渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

おいら

2023年01月07日 | open



東京の1960年代生まれの男は、
実はオイラとは自分を呼ばない。
オレ、ボクである。
それ以前はアチシてな風に下町
おっちゃんたちは言ってた。
ゆっくりとアタシと言う事もあ
る。落語によく出て来るやつだ。
オイラはかなり古い言い回しで、
たけしの少年時代では、裕次郎
が映画で「おいらはドラマー、
やくざなドラマー、おいらが
叩けば荒らしを呼ぶぜ!」と
やってから、リメイクのように
わざと言いで流行ったように思
う。
あと、その映画での「ええぃ、
こんちくしょう」というやつ。
「ちぇっ」というニュアンスで
「ちくしょう」を東京人はよく
口にした。これは悪意ではなく。
「憎い、あんちくしょう」とか
でも。
今でも私も自分が玉を外した時
に「っしょう」とか言うが、自
分では気づかなかったところ、
言葉を調べたらしい外国人から
「出た出た。チクショウが」と
言われたりしてハッとなる。

オイラに関しては、まだインター
ネットも普及してなかった頃、
年若い岡山の玉撞き仲間が何か
発見したように私に言ってた。
「新しい面白い言葉知りました。
自分の事オイラって言うの」と。
はあ?とは思ったが、そういえば
西日本ではオイラは不在だったよ
うだ。
それが気に入ったのか、それから
そいつはずっと自分の事をくだけ
た言い回しの場面ではオイラと呼
んでいた。複数形だとオレらとな
るが、これは私の時代の東京人た
ちは多用していた。巻き舌でオレ
らと言う。それが変化して単数系
のオイラが発生したと言語学では
云うらしいが真相は分からない。
ちなみにオラと言うのは東京では
不在で、東京に出てきた寒い地方
の人たちの言い回しの感があった。
実際に言うのはグズラくらいのも
んだった。


なお、今の40才あたりから上は
中国地方では男はみんなワシで
ある。その人たちが幼稚園児の
時もワシ。
これは1960年代に広島県に行っ
た時に私は衝撃を受けた。
保育園児のおしめから上がった
ばかりのイトコがワシ、ワシ
うのである。時代劇か?と感じ
たが、広島県は男は全員漏れな
くワシ。
おおー!こりゃすげー!と思っ
た。じゃりんこまでもがみんな
戦国武将のような一人称。これは
ファースト・カルチャーショック
だった。
今20才の広島県三原市生まれの
男子によると、「いや、さすがに
自分の時代にはそれはないす」と
の事だった。オレなのだそうだ。
だが、ワシは大阪京都でもかつて
は全員ワシだった。
島田紳助は勿論ワシ呼称で、東京
から転校生が京都に来て、自分の
事をオレと言う人を初めて見て、
「ああ。自分の事オレ言う人、
映画の中だけやなくてほんまに
この世におるんや」と思ったと
テレビで語っていた。

人の感覚は言語で認識が形成され
る。それが人の人たる所以だが。
ただ、育ったエリアの言語は日本
どこでも通じる訳ではないので、
やはり標準語の日本語を共通語と
する教育と日常習慣はとても大切
だ。

東京感覚(というかこれは標準語
感覚)と異なるもので西日本では
誤解を招く事がある。
それは「ちょっと」が単純に微小
の意味でしか西日本では捉えられ
ていないので、シーンにより誤解
が生じるのである。
厳密には「一寸」は「少し」であ
るが、標準語においてさえもそれ
単に数量的な小を表すのではな
い。
「やや」だけでなく「いささか」
の意味もあるので、一寸は「小」
のみを表さない。
「ちょっと走り過ぎたかしら
風が吹いていたわ」(マイピュア
レディ 尾崎亜美)のちょっとは
過ぎたるを意味し、微小の事を
指すのではない。
江戸弁での「ちょいと、おまえ
さん」とおかみさんが言うちょい
とも、小の事ではない。
キムタクの「ちょっ(と)待てよ」
小に待てではない。

だが、西日本では「ちょっと」は
「小」のみとしか捉えられていな
い。標準語の概念からは逸脱して
いる。
それを知らないと軋轢も生まれる。
「ちょっと遅れた」「ちょっと
いいね」などは「ごく僅か」とし
か捉えられないので、「ちょっと
じゃなかろう!沢山じゃろうが!」
とか「ちょっとやなくて全部ええ
やんけ!」となるのが西日本。

また、東京での(これは東京方言)
での「勘弁」や「ごめん」は、
「願い下げ」や「失礼します」の
意味で多用される。
「そいつぁ勘弁してくれろ」と
言ったら「金輪際、そんな事は
願い下げだ、おととい来やがれ、
このすっとこどっこい」という
意味なのだが、西日本ではまるで
土下座ひれ伏しで赦しを懇願する
かのように捉えられている。
なので、「そいつぁ勘弁しても
らおう」と東京人が言ったら、
あいつがそれだけは赦してくれ
と懇願した、とか触れ回る奴ま
西日本では出て来たりする。
まるで逆だ。完全拒否と懇請で
は真逆だ。
これは、互いの通常使用言語が
異なるので、真の意思疎通が成
立していない事による。
やはり、人間のコミュニケーシ
ョンの利器として言葉を使用す
るならば、標準語を共通語として
日本人は使うべきである。
そのために学校教育でも日本語を
母国語として教えているのだから。

方言はあってもいいと思う。
しかし、メディア等の公的場所や
メールや見知らぬ人との会話で、
自分の狭い地方の言葉を頑なに
あえて使うのは、人を馬鹿にした
高慢な態度であると知ろう。
それは地方人でしかなく、全国
的に日本では通じない。
我を押し通すのは傲慢な一人よ
がりであり、他者の事などどうで
もいいと思っている不遜な態度だ。
標準語を共通語として話すべし。
公の場、初対面の人、よく知らぬ
人との言語をフィルターとした
接触においては。
地元の狭い方言は、地元人同士
の場合のみ使うべきである。
全国区の日本人であるならば。
10km四方の極小エリア人でない
ならば。

ただ、地元言葉は大切だ。
しかし、普及は標準語にしてほし
い。
「せやろ?そうなるやん。だから
さぁ」とか最近の大阪漫才師は
言う。
それと、ジャロジャロ、ケェケェ
言ってる連中が「じゃん」や「さ」
を最近使う。
それらは何だか非常に腹立たしい。
あと、東京の連中が最近やたらに
「めっちゃ」を使うのとか。
そんなら「やたらめっちゃ」とで
も言ってろこのスットコドッコイ
が、という感じがとてもするので
ある。

なぜ私が腹立たしく感じるのかは
判っている。
それは、ジャロジャロケェケェ人
や、せやろ?知らんけど人たちは、
話を聴いていると、見当外れで
外れの独善的独断を主張する時の
会話で「さぁ」「じゃん」の東京・
ハマ言葉を動員するのだ。軒並み。
オイラはへり下りの敬語にも繋が
る慎み深さがある。自分を手前と
呼ぶのと同じだ。
だが、使用シーンにおいて、ジャ
ロジャロケェケェ人や知らんけど
大阪民国人たちの東京ハマ言葉出
しには非常に不遜な態度を嗅ぎ取
る。意識の向こうが透けて見える。
だから、腹立たしいのだ。

この記事についてブログを書く
« ハマ乗り | トップ | 自習 »