播州浅野家の赤穂城明け渡しの
下知が下り、幕府と一戦まみえ
んやもと赤穂城に集まる浪人
たち。
その中にかつて下僕を手討ちに
して主君の勘気により追放に
なった不破数右衛門(千葉真一)
の姿があった。ジャパニーズ
トラディショナルオーブンを掲
げている。
日本の鍋は世界一古い。
縄文土器は現在のところ人類最古
の土器だからだ。
そして、鉄鍋は平安時代末期から
広く使われ始め、鎌倉期には庶民
にも普及した。
そうした鍋は囲炉裏鍋、このダッチ
オーブンならぬジャパニーズオー
ブンだ。
城そばの野外で煮炊きをして野外
食を取るブッシュクラフトな千葉
ちゃん。
時代は元禄14年(1701年)だ。
劇画の世界では、翌年、拝一刀が
死んだ。
草粥のようだ。
美味そうだ。
囲炉裏や火鉢ではなく、完璧に
その場で石竈を積んでの野外飯。
ブッシュクラフト=ブックラだ。
まあ、基本的に武士のイクサ行軍は
すべてキャンプ&ブッシュクラフト
だ。
そして、武士は自分で炊事煮炊きが
できなければならない。男であろう
と。
「男子厨房に立たず」などというの
は明治以降の九州地区等限定の偏波
な視野狭窄でしかない。
九州とて、黒田御家中や細川殿の
御家中等々、九州武士は己で煮炊き
だろうがなんでもできた事だろう。
でなくばイクサの軍陣に馳せ参じる
ことなどできない。武闘だけが武士
の資質ではない。自立せぬ武士など
要らぬのだ。自分の腹を切るのも
自分である。
こうした武士の訓は劇画『子連れ
狼』にも出てくる。
女、子供のいないイクサ場では誰
が飯をかしぐぞ、と柳生烈堂が幕
府毒見役の阿部頼母に言う。
「お主は武士でないから分かる
まい」
とも。
男が米を研ぐことに驚いていた
阿部は炊事をする烈堂と拝一刀
に更に驚愕する。
そして、この映画『赤穂城断絶』
(1978)では、ラストに大石
内蔵助(萬屋錦之介)が最期の
切腹の時に幕閣を前に言上する。
「身分の上下の隔てなく、武士
は武士に御座りまする」と。
尾羽打ち枯らしても、武士は
武士。
「武士は食わねど」ではない。
「腹が減ってはイクサができぬ」
なのだ。武士は食う。自分で煮
炊きしてでも。
キャンプは基本的に自分で何
でもやる。
私は人々の精神的および実務
的な自立性と創造力を育成す
る上において、最近のキャン
プ流行りは素晴らしい気風が
日本に蔓延してきたと思って
いる。
ゆえに、金を出して何でも
スタッフに揃えさせて高級ホ
テルリゾートの野外版である
グランピングなるものを私は
全否定するのだ。あれはキャ
ンプではない。
キャンプ気分でもない。別物
だ。
かような野外活動の仕儀がある
ものか。
キャンプは元々野外活動をする
ことによって自立と創意工夫の
思考力と協調性と自然環境への
理解と自然への適応力を養う
「教育」として各国で取り組ま
れてきた。
それゆえ学校教育にも導入され
ているのだ。
グランピングはそうした意義を
すべて踏み潰す。金さえ出せば、
金持ちならば、というレジャー
だからだ。
キャンプってね、ちょっぴり武士
の在り方に通ずるものがあるのよ。