
ョット社が1928年に発表した
ダブルの革ジャンだったとさ
れている。
世界初のジッパー方式の革ジ
ャンである。
これ以降、ダブルの革ジャン
がバイク乗りのスタンダード
となって行く。
(ダブルライダース)
ダブルライダースはアメリカ
で大流行し、やがてその波は
戦後ヨーロッパや日本にも伝
わる。
日本においては、1950年代か
ら大流行し、日活映画などで
小林旭が愛用していた。
アメリカ本国では、1953年に
公開された映画『乱暴者(あ
ばれもの)』でのマーロン・
ブランドが大人気となった。
それまでのヒーロー像とは異
なる、アウトローのバイカー
を演じていた。
マーロン・ブランド
前をジッパーで閉じるスタイ
ルを広めて確立したのは1931
年のハーレーディビッドソン
が発売したシングルモデルか
らだ。
以降、このジップアップスタ
イルが革ジャンのスタンダー
ドとなる。
アメリカン・バイカーズのス
タイルは英国ロンドンの若者
たちを熱狂させた。
それはアメリカから入って来
た新音楽ロックンロールと共
に若者の反抗のシンボルとな
っていった。
しかし、アメリカンバイクの
ライディングポジションはア
ップライトであるところ、英
国バイク等は前傾姿勢=フォ
ワードティルトのスタイルの
オートバイだった。
そのため、アメリカンタイプ
の革ジャンだと前部のベルト
金具等でバイクのタンクが疵
だらけになってしまう不具合
が発生した。
それを解消するために登場し
たのがロンドンタイプの前部
にベルトバックルが無いタイ
プだ。
(ロンドンジャケット、通称
ロンジャン)
ダブルは前部を二重にするこ
とによって防護と防風を兼ね
たデザインだったが、もっと
軽量化させてシンプルにする
スタイルが1931年にハーレー
によって生み出された。
それがシングルライダースな
のだが、1939年に同じくハー
レーから発売されたダブルラ
イダースと共に人気を分けた。
ショットとハーレーがバイク
用の革ジャン黎明期の歴史を
築いたといっても過言ではな
いだろう。
(シングルライダース)
一方、フライトジャケットか
らの転用によるレザージャケ
ットも戦後の1950年代から登
場し始めた。
1940年代に好評だった米空軍
のB-15フライトジャケットの
後継モデルとして1950年代初
頭に発表されたタイプMA-1は、
現在に至るまでフライトジャ
ケットの大定番となっている。
MA-1はそれまでの革ジャンが
水に対して耐性が低く、また
高高度において水分氷結によ
る弊害の発生を除外するため
に最新のナイロン製生地を用
いることで軽量化と耐候性で
飛躍的に進歩した。21世紀の
現代においても、フライトジ
ャケットといえばMA-1デザイ
ンという世界共通認識が定着
している。
(タイプB-15)
(タイプMA-1)
しかし、MA-1タイプのデザ
インで革製を求める声も根強
く、やがて革製のMA-1デザ
インが登場し始める。
ナイロン生地による本来の
MA-1の実用性からではなく、
あくまでのデザインとしての
MA-1タイプが求められた。
(MA-1タイプ革ジャン)
このMA-1タイプのポケット
フラップが無いタイプの物は
1970年代の日本で大流行し、
特にティーンの不良少年たち
によって愛用された。
ルを広めて確立したのは1931
年のハーレーディビッドソン
が発売したシングルモデルか
らだ。
以降、このジップアップスタ
イルが革ジャンのスタンダー
ドとなる。
アメリカン・バイカーズのス
タイルは英国ロンドンの若者
たちを熱狂させた。
それはアメリカから入って来
た新音楽ロックンロールと共
に若者の反抗のシンボルとな
っていった。
しかし、アメリカンバイクの
ライディングポジションはア
ップライトであるところ、英
国バイク等は前傾姿勢=フォ
ワードティルトのスタイルの
オートバイだった。
そのため、アメリカンタイプ
の革ジャンだと前部のベルト
金具等でバイクのタンクが疵
だらけになってしまう不具合
が発生した。
それを解消するために登場し
たのがロンドンタイプの前部
にベルトバックルが無いタイ
プだ。
(ロンドンジャケット、通称
ロンジャン)
ダブルは前部を二重にするこ
とによって防護と防風を兼ね
たデザインだったが、もっと
軽量化させてシンプルにする
スタイルが1931年にハーレー
によって生み出された。
それがシングルライダースな
のだが、1939年に同じくハー
レーから発売されたダブルラ
イダースと共に人気を分けた。
ショットとハーレーがバイク
用の革ジャン黎明期の歴史を
築いたといっても過言ではな
いだろう。
(シングルライダース)
一方、フライトジャケットか
らの転用によるレザージャケ
ットも戦後の1950年代から登
場し始めた。
1940年代に好評だった米空軍
のB-15フライトジャケットの
後継モデルとして1950年代初
頭に発表されたタイプMA-1は、
現在に至るまでフライトジャ
ケットの大定番となっている。
MA-1はそれまでの革ジャンが
水に対して耐性が低く、また
高高度において水分氷結によ
る弊害の発生を除外するため
に最新のナイロン製生地を用
いることで軽量化と耐候性で
飛躍的に進歩した。21世紀の
現代においても、フライトジ
ャケットといえばMA-1デザイ
ンという世界共通認識が定着
している。
(タイプB-15)
(タイプMA-1)
しかし、MA-1タイプのデザ
インで革製を求める声も根強
く、やがて革製のMA-1デザ
インが登場し始める。
ナイロン生地による本来の
MA-1の実用性からではなく、
あくまでのデザインとしての
MA-1タイプが求められた。
(MA-1タイプ革ジャン)
このMA-1タイプのポケット
フラップが無いタイプの物は
1970年代の日本で大流行し、
特にティーンの不良少年たち
によって愛用された。
時は前後するが、1960年代に
はシングルジップアップで襟
付きの革ジャンも登場し、ロ
ックミュージシャンやバイク
乗りたちにも愛用された。
(シングルライダース襟付き)
その代表は英国のビートルズ
だった。
そのビートルズのコピーバン
ドとして日本に登場したのが
キャロルだった。
キャロルは、デビュー前はビ
ートルズ風味が強かったが、
当時流行の長髪だった矢沢永
吉はジョニー大倉の革ジャン
とリーゼントスタイルを見て
笑ったという。
だが、やがてキャロルはジョ
ニーのスタイルでバンドイメ
ージを統一して行くことにな
る。革ジャンにリーゼント
スタイルのロッカーとして。
キャロルの革ジャンについて
は初期は襟付きシングルのみ
だったが、やがて様々なタイ
プを着用するように変化して
いる。
時にはジャケ撮影でバラバラ
のタイプを着用していること
もあった。
キャロルがデビューした1972
年当時はバイク用しか革ジャ
ンは世の中に無かったとする
ネット上の言説があるが、そ
れは誤りである。
1965年の5歳の時の私の乗馬
写真では革ジャンを着ている
し、初めてアイススケートを
した5歳の時には革ジャンと
革手袋を着用していた。これ
はファッションというよりも
防護のためだが、乗馬用でも
スケート用でもない。革ジャ
ンは街着として子ども用でさ
え販売されていたのである。
1970年初頭の私。於横浜。
これは確か2着目の革ジャンだ。
日本で革ジャンを流行らせた
のはキャロルだという言質も
多くみられるが、それも誤り
だ。
バイク乗りや乗らない者でも、
1950年代からのアメリカナイ
ズの風潮の中で、日本人に革
ジャンは親しまれていたこと
は実際の当時の一般人のアル
バムにあるスナップ写真や映
画や映像からも明らかだ。
キャロルが流行らせたのは
「ロックンロール」の復活と、
革ジャン+リーゼントスタイル
で「突っ張る」ことである。
キャロルの突っ張りとは社会
的反抗では無い点において、
彼らを熱烈に支持した多くの
当時の不良少年たちとは一線
を画す面がある事を見落とし
てはならない。
キャロルはサブカルとして登
場しはしたが、決して体制に
反抗はせず、ただただ「ビッ
グになること」のみを指標と
した。
このことは、体制にすり寄っ
たり、富や名声に接近して利
益にあずかろうとする点で、
本質的な抵抗やツッパリとは
別な視線があることを忘れて
はならない。
絶大にツッパリたちに支持さ
れたキャロルは、その本質性
においては、体制の補完物と
しての中心幹を崩さなかった
のであり、ジェームズ・ディ
ーンが演じていた若者の反抗
やマーロン・ブランドが表現
したアウトローとは全く対局
にある「お上の庇護の下、利
益を生む」ことを実行したの
が日本のキャロルだったので
ある。
ビートルズは女王陛下から勲
章を授与されたが、反戦の意
思に基づき、その勲章を女王
に返却した。
日本のキャロルにそのような
視点があっただろうか。キャ
ロルが反戦思潮と同調したと
いう事実は無い。
宇崎竜童はあった。彼は竜童
組の頃、新左翼の反戦集会の
演壇に立ち、ノーギャラで
ロックをぶちかましていた
(1981年6月7日、日比谷野音
反安保集会)。白竜もそうだ
った。
ただし、音楽表現者を政治と
は分離隔離させるという面で
キャロルは歴史的な成功を収
めている。
フォーク界にはまだ反体制的
な人民主体主義的な思想や主
張が残存していたが、キャロ
ルは、「ロックは政治や世相
には無関心」という図式を定
着させた「立役者」だったと
いえる。
以降、日本のロッカーや愛好
者は、社会に対しては真の反
抗や異議を述べず、「ノンポ
リ」の層を形成して行く。
それに楔を打ったのがパンク
であり、また、忌野清志郎た
ちだった。
ヨーロッパではロックは反体
制や反戦平和の潮流と密接な
繋がりがあったし、プログレ
などに至ってはもろに新左翼
だった。
しかし、日本においてはロッ
ク=政治的無関心という方向
性を決定づけて定着させたの
はキャロルだったといえる。
日本の反体制的ではない系譜
はその後「ビジュアル系」に
よって立ち位置が受け継がれ
ていく。
(キャロル時代の矢沢永吉)
1970年代のキャロルが定着
させたツッパリスタイルを
する80年代の杉本哲太。
しかし、キャロルのダック
テールスタイルのリーゼント
(本場風リーゼント)ではな
く、1970年代に日本で独自に
発達した不良少年独特の軍艦
リーゼントにしている。
これを短くしたアイパーも
70年代中期には東京を中心
に流行した。
なお、バイク乗りに目を向け
ると、1950年代末期にアメリ
カからイギリスに上陸したロッ
クンロールと革ジャンはバイ
ク乗りたちの間で1960年代に
は大流行していた。
彼らは英国ロンドンにあるエ
ースカフェという大きな喫茶
店にたむろし、ジュークボッ
クスでロックンロールを一曲
かけて、その曲が終わるまで
に街中を違法爆走レースをし
て、順位を競ったりしていた。
人は彼らを「ロッカーズ」と
呼んだ。
そして、ロッカーズの精神的
な標語として" TON-UP " が生
まれた。
これは100マイル=160km/h
以上で爆走するということで
ある。
当時の市販オートバイは最高
速がせいぜい180km/h行くか
行かないか程度で、その最高
速に迫る速度をロンドン市内
で出して競争をするのが彼ら
だった。
アメリカのバイカーズは密売
や暴力事件等の犯罪に手を染
める反社的な集団となってい
ったのに対し、英国のライダ
ーズは、暴走という「走り」
を中心に違法行為を行なう傾
向に種別できる。
共同危険行為+競争型暴走族
が英国のロッカーズであり、
反社半グレ集団が米国のバイ
カーズの特徴であるともいえ
る。
日本の暴走族は、1960年代の
カミナリ族というバイク愛好
エンスー集団からやがてサー
キット族となり、マスコミに
よって「暴走族」という名称
がつけられた。
それは時をキャロルのデビュ
ーと一にしている。
のはキャロルだという言質も
多くみられるが、それも誤り
だ。
バイク乗りや乗らない者でも、
1950年代からのアメリカナイ
ズの風潮の中で、日本人に革
ジャンは親しまれていたこと
は実際の当時の一般人のアル
バムにあるスナップ写真や映
画や映像からも明らかだ。
キャロルが流行らせたのは
「ロックンロール」の復活と、
革ジャン+リーゼントスタイル
で「突っ張る」ことである。
キャロルの突っ張りとは社会
的反抗では無い点において、
彼らを熱烈に支持した多くの
当時の不良少年たちとは一線
を画す面がある事を見落とし
てはならない。
キャロルはサブカルとして登
場しはしたが、決して体制に
反抗はせず、ただただ「ビッ
グになること」のみを指標と
した。
このことは、体制にすり寄っ
たり、富や名声に接近して利
益にあずかろうとする点で、
本質的な抵抗やツッパリとは
別な視線があることを忘れて
はならない。
絶大にツッパリたちに支持さ
れたキャロルは、その本質性
においては、体制の補完物と
しての中心幹を崩さなかった
のであり、ジェームズ・ディ
ーンが演じていた若者の反抗
やマーロン・ブランドが表現
したアウトローとは全く対局
にある「お上の庇護の下、利
益を生む」ことを実行したの
が日本のキャロルだったので
ある。
ビートルズは女王陛下から勲
章を授与されたが、反戦の意
思に基づき、その勲章を女王
に返却した。
日本のキャロルにそのような
視点があっただろうか。キャ
ロルが反戦思潮と同調したと
いう事実は無い。
宇崎竜童はあった。彼は竜童
組の頃、新左翼の反戦集会の
演壇に立ち、ノーギャラで
ロックをぶちかましていた
(1981年6月7日、日比谷野音
反安保集会)。白竜もそうだ
った。
ただし、音楽表現者を政治と
は分離隔離させるという面で
キャロルは歴史的な成功を収
めている。
フォーク界にはまだ反体制的
な人民主体主義的な思想や主
張が残存していたが、キャロ
ルは、「ロックは政治や世相
には無関心」という図式を定
着させた「立役者」だったと
いえる。
以降、日本のロッカーや愛好
者は、社会に対しては真の反
抗や異議を述べず、「ノンポ
リ」の層を形成して行く。
それに楔を打ったのがパンク
であり、また、忌野清志郎た
ちだった。
ヨーロッパではロックは反体
制や反戦平和の潮流と密接な
繋がりがあったし、プログレ
などに至ってはもろに新左翼
だった。
しかし、日本においてはロッ
ク=政治的無関心という方向
性を決定づけて定着させたの
はキャロルだったといえる。
日本の反体制的ではない系譜
はその後「ビジュアル系」に
よって立ち位置が受け継がれ
ていく。
(キャロル時代の矢沢永吉)
1970年代のキャロルが定着
させたツッパリスタイルを
する80年代の杉本哲太。
しかし、キャロルのダック
テールスタイルのリーゼント
(本場風リーゼント)ではな
く、1970年代に日本で独自に
発達した不良少年独特の軍艦
リーゼントにしている。
これを短くしたアイパーも
70年代中期には東京を中心
に流行した。
なお、バイク乗りに目を向け
ると、1950年代末期にアメリ
カからイギリスに上陸したロッ
クンロールと革ジャンはバイ
ク乗りたちの間で1960年代に
は大流行していた。
彼らは英国ロンドンにあるエ
ースカフェという大きな喫茶
店にたむろし、ジュークボッ
クスでロックンロールを一曲
かけて、その曲が終わるまで
に街中を違法爆走レースをし
て、順位を競ったりしていた。
人は彼らを「ロッカーズ」と
呼んだ。
そして、ロッカーズの精神的
な標語として" TON-UP " が生
まれた。
これは100マイル=160km/h
以上で爆走するということで
ある。
当時の市販オートバイは最高
速がせいぜい180km/h行くか
行かないか程度で、その最高
速に迫る速度をロンドン市内
で出して競争をするのが彼ら
だった。
アメリカのバイカーズは密売
や暴力事件等の犯罪に手を染
める反社的な集団となってい
ったのに対し、英国のライダ
ーズは、暴走という「走り」
を中心に違法行為を行なう傾
向に種別できる。
共同危険行為+競争型暴走族
が英国のロッカーズであり、
反社半グレ集団が米国のバイ
カーズの特徴であるともいえ
る。
日本の暴走族は、1960年代の
カミナリ族というバイク愛好
エンスー集団からやがてサー
キット族となり、マスコミに
よって「暴走族」という名称
がつけられた。
それは時をキャロルのデビュ
ーと一にしている。
やがて日本の暴走族は、1978
年12月施行の道交法改定によ
り消滅する。
1978年以降は暴走族は暴走族
と名乗っても暴走はせず、や
がて組織暴力に手を染め、暴
力団予備軍としてのチンピラ
になるか、暴力団そのものに
加入するか、半グレとして暴
力団の一翼を担う犯罪者集団
となるかだった。
1978年の道交法改定は、日本
から「ツッパリ」を消滅させ
た。
ただ、関西圏では「ヤンキー」
という呼称で、突っ張らかり
もしないただの不良(非行も
含む)が層を形成しており、
それがやがて関東にも到来し
た。関東のツッパリと関西の
ヤンキーは根本的に異なって
いたのが1970年代シーンだっ
た。関西のやんちゃなヤンきぃ
と関東のツッパリは別人種だ
ったのだ。外見は似ていたが。
年12月施行の道交法改定によ
り消滅する。
1978年以降は暴走族は暴走族
と名乗っても暴走はせず、や
がて組織暴力に手を染め、暴
力団予備軍としてのチンピラ
になるか、暴力団そのものに
加入するか、半グレとして暴
力団の一翼を担う犯罪者集団
となるかだった。
1978年の道交法改定は、日本
から「ツッパリ」を消滅させ
た。
ただ、関西圏では「ヤンキー」
という呼称で、突っ張らかり
もしないただの不良(非行も
含む)が層を形成しており、
それがやがて関東にも到来し
た。関東のツッパリと関西の
ヤンキーは根本的に異なって
いたのが1970年代シーンだっ
た。関西のやんちゃなヤンきぃ
と関東のツッパリは別人種だ
ったのだ。外見は似ていたが。
英国のロッカーズは「走り」
が主体。
このような前傾マシンが英国
の標準であるので、ロンジャ
ンという英国式の革ジャンが
生まれた。
英国ロンドンの本物のロッカ
ーズたち。
クラブとして59クラブ員とし
て楽しむ英国ライダーたち。
59クラブとは、暴走や喧嘩沙
汰に明け暮れるのを見かねた
バイク乗りの一人の牧師が、
1959年に彼らの更生のために
設立したモーターサイクルク
ラブだ。
そして、クラブに属した不良
少年たちはボランティア活動
をしたり、真面目に職を得て
社会復帰することを牧師は支
援した。日本ではそのような
事は存在しなかった。日本の
仏教坊主はそうした事は一切
しない。惨禍の時にも炊き出
しさえ仏教坊主はしない。布
施を貰う事しか頭に無い。
59クラブは英国のモーターサ
イクルシーンにおける清らか
な光明といえる。
今、59クラブの初期メンバー
は80歳位だ。
は80歳位だ。
映画『ギターを持った渡り鳥』
(1959年)の小林旭。
流れ者の元神戸市警の刑事役。
ダブルライダースは小林旭が演
じる役の定番スタイルだった。
この映画が公開された年に英国
では59クラブが誕生している。
1971年。まだ沖縄は返還され
ず、キャロルもデビューして
いなかった時代、『仮面ライ
ダー』において仮面ライダー
本郷猛はダブルライダースを
着用していた。
連続シリーズものの『ダイハ
ード』のブルース・ウイリス
も途中から髪の毛がなくなっ
たが、革ジャンを役の上で多
用していた。
日本では松田優作が映画作品
の中で革ジャンをよく着てい
たが、バイクに乗らないのに
ライダー用革ジャンを愛用し
て印象深かったのは『クライ
ムハンター』(Vシネマ)で
の世良公則演じる刑事ジョー
だった。
私もカドヤのニューコンセプ
ターは愛用している。
(2024)
なぜバイクには革ジャンなの
か。
それは見た目のスタイルより
も、レザージャケットが持つ
実用性によるものが多い。
転倒による舗装路面接触の際
の擦過に対する耐性は、現在
のところ天然皮革に勝る素材
は存在しないのだ。
それゆえ、モータースポーツ
である二輪ロードレースの世
界では、現在も天然皮革のレ
ーシングウエアの着用が義務
付けられているのである。
日本の皇室の内親王殿下まで
もがダブルライダースを愛用
する現代だが、バイク乗りだ
けではなく、現在はファッシ
ョンウエアとしても広く人々
に革ジャンは親しまれている。
それには、防寒のためには天
然毛皮を着用せずとも過ごせ
るが、なめしたレザーウエア
の場合は、実用性に端を発し
ている「必要性」がたとえフ
ァッションであろうともコア
部に存在する素材であるから
であろう。用の美とは使い込
まれた味のことを指すが、革
ジャンが持つ魅力は実用の美
とでもいうべきものか。
かつて1970年代~1980年代
中期までは日本においては、
バイク=悪=不良=非行=犯
罪者であるとして捉えられが
ちであった。
今や革ジャンを悪の象徴だな
どとするアナクロは通らない。
そんな馬鹿な考えを持つと、
内親王殿下=悪人という図式
を作り上げることになってし
まう。
ただ、バイク乗りのアイテム
としては、革ジャンは必須物
ではない。
それは雨水に極端に弱いから
だ。
擦過には史上最強であっても、
水にはとても弱い。
なめした天然皮革には保湿と
油脂分の補給が欠かせないの
だが、ずぶ濡れになってしま
うと極度に皮革繊維の密着強
度が下がってしまう。そして
たっぷりと水を吸って異常に
重たくなる。
そのため、ロングツーリング
ライダーたちの中には革ジャ
ンをあえて着用せずに人工素
材を専ら選択する人たちが多
いことも事実だ。
ブーツなどもずぶ濡れになる
と強度が極端に落ちるのが革
製品だ。
それでも、コーティング等を
施して革ジャンを愛用するラ
イダーも多い。
そして、革ジャケットは、本
当に転倒に際しての擦過につ
いては防護上信頼が置ける。
「もし革を着ていなかったら」
と思うとゾッとすることは多
くある。
革を着ていなければ、皮膚だ
けでなく筋肉までアスファル
トに削り取られて骨までえぐ
られていただろう、とか。
私もバイクではよく転んだが、
コースで派手にやらかしたの
は富士スピードウェイの最終
コーナーでの転倒だった。
100数十キロでの転倒でかすり
傷一つ負わなかったのは、レ
ース用のレギュレーションで
認可された革ツナギを着てい
たからだ。
現在、私がバイクに乗る時に
は可能な限り革を着るように
しているのは、カッコつけの
ためではない。
防具として私は革を着ている。
鎧を着けてないと危ないのが
バイクなので。
バイクに乗るのなら、革ジャ
ン着用を私個人はおすすめし
たい。
プロテクションについては現
在は素晴らしい素材と製品も
多く出てきたが、現在もなぜ
ロードレースの世界では本革
以外が認可されないのか。
そこに答えがある。
カッコつけではなく、安全の
為には革ジャンだ。
それと誤解が多いかもしれな
いが、革自体に防寒性はほと
んど無い。
なめし革のジャケットはイン
ナーの存在によって空気を暖
めることで保温性が高まる。
なので、夏場に革ジャンを着
ても、さほど暑くはならない。
インナー付、綿入りだと夏場
は暑いが。
逆に冬場は革だけを着ても暖
かくない。
保温性は低いが、防風による
体温低下防止と身体防護のた
めに革を着る。
革=防寒と考えると、現実は
かなり違うのでとまどうかも
知れない。
冬場の保温は、被服によって
守られた空気の層をどう逃が
さないかによる。
ピッタリと身に張りつく服で
あったらならば、冬場などは
凍りつきそうに寒くなる。服
と体の間にある空気を暖める
ことが防寒対策になるのだ。
このあたりは、登山やアウト
ドア活動や軍事行動やウイン
タースポーツの先例を参考に
すると二輪乗りも大いに役立
つだろう。
か。
それは見た目のスタイルより
も、レザージャケットが持つ
実用性によるものが多い。
転倒による舗装路面接触の際
の擦過に対する耐性は、現在
のところ天然皮革に勝る素材
は存在しないのだ。
それゆえ、モータースポーツ
である二輪ロードレースの世
界では、現在も天然皮革のレ
ーシングウエアの着用が義務
付けられているのである。
日本の皇室の内親王殿下まで
もがダブルライダースを愛用
する現代だが、バイク乗りだ
けではなく、現在はファッシ
ョンウエアとしても広く人々
に革ジャンは親しまれている。
それには、防寒のためには天
然毛皮を着用せずとも過ごせ
るが、なめしたレザーウエア
の場合は、実用性に端を発し
ている「必要性」がたとえフ
ァッションであろうともコア
部に存在する素材であるから
であろう。用の美とは使い込
まれた味のことを指すが、革
ジャンが持つ魅力は実用の美
とでもいうべきものか。
かつて1970年代~1980年代
中期までは日本においては、
バイク=悪=不良=非行=犯
罪者であるとして捉えられが
ちであった。
今や革ジャンを悪の象徴だな
どとするアナクロは通らない。
そんな馬鹿な考えを持つと、
内親王殿下=悪人という図式
を作り上げることになってし
まう。
ただ、バイク乗りのアイテム
としては、革ジャンは必須物
ではない。
それは雨水に極端に弱いから
だ。
擦過には史上最強であっても、
水にはとても弱い。
なめした天然皮革には保湿と
油脂分の補給が欠かせないの
だが、ずぶ濡れになってしま
うと極度に皮革繊維の密着強
度が下がってしまう。そして
たっぷりと水を吸って異常に
重たくなる。
そのため、ロングツーリング
ライダーたちの中には革ジャ
ンをあえて着用せずに人工素
材を専ら選択する人たちが多
いことも事実だ。
ブーツなどもずぶ濡れになる
と強度が極端に落ちるのが革
製品だ。
それでも、コーティング等を
施して革ジャンを愛用するラ
イダーも多い。
そして、革ジャケットは、本
当に転倒に際しての擦過につ
いては防護上信頼が置ける。
「もし革を着ていなかったら」
と思うとゾッとすることは多
くある。
革を着ていなければ、皮膚だ
けでなく筋肉までアスファル
トに削り取られて骨までえぐ
られていただろう、とか。
私もバイクではよく転んだが、
コースで派手にやらかしたの
は富士スピードウェイの最終
コーナーでの転倒だった。
100数十キロでの転倒でかすり
傷一つ負わなかったのは、レ
ース用のレギュレーションで
認可された革ツナギを着てい
たからだ。
現在、私がバイクに乗る時に
は可能な限り革を着るように
しているのは、カッコつけの
ためではない。
防具として私は革を着ている。
鎧を着けてないと危ないのが
バイクなので。
バイクに乗るのなら、革ジャ
ン着用を私個人はおすすめし
たい。
プロテクションについては現
在は素晴らしい素材と製品も
多く出てきたが、現在もなぜ
ロードレースの世界では本革
以外が認可されないのか。
そこに答えがある。
カッコつけではなく、安全の
為には革ジャンだ。
それと誤解が多いかもしれな
いが、革自体に防寒性はほと
んど無い。
なめし革のジャケットはイン
ナーの存在によって空気を暖
めることで保温性が高まる。
なので、夏場に革ジャンを着
ても、さほど暑くはならない。
インナー付、綿入りだと夏場
は暑いが。
逆に冬場は革だけを着ても暖
かくない。
保温性は低いが、防風による
体温低下防止と身体防護のた
めに革を着る。
革=防寒と考えると、現実は
かなり違うのでとまどうかも
知れない。
冬場の保温は、被服によって
守られた空気の層をどう逃が
さないかによる。
ピッタリと身に張りつく服で
あったらならば、冬場などは
凍りつきそうに寒くなる。服
と体の間にある空気を暖める
ことが防寒対策になるのだ。
このあたりは、登山やアウト
ドア活動や軍事行動やウイン
タースポーツの先例を参考に
すると二輪乗りも大いに役立
つだろう。