
旅の二日目。
翌朝は、私は6時前からず
っと外の川沿いを散歩して
からホテルでモーニング朝
食。
明けてぞ朝は城に行く。

その前に護国神社に参る。



七五三の着物の女の子たちが
何人もいて、とても可愛かっ
た。
うちらの娘もああいう時があ
ったね、と男親同士3人で話す。
全員二輪乗りで剣士で斬鉄剣
所持者。
御城の本丸内に入る。
紅葉と黄色く色づく木の葉が
綺麗だ。


赤黄青の色の共演。

本丸天守。原爆で消滅した
ので再建天守だ。

築城は天正年間の毛利輝元だ
が、城の完成は毛利の手によ
るものではない。
福島正則が江戸時代初期に広
島城を完成させた。それによ
り広島という大きな町が誕生
した。
戦国時代末期まではただの海
とデルタ地帯だ。戦国期の毛
利の元の城は内陸部の山の上
にあった。
福島正則が広島城を築城完成
させ、大城下町を作り、関ヶ
原以降に安藝・備後の太守と
して入封(にゅうほう)した。
広島藩の三原城にしても、
毛利一門の小早川隆景が築城
に着手したが、江戸期の正保
年間に確認できた櫓32基、城
門14もの大規模の城郭は福島
正則時代の江戸時代初期に完
成をみた。
安芸備後の広島藩はその後、
幕府の大名潰しの全国的パワ
ハラの一貫として福島氏が城
郭無断改築の濡れ衣を着せら
れて転封(てんぽう)改易となっ
た。
そして、備後と安藝は領地が
分割され、安藝46万5000石の
石高大名として紀州から外様
の浅野家が入封し、明治維新
まで治めた。
備後国最西部の三原城付近は
浅野家の領地として組み込ま
れ、それより東は元和の時代
に最新城郭として福山城が
作られ、福山という町が初め
て誕生した。福山城は水野家
5代、松平家1代、阿部家10代
と城主が入れ替わった。幕末
の七代藩主の阿部正弘は老中
主座に就任し安政の改革を断
行した。天保の改革後に老中
に返り咲いた水野忠邦と対立
した。阿部正弘は天保改革時
代に不正を行っていた重役た
ちをすべて断罪、処分し、水
野忠邦本人も不正悪事の黒幕
として追及して老中首座から
引きずり降ろして自分が首座
に就いた。幕閣内の政争とは
いえ、かなりの辣腕政治力を
阿部正弘は発揮したが、外国
との外交面では苦戦を強いら
れ、嘉永7年(1854年)に日米和
親条約を結ぶに至り、幕末動
乱のきっかけを作った。
このあたりは、我々も中学の
時の教科書で習った通りだ。
阿部正弘は一度しか国許に訪
れた事がない江戸生まれ江戸
育ちの江戸前大名だった。
なお、広島藩では、浅野家の
家老が治めた三原の城内と城
下に住んだ武士たちは全員が
広島本藩の浅野家中だった。
三原にいた武士は46万5000石
の広島藩の藩士。
厳密には江戸時代には「藩」
という組織は正式には存在せ
ず、あくまで俗に呼称する方
式だった。正式には「〇〇家」
だ。
全国の侍という家臣団は領主
たる大名(1万石以上)もしくは
直参旗本(1万石以下)から禄を
食み、代償として「奉公」を
する。奉公の種たる任務は軍
役動員での主君警護と対敵戦
闘になるが、平時には為政者
となって殿様の差配地を治め
るのが武士の役目だった。
つまり、城勤めの武士=侍は
戦士であると共に行政官その
ものだった。
だが、現代の軍隊と異なるの
は、武士には自己決裁権があ
り、藩主隷属の奴隷ではなか
った。傭兵的性格を強く堅持
していたのが武士だった。
そのため、どんなに家禄が少
なくとも、知行地を持つ知行
取の侍は治める領地と領民を
持つ「殿様」だった。
だが、四公六民の分配なので
小禄の場合、知行取よりも
蔵米取の武士のほうが実収入
が多い場合も生じた。家格と
しては知行取のほうが高位だ。
武家政権はこうした地位は高
いが低い者よりも収入が少な
いという巧みな統治形式を
取っていた。旗本などは大名
よりも遥かに収入は低いが家
格は大名よりも高かった。
そのような変則技を末端まで
敷いていたのが武士の社会の
仕組みだった。金さえあれば
高位なのではない、という仕
組み。
しかし、幕閣内では大金が動
く不正が横行していた。天保
の改革などの時代にはひどい
ものだった。幕府内には妖怪
とまで呼ばれた私服を肥やす
重臣もいた。
一方、貨幣経済が発展するに
つけ、「武士は食わねど高楊
枝」が現実となり、元禄以降
は殆どの武士が貧困に喘いだ。
特に下級武士たちは爪に火を
灯すような暮らしぶりだった。
武士は各人が禄高に関係なく
自分で考えて行動する種族で、
主人が誤った事を為せば、そ
れを諫めて批判する存在でも
あった。主君だけでなく、他
者である士に対しても不正に
ついては真摯に批判し糺し正
そうとするのが武士だった。
それらは命をかけて行われた。
首長が全会一致の不信任案で
辞任したのにネットを使った
拡散選挙戦略で事の真実を欺
罔するだけでなくあたかも嘘
が真実であるかのように情報
を広めて愚民がそれを信じて
投票して長に返り咲くなどと
いう、現代社会の歪んだ本当
の大たわけの図式が入り込む
余地は無かった。
まして部下を追い込みの執拗
なパワハラで二人も死亡者を
出していながら、知らぬ存ぜ
ぬの顔で再出馬するなどとい
う人にあらずの恥知らずでは
日本人としては首長にはなれ
ない。首長自らいつでも腹斬
る覚悟がなければやっていけ
ない真剣勝負の世界が武家政
権時代だった。
すべてにおいて命がけ。
そうした種族が政治を司った
のが幕藩体制だった。
殿様だろうが、断罪されたな
ら自らの腹に刃を当てて自刃
するのが武士の世界だったの
余地は無かった。
まして部下を追い込みの執拗
なパワハラで二人も死亡者を
出していながら、知らぬ存ぜ
ぬの顔で再出馬するなどとい
う人にあらずの恥知らずでは
日本人としては首長にはなれ
ない。首長自らいつでも腹斬
る覚悟がなければやっていけ
ない真剣勝負の世界が武家政
権時代だった。
すべてにおいて命がけ。
そうした種族が政治を司った
のが幕藩体制だった。
殿様だろうが、断罪されたな
ら自らの腹に刃を当てて自刃
するのが武士の世界だったの
である。
すべてが真剣に生きなければ
成立しない世の中が武家政権
だった。腹に刃当てる覚悟の
無い者は人の上には立てなか
った。士の世界とはそういう
ものだったのである。
そしてそれは、世界に冠たる
世界の中でも稀有な日本固有
の伝統文化だったのだ。
日本に武士がいなければ、今
頃は中南米のように16世紀に
スペインに侵略され、文化も
人間も社会世相も中南米のよ
うになっていた事だろう。
あるいはアフリカの紛争地帯
のように。

すべてが真剣に生きなければ
成立しない世の中が武家政権
だった。腹に刃当てる覚悟の
無い者は人の上には立てなか
った。士の世界とはそういう
ものだったのである。
そしてそれは、世界に冠たる
世界の中でも稀有な日本固有
の伝統文化だったのだ。
日本に武士がいなければ、今
頃は中南米のように16世紀に
スペインに侵略され、文化も
人間も社会世相も中南米のよ
うになっていた事だろう。
あるいはアフリカの紛争地帯
のように。

広島城の濠は異様に幅が広い。

小さな湖ほどに広い濠が
めぐらされている城郭だ。
ここは力攻めしようとし
ても難攻不落なのでは。

天守内は撮影OKだった。

天守内にある鉄砲ドン!の
銃眼。横には石落としの窓
もある。

幕末の広島藩士の銃と十手。

幕末の小銃。エンフィールド
とスナイドル銃だ。
幕末に広島藩士は全員火縄で
はなく洋式小銃装備に再編さ
れた。

武士の家の居住空間の再現。


天守最上階から広島市内を
観る。

原爆ドームが見える。
遠方は厳島=宮島の山。

城を下りて、平和公園に行く。
ここだけなぜかおフランス風。
ここだけなぜかおフランス風。

このカフェで昼食を取る事
にした。少し待つ。

川のほとりには市内の川の
クルーズ遊覧船、宮島への
船便の発着所がある。
ずらりと外国人観光客が並
んでいた。



外国人観光客だらけ。
ここだけ見たらまるでパリ
だ。

名前予約で待ってようやく
入店できた。テレビ局が撮
影していた。

店内も。何かの番組で我々
も映ったのだろう。

ほんとここだけシャンゼリゼ。

でも食べるのはイタリアン(笑
ここのお店、パスタもピッツァ
もケーキもベラボーに美味し
かった。平和公園内にある有
名な人気店だ。

船便の発着所がある。
ずらりと外国人観光客が並
んでいた。



外国人観光客だらけ。
ここだけ見たらまるでパリ
だ。

名前予約で待ってようやく
入店できた。テレビ局が撮
影していた。

店内も。何かの番組で我々
も映ったのだろう。

ほんとここだけシャンゼリゼ。

でも食べるのはイタリアン(笑
ここのお店、パスタもピッツァ
もケーキもベラボーに美味し
かった。平和公園内にある有
名な人気店だ。

食事後、原爆ドームに行く。
友人二人と娘さんは周囲を
一周あるいていた。
友人二人と娘さんは周囲を
一周あるいていた。

あたしゃ元安川のほとり
で川眺め。

原爆資料館に4人で行く。
資料館が初めてだという娘
さんは結構ショックを受け
ていた。
その思いが核兵器廃絶と世
界平和への祈願になってく
れる事を祈る。


平和公園から平和大通りに
出て、カフェで一休みする
事にした。すでにかなり歩
いている。

おしゃれなカフェとなると
なぜかフランスかイタリア
風になるという不思議(笑

昨日から食べ物が超ラッキー
だった。この店もかなり美味
しかった。

その頃、私の母は都内に住
む私の娘夫婦と共に千葉県
の鼠國鼠海に行っていた。
千葉のベニス(笑

こちらは園内の食事がウル
トラまずかったそうだ。
特にパスタがなんだこれ?
だった模様。
それは、残念アンラッキー。

広島市内訪問組はとても
おいしい食事とスイーツ
にありつけていた。
我々が行った平和大通りの
店も、棒にベラが付く程に
美味しかった。
観光者にとっては、こうい
うのは単なるラッキー。
たまたまふと行った先々の
店でおいしいお店に当たる
というのは、幸運直撃、ラ
ッキーストライクだ。
今回はどの店も予め調べて
予約取ってから行く、など
というものではなかった。
幸運が連続する幸せな旅だ
った。

てことで私と九州人は広島
駅でバイチャ。
横浜父娘たちは翌日は広島
市内から安芸の宮島まで行
くという。
日本刀見学三昧の二日間だ
ったが実に有意義だった。
東広島美術館でも広島城で
も名刀良作を多く見られた。
眼福至極に御座候。
またいつか会える日を。
横浜の人はこの後もどうか
御無事で良い旅を。