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日本刀が見える人、日本刀を知ら
ない人でも芸術に通じている人で
あるならば、この二作の鍔を並べ
たら、見えるものが見えて来る事
だろう。
そうした人たちの差異は、物を見る
「目」の問題であり、これは訓練
とかでは確実なものは得られない。
「目」の問題であり、これは訓練
とかでは確実なものは得られない。
視力と同じく、持って生まれたもの
だからだ。眼力とはそうしたもの。
ゆえに、刀が見えない人は一生見え
ないし、芸術に接しても理解の深度
は限界性がある。モノが見えないの
だから。
見える人は、この私の拙い鉛筆の
描画からさえも、この拵がどの様
な造りであり、鍔の材質どころか
鍔の流派や作者まで見抜く。
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こうした「ものを見抜く目」は生
まれ持ったものに負うところが大
きいが、ある程度の訓練と教育で
ある程度育成する事はできる。
人には持って生まれた長じるもの
の差異が各人にはあるが、ある
一定のレベルまではその能力を
引き上げる事が可能だ。
特に芸術的な素養については。
それは、幼い頃から、多くの音楽
を聴き、また、多くの絵を実見して、
そして多くの文章と物語に接し、
多くの芸術作品に触れるという情
操教育を受ける事だ。
ものが見える見えないの根幹にある
のは、情操なのである。