渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

近藤勇の刀

2021年09月24日 | open








































事実、近藤勇はそういう男だったよ
だ。
切れれば虎徹、切れなければ贋物と
断定するような。
それでいて、人望は厚かったらしく、
板橋での処刑前にも、倒幕藩の中に
も除名を進言する者たちも少なくな
かったという。
だが、土佐藩の谷干城が絶対に赦さ
なかった。
切腹ではないのかと問う近藤に、
「おまん、武士やなかろうが」と
見下すように一蹴した。
それでも、幕府瓦解間際にとはい
え、近藤勇は幕臣旗本の陸軍奉行
並に取り立ててられており、れっき
した正真正銘の武士になってい
た。
しかし、幕府の存在を認めない倒
幕派は近藤を武士とは見做さず、
武士の名誉たる切腹もさせず、火
付け押し込み強盗と同じ斬首と
た。
そして、近藤の首は塩漬けにされ、
京まで運ばれて三条川原に晒され
た。

近藤だけに限らず、新政府軍に対抗
した幕府の武士や東国諸藩の武士の
戦死者は、近隣の者たちが弔う事さ
えも明治新政府は厳禁した。
それに背く者には厳罰が言い渡され
た。百姓たちは恐れて、戦死者たち
をそのままうっちゃっていた。
幕臣と東国諸藩の真の勤皇の武士た
ちは戦場で死体残地のままにされ、
その腐敗臭と野犬や野鳥に食い荒ら
されるままの姿は凄惨を極めたと記
録にある。

近藤勇の死後の扱いについても同様
のお達しがなされた。
誰も弔わない。
生臭坊主たちは当然見て見ぬふりを
した。仏教坊主などはいつもそうだ。
仏門に生きる事よりも、権勢におも
ねいての保身しか頭にない。比叡山
暦寺のように武士によって焼き討
にあうがよろしかろうと思うが、
には生死をかけて身を乗り出した
殊勝な坊がいた。
「死ねば皆仏、何事ぞ」と新政府軍
と見て見ぬふりをしている近隣の百
姓どもを一喝した。
近藤勇は刑場近くの寺でその坊主に
よって懇ろに弔われ、後日、離れた
多磨の別なにて胴体のみ埋葬さ
た。

その勇気ある坊主が住職だった板橋
の寺には、近藤勇の遺品の一つの短
刀が残し伝えられている。
私は縁あって、請われてその寺に
平成時代に毎年近藤さんの形見の短
刀を手入れしに行っていた。
現職住職は東大卒のインテリ住職だ
った。
形見の短刀を手入れして、じっと眺
めていたら、知らぬうちに涙がこぼ
れ溢れて来た。
「近藤さん、さぞや無念だった事で
しょう」と。
短刀に語りかけた。
それは理不尽な斬首だった。
そして、その後の東国武士たちへの
非道な新政府軍の仕打ちは、およそ
武士の仕儀とも思えぬ、外道のそれ
だった。
何が「官軍」なものか。
肩を落とす私に握られた近藤さんの
短刀は、静かに黙したま落ち着い
た仄かな輝きを放つのみだった。

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