
備後国三原城。

三原城は永禄10年(1567)に築城が

三原城は永禄10年(1567)に築城が
着手された。
それまで新高山城にいた毛利一門の
小早川隆景は、海上の大小の小島と
岩礁を埋め立てて繋ぎ、水上都市を
建設しようとした。
着工から13年後の天正8年(1580)に
は海城としての姿が整いつつあった。
だが、関ヶ原以降、徳川将軍家の命
により中国地区の覇者であった毛利
一門は長門・周防に封じられた。
そして、福島正則が備後・安芸両国
の太守として慶長5年(1600)に赴任
する。
福島正則は城作りの名人だった。自
ら手慰みで武具鍛造もするが、城を
作るのは職人だ。正則が大工をする
のではない。多くの極めて優秀な石
工や大工を抱えていたのだろう。
当代随一の城名人が福島正則だった。
正則は、広島城を整備して完成させ、
さらに支城である三原城も完備した。
三原城の海面の10基の二重櫓と隅櫓
32基、城内の城門14基は福島正則が
建造したと思われる。
だが、本藩広島城を無断で改築した
との嫌疑、謀反の意思ありとの捏造
工作により、福島正則は改易させら
れる。いらんわい!とすべて放り投
げて「武士もやめてやる」となった
のが彼だったのだが、正則の後には
紀州和歌山から浅野長晟(ながあきら)
が元和5年(1619)に広島城に入った。
安芸国と備後国は分割され、一国一
城の令により、備後には福山藩が設
置された。
ただ、三原城は特別扱いとして、備
後にありながら安芸国の広島藩の支
城として残地された。
浅野長晟は備中足守藩主、紀州和歌
山二代目藩主を経て、安芸広島藩の
初代藩主となった。
三原城にはその長晟の筆頭家老とし
て浅野忠長が城主として入った。
紀州新宮からの三原入府だった。
三原浅野家の三代目当主の忠真は
イケメンだったのか男ぶりがよかっ
たのか、江戸城で大奥の姫との大恋
愛事件があった。
幼い姫が「そこで遊ぶと危ないぞ」
と浅野忠真に注意され、それから
ぞっこんになって既婚者の忠真が忘
れられずに寝込んでしまった。
あまりの恋煩いに、春日の局が一役
買って仲をとりなし、徳川家光の落
胤である月姫を「側室」として浅野
忠真に輿入れさせたのだ。あり得な
ない。春日の局の大変化球投げだっ
た。
月姫は主人亡き後には剃髪し、三原
において月渓院という寺に入った。
だが、新婚時代から暮らしていたの
は江戸表だろう。
三原城の数十におよぶ支城として
は格式の高い二重櫓は、明治初期の
明治16年頃の写真ではすでに本丸の
櫓は取り壊されている。

二重櫓とはこれ。
三原城西築出の二重櫓もこのような
様子だったと想像できる。
この濠と石垣の内側が家臣団の武家
地であった。拝領屋敷街であり、住
宅や役所がズラーっと並んでいた。

これは四国愛媛県の伊予国の今治
(いまばり)城だが、三原城はこの
姿にそっくりだったのではなかろ
うか。

城門は三原城のほうが規模が小さい
だろうが、造作はこのようなものだ
った事だろう。


三原城の14の門は誰でも潜れるもの


三原城の14の門は誰でも潜れるもの
ではない。
これは城に面した大手門や本丸前の
街道にある後東門にしてもだ。
番士が通行人を厳しく詮議した。
家中にあっても、顔を見知らなけれ
ば誰何された事だろう。
最高裁図書館は誰でも入れず、法曹
関係者か特別許可を得た者しか入館
できない。門外で警備員から厳格に
身元確認がされる。
身元確認後は直立不動で最敬礼され
て門を潜るが、江戸期の城門通過も
そのようなものであった事だろう。


三原は地面部分面積が狭すぎる為、
明治26年の鉄道敷設の際に、城郭
の真上に線路を敷いた。
駅の南はずっと海で、遠浅部分では
塩田が広がっていた。
その塩田を潰し、明治期に臨海工業
地区が作られた。
帝国人絹(のちのテイジン)と三菱重
工が誘致され、中国地区で水島に並
ぶ工業立地地区となった。
人口が爆発的に増えた。
炭鉱町のように人がよそから大量に
流入してきて、これまた炭鉱町と同
じ土地柄が明治以降に形成された。
江戸期には三原は城下町であり、ま
た中国地区では特筆的な尚武の町で
あったので、無骨かつ士魂を重んじ
る土地の気風だった。
だが、明治9年に旧家臣団の士族たち
はすべて屋敷を召し上げられて放逐
させられた。「明治維新」に貢献し
たのにだ。
そして、多くの旧家臣団の武士で
あった広島県士族が広島県を捨てて
東京に出て行った。華族令により、
旧藩主の大名たる華族は東京在住が
義務化されたからだ。家臣の多くは
何のあても補償も無いのに東京に
随行のつもりで200年住んだ広島と
三原を捨てて自費で東京に転居した。
広島市内もそうだが、三原市内も旧
浅野家臣の士族で土地にとどまった
のはほんの数える程の士族の家しか
いなかった。
結論的に、現在の広島市も三原市も
全く士魂とは無縁、無縁過ぎる心根
の土地柄の地区となった。
なるべくしてなった。
これが「明治近代化」の一つの現実
の側面だった。
これは、かなり武家文化の良質部分
の歴史的消失としては痛い現実だ。
現在、三原市内には士魂を解する
風土は全く存在しない。
聞くところでは広島市内もそのよう
だ。
それは仕方ない。
歴史の流れでなるべくしてなった、
物理的なものだからだ。
逆に、三原や広島にあって士魂を
「よそからあとから入って来た」
「今の在地の人」に期待するほう
がどうかしている。
アメリカでジャイアンたちに納豆食
えと言っても拒否されるだけだ。
所変われば人変わる。
そんなもんだろう、世の中は。
そんただもんだよ。たべっせって
から人に押し付けはダメだよお。