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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

喫茶店

2021年05月12日 | open


三原には「まきしむ」という1970年代初期
からやっていた喫茶店があった。
1970年代の高校時代や大学時代には東京
から三原に来た時にはよく行った。三原
に転住してからも何度も通った。
お化けのようなパフェが名物だった。










コーヒーも美味しく、味のある昭和風味
満載の純喫茶だったが、惜しくも数年前
に閉店した。
その少し前に、マスターが「そろそろ閉め
ようかと思っている」と話していた。
お客さんが激減したから、との事だった。
そういえば、1960年代、70年代は人は
よく喫茶店に行った。高校生も中学生も。
今はファストフード店だろう。マックなど
行くと高校生が集団で長居してノート広げ
てたりする。
1960年代のアニメ『アタックNo.1』でも
女子中学生が喫茶店に行ってるし、『巨人
の星』では、「話をしよう」となると喫茶
店だった。
これは現実世界もそうで、私も中高生の
頃は何かあると喫茶店だった。
喫茶店のマッチ集めが好きで、高校卒業
の頃には小さな蜜柑ダンボール2箱分の
喫茶店のマッチが集まっていた。
外出すれば喫茶店。首都圏だけでなく、
いつでもどこでも日本全国行くのは喫茶
店、だった。高校の時も学校帰りには連れ
だってサテン。池袋のロマンス通りやR大
付近が定番だった。
第一、高校の時は神田神保町の喫茶店で
私はバイトしていた。
喫茶店は私だけでなく、人々の生活と共
にあった。
喫茶店ではナポリタンとピザトースト、
これが昭和の定番だった。
日本初のナポリタンは横浜の喫茶店で作っ
たと言われている。(その店は現役)
そして、昔の喫茶店の特徴は、ファスト
フードやカフェのチェーン店ではないの
で、開店したり閉店したりを繰り返す事
は無く、腰を据えて永く店を開いている
事が多かった。
「行きつけ」の店を多くの人が持ち、常連
客というものが喫茶店にはあった。それが
昭和・平成の街と人々の姿だった。

戦前の昭和初期に「カフェ」が出来てから
その後「純喫茶」が登場し、日本人は親し
んで来た。
なぜ「純」がつくのかというと、昭和初期
のカフェはビリヤード等の遊興設備もあっ
たりしたからだ。そうではなく、純粋に
飲み物のみでの営業をする店を「純」と
したのだ。そこでは蓄音器でクラシックの
名曲のレコードをかけたりした。
このパターンは戦後、「名曲喫茶」として
純喫茶の定番パターンとなった。のちに
有線放送がレコードに代わった。
特に1960年代〜1980年代は喫茶店は大
繁盛だった。私も高校時代は神田神保町
の喫茶店でバイトた経験があるし、叔母
などは喫茶店を経営していた。そこに会社
経営を引退した友人の御祖父様が毎日通っ
て、カウンターでゆた〜と昼間からビール
を飲んでいたりした。
喫茶店とは、まさにそうした寛ぐ場所で
あった。
韓国には「喫茶」の文化が存在しなかっ
たが、日本には「茶を飲む」という風習
が中世には発生していたので、文明開花
以降に登場した店舗での喫茶も日本人は
すぐに親しむ事になったのではなかろう
か。明治に大流行したのは「洋食店」だ
ったが。多くは店内にはやはりビリヤード
置かれていた。
また、日本人にとって、喫茶店は男女の
恋愛譚での出会いと別れの場所でもあっ
たシーンも多かった。
吉田たくろうの曲の『外は白い冬の夜』
などは、もろにそれだ。

「まきしむ」が閉店して残念に思ってい
たが、暫くしたら「カサブランカ」とい
喫茶店が同じ場所で開店した。
なんでも、近所の閉店した喫茶店「ムシ
カ」の調度品を使った内装だといわれて
いた。「カサブランカ」になってからは
私は行った事がなかった。なぜならば、
即廃業したからだ。秒速のように。

三原では駅前の純喫茶がどんどん消滅して
いる。
だが、まだ残っている昭和の喫茶店もいく
つかある。
頑張ってほしい。

酉御門跡の向かいの喫茶店。


廃業した映画館「文映」の一階にある
喫茶店。


三原駅前残存カフェ。


JR三原駅


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