渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

ビリヤードのスポーツとしてのよいところ

2022年06月24日 | open



ビリヤードの良いところ。
それは完全に男女同権平等である
ところだ。
これは競技性において。
ビリヤードは女性を下に置かない。
老若男女関係なくできるし、知力
と技術がある者が勝つ。
性別も年齢も、もちろん出自など
も一切関係ない。

私は個人的な発想としては、本人
のどうしようもできない部分、
性別であるとか(最近は戸籍上
はなんとかなるようだ)、生まれ
た国や土地や、年齢等で人を別枠
に置く考え方が大嫌いだ。
また逆に、てめえの手柄でもない
のに、自分の生まれた国や場所や
性別等を「誇り」に思ったり自慢
げに思ったりする考えは大気圏外
に消えろ、という程に嫌いである。
そもそも自分でなんとかできない
どうしようもない部分を以てそれ
を自慢したり誇りに思ったり、人
を差別したり見下したり、妬んだり
嫉んだり、尊敬したり。
そういうのは人間として下の下の
ゲゲゲだと思っている。

ビリヤードは、唯一男女差年齢差
関係なく「真っ向真剣勝負」が
出来る球技かと思う。
体力をさほど必要としないからか
もしれない。
また、下肢障がいの場合も、車いす
での競技も可能だ。まだまだ撞球
施設で車いすで「健常」者=非障
がい者と一緒にプレーできる程
環境が整備されていないが。
ゆくゆくは、障がいの有無関係なく
対戦できるようなカードが組まれる
ことを望む。
ビリヤードにこそ、その未来の可

能性がある。
ジャンプショットなども、電動リフ
ト式の車いすが完備されれば、同軸
同列での対戦も可能だろう。
その時、本当の意味でのバリアフリー

になる。

そうした視点ゆえ、私は日本のビリ
ヤード協会がプロ試験において女子
に対してハンデを与えて合格点数
を大甘にしているのは、これはある
意味女性を格下に見た侮辱なのでは
と思っている。
大学受験の合格点に男女差はない。
また、公務員試験にもない。
ビリヤードのプロ試験にはある。
これ、絶対に女性を「弱い者」と
か、あるいは人数増やして客寄せ
パンダにしようとしているか、女性
を正当に扱っていない「男社会」の
視点での取り扱いですから。
でも、一向に改善の兆しはない。
日本の撞球界というのはあまり
見識において
よろしい面を見せて
はいないという現実が
ある。
旧態然というか、何というか。


ポケットの男子プロの合格点は
実技でボウラード3ゲーム合計が
630点だ。アマでもA級なら誰でも
受かる。1ゲーム平均210点以上だ。
女子プロの実技はボウラード3
ゲーム合計がなんと420点だ。
1ゲーム平均140点である。
こんな簡単なプロ試験、世の中の
プロスポーツにあるだろうか。
しかも男子との差圧倒的。
女性選手でも実力がある人は900点
満点を出すだろうが、1ゲーム140点
というのは、C級に毛の生えたよう
なレベルのプレーヤーだ。B級の
下のほう。

問題は二つあって、なぜそのように
低い点数で女性のみを簡易に合格さ
せようとするのか、というのが第一。
そして、男女差を設けてどうして
女性のみめちゃくちゃ低レベルに
設定するのか、その必要性とは、
という問題が第二。
私などは、協会のこれらの措置は、
ビリヤードという男女同権、平等に
同列で唯一戦えるスポーツの尊厳を
軽視する愚行であると考えている。
駆けっこや他の体力勝負の競技では
ないのだから、ビリヤードの試験は
実技においても学科と同じく同列の
合格基準にすべきである。

剣道などはそうした差別は無い。
男女混合の対戦で、男子のみ女子から
二本で勝ち、女子は一本のみ取れば
勝ち、などというふざけたルールは
無い。強い者が勝つ。それが勝負で
あり、スポーツの本当の神髄なので
はなかろうか。
ビリヤードは、球技では唯一男女差
なく真っ向勝負できる構造を有して
いるスポーツだ。
それを捻じ曲げて女性を格下に置く
措置はナンセンスだ。
実際の所、ビリヤードのアマがやる
公認実技検定などは男女差はない。
あれをプロ試験の実技に採用した
ほうが本当の男女平等、同権の具体
的な実行といえるのではなかろうか。
合格点数に男女で差を設けずにね。

凛とした表情の戦前の女性選手。

とてもカッコいい。
ここで「男勝り」とか「女丈夫」と
か「女だてらに」いう視点で見たら、
それは明らかに女性
差別だ。


差別とは、社会構造の制度としての

差別と、人の意識の中での差別性と
の二つがある。
結局は、いずれも、人が人を虐げる
事を良しとする制度や発想、思想性
であり、差別こそ人の世から消滅す
べき事案だ。
だが、努力して技術と知力を磨いて
結果を出した者が上位に行く。
これは区別であり、差別ではない。
みんなでお手手繋いで駆けっこでは
同時にゴールが平等だ、などとする
日本共産党のようなのは、根本から
大きなとんでもない履き違えをして
いる。



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