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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

古墳?

2024年01月22日 | open


ロードをモーターサイクルで走
っていて気付いた地。
これ、古墳なのではなかろうか。


こちらも。
これなどは上空からの衛星画像
を確認すると、もろに前方後円
墳の
形をしている。


これも。
こちらは人工的に造られたよう
なこんもりとした丘の上に神社
がある。


ここらあたりは、もしかすると
古墳群なのではなかろうか。
ここは備後国分寺の古墳群エリ

アにほど近い。備中に通じる古
代山陽道のルートに比定される
地域。

古墳が「発見」されていない例
は全国各地にある。
広島県三原市にも古墳群エリア
があるが、そのエリアの端あた
り近辺でも、どう
見ても古墳で
は?というよう
な不自然な地形
がいくつかある。

そのいくつかを上空から見たら
前方後円墳の形だったり、完全
な円墳の形だったりする。
私有地であるので、前方後円墳
の方部分を切り崩されて墓地利
用されている場所もあるし、
祠が設置されている場所もある。


年々古墳の「発見」と「認定」
数は増えている。
まだまだ日本列島には、未発見
の古墳がごまんとある事だろう。
墳丘墓指定されると私有者は困
ることもあるだろうから、学術
調査協力には消極的なのかも知
れない。

日本刀の研究としては備後国分寺
と廃寺の尼寺跡地は研究対象から
外せない。
なぜならば、備後刀(特に「三原」
派)の原初とされる刀工が備前か
ら備後に移住して備後国分寺付近
(「中条」という古代地名の地)
で炉を構えたという伝承がある
からだ。
作刀場所はほぼ比定されてはいる
が、それはあくまで文献上の事で
あり、考古学的解析はされていな
い。その作者の刀剣自体は多く残
っている。

古墳と産鐵と被差別地区と日本刀
の関連性は非常に強い。
この事についての連面性に関して
は、刀剣界ではあまり研究解析さ
れていない。歴史学(文献史学)
や考古学でも。
唯一、沢史生のような民俗学研究
者がそれなりの見解を示して研究
しているにとどまる。
「触れてはならない」ような事項
が絡むので学術研究が進まないの
だろう。
それは、「古墳」と「被差別地区」
の問題だ。
非常にセンシティブなので、単な
学術探求心だけで掘り下げると、
さまざまな問題を惹起させるのだ。
ゆえに、日本刀界でも、そうした
歴史性(歴史の真実)については
避ける傾向がある。

だが、刀剣製作者が古代から中世
にかけて被差別階級の人民であっ
た事をなぜ伏せる必要があるのか、
私にはよく解らない。
被差別階級に置かれた産鐵民と
鍛冶職が果
たした歴史的役目を高
らかに明ら
かにする事は、むしろ
統治側の作
られた歴史観を植え付
ける事に
抵抗する人民の歴史、民
衆史観
の喚起に繋がるのではと思
うの
だが。
それは歌舞伎役者が裁判により

江戸期に「脱賤」で「解放」さ
れた事を自ら讃えた十八番(おはこ)
の助六の魂の輝きのように。
国定教科書では江戸幕末の咸臨丸
の操船クルーがどのような階級で
あったかさえも明らかにしていな
い。
そうしたところにもっと光を当て
て、いかに日本の歴史で陰の大き
な力になった人々がいたかを、正
確に差別観無く、子どもたちに伝
え教育する事が必要なのではなか
ろうか。
日本人が真に一つ=同胞一和にな
る為にも。



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