渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

備後国三原紀行 ~刀剣の里をたずねる~(2014年記事再掲)

2022年08月10日 | open

刀鍛冶の鍛刀地を考察する。

「古三原」とされる鎌倉時代
~南北朝時代の刀工たちが鍛刀
した
場所は、現在の三原城周辺
とは考えにくい。

最大の理由は、小早川隆景が現在
の三原駅直下の三原城を
築城する
までは、この地は古代山陽道から
も隔絶された海辺の
寒村だったか
らだ。現在の市内のほとんどは、
戦国末期までは海である。


三原城は永禄十年(1567年)頃
に毛利一門の小早川隆景によって

整備が開始されたとされている。
海上の小島、浅瀬を埋め立てて

江戸期幕末の江戸湾品川沖御台場
砲台のような城郭を海の中に造っ
たのである。


(三原城跡:広島県三原市館
町。2014年時点)



(明治初期の古写真。海に浮かんで
見えるため「浮城」と呼ばれた)





毛利家の血筋だった小早川隆景は
天文十九年(1550年)に養子入り

していた竹原・沼田の両小早川家
を掌握し、翌年には現三原市本郷町

の高山城に入城した。
当時はその高山城奥域あたりまで
海の入り江となっており、現在の
海岸線から10数キロほど内陸地ま
でが海だった。


(高山城跡)


天文二十一年(1552年)、小早川
隆景は沼田川(入り江部分)対岸
に新高山城を
築城してそこを本城
とした。

(新高山城跡)



当時の情勢としてwikipediaの記載
では以下のように説明している。

「弘治元年(1555年)には、厳島
の戦いに水軍を率いて毛利勢の勝利
貢献するなど、急速に小早川氏
ひいては毛利氏の伸長を図っている。

後に隆景は、現在の沼田川河口の
三原湾に浮かぶ小島や中州をつない
で、
いわゆる砦を築き水軍の拠点と
した。これが三原城の原型を成した
もの
と思われ、三原要害とも呼ばれ
ていたようである。当時、新高山城
下まで
瀬戸内海は深く弯入していた
ものの、勢力を強める小早川水軍の
差配には、
より効率的な運用が期待
できるこの地に「三原城」を整備し
たものと思われる。」


天正八年(1580年)~天正十年に
かけて「三原要害」は城郭として
の形状が
ほぼ完成され、江戸期に
入って備後安芸二国の太守として
福島正則が
入封してからさらに三原
城は整備築城されたと思われる。

天正八年は奇しくも私の差し料で
ある「安芸国大山住仁宗重作」の刀
が造られた年だ。大山宗重は筑州左
の血脈につながる刀鍛冶が東上して
安芸国の古代山陽道の大山峠に住
して作刀したとされている。
流れ的には遠い京都山城鍛冶の流れ
ということになるが、天正年間の
四代目大山宗重の刀の作柄は末三原
にそっくりである。三原そのものを
大和伝とする一般論には疑問が残る。
備前鵜飼派の作との共通項も多く
見られ、それの技術的命脈性がある
とするならば、三原派は大和伝より
も山城伝を遠祖とすることになり、
大山宗重と作域が似通う事の説明も
つく。
確かに大和伝風の作も「三原」には
多く見られるのだが、一般的な備前
伝に近い物や山城物に近い作も多く
見られることの説明は誰もしようと
していない。
これまでの「三原派は大和鍛冶の
下向による」という一般的な日本刀
界の「三原観」というのは、もしか
すると大きな誤謬に基づいているの
ではなかろうかという抜本的な問題
意識を私は持っている。

(筑州左文字の末裔とされる宗重。
銘「安芸国大山住仁宗重作 天正
八年二月吉日」)








大山鍛冶が筑州から移住したと
いう現在の山陽道大山峠(2014年
時点)。
街道の山陽道であり、
江戸時代に
はここを大名行列が通った。



さて、今回の考察は、「三原が
かつていかに隔絶された土地で
あるか」という点に
ポイントを
絞って見ていきたい。それは重
要な軍事拠点の地の利を得てい
る為、戦国期の都市計画を紐解
く事にもなるからだ。

つい最近まで、尾道から三原に
入る道は高速道路という新道を
除けば、昭和30年に
整備開通さ
れた海沿いの国道2号線以外では
山沿いの谷を抜ける旧道
しかな
かった。いにしえの景観を残す。

この旧道は谷あいを尾道まで抜け
られるので、中世から存在した
と思われ、
道沿いには中世の武士
の山城がいくつも発見されている。

しかし、尾道に行くまでは(と
いうより尾道から三原に出るまで
は)いくつかの
山越えをしない
とならない。

そして、その旧道は、現在は道が
拡幅されて大型車も通行できる
ようになったが、
そのようになっ
たのはつい10年ほど前の21世紀
以降のことだ

室町時代の中世末期や鎌倉時代の
中世初中期などは、ただの海辺、
ただの山中でしかなかった。
だが、戦国武将はあえてそこに
築城した。

三原という地名の由来は「三つの
原が合わさった土地」とのことだ
が、私は疑問に思っている。


「三原」の語源となったのは「わく
はら」、「こま(こも)がはら」、
「にし(の)はら」
という三つの原が
合わさったから、とまことしやか
に言われている。

しかし、古代には「柞原」と書い
て「mihara」と読ませていたとさ
れている。

連結した平地など存在しない海岸線
ばかりの頃に「柞」の「原」として
いる。

ハハソもしくはイスの樹木の原、
つまり森林地帯のことを表してい
るのであり、
平原のことではない。
ミハラという場所はこの海岸線地
区のことではない
のではないか、
というのが私の所見だ。もっと内
陸部地域のことを「柞原=
mihara」
と呼んだのではなかろうか。
三つの原というのは後世の付会だろ
う。

「三つの原」はそれぞれ小河川が
海に流れ込むその両岸にできた土地
のことを指すと思われる。
しかし、その三つの該当地区だけ
でなく、いくつかの小河川が存在
し、そこには両岸に同様の陸地
(小扇状地)が形成されている。
いくつか見て行こう。

まず東から、「わくはら(湧原/
和久原)」。
これは古代権力と拮抗した古代の
産鉄民と関係する土地であるならば、
「あくはら」が原語でそれの転化
ではないかという疑問があるが、
ここではその考察は割愛する。
現在の三原市中之町がそれにあたる。
旧名は山中村であり、海岸線の
「木原」(この地名に注目して
ください)地区を含めて山中村と
なっていた。
この地を「元三原」と比定している
研究者もいるが、この地区に残る
古刹の存在や韓鍛冶(からかぬち)
との関連性を示す古刹名からも説
得力がある。
ここは、前述した尾道に抜ける道で、
沿道には中世の山城がいくつもある。

わくはら=現三原市中之町(なかのちょう)

広島県立東高校・三原市立第二
中学校付近、東方向を望む。
谷あいぞいに尾道方面に伸びる
道だが、この先には「太郎谷」
と呼ばれる難所がある。

太郎谷旧道。

1997年以前はこの道こそが尾道から
三原に出る道だった。
これでは車の離合もできず、大型
トレーラー車などは通れない。
山陽自動車道尾道ICから三原市内に
出るのに通る道だが、これが上掲
の中之町の新道に拡幅されたのは
1997年以降のことである。
明治に鉄道が開通するまでは、まさ
に三原城下の市街地は「陸の孤島」
としてあった。
江戸時代の城下町というのは軍事
都市であるので、要害としてはそ
れでよかったどころか、そうした
「入りにくい土地」こそが求めら
れたのだった。

「わくはら」は「からかわ(韓川
か?)」と呼ばれた水量が乏し
い小河川の沿道の場所であり、そ
の川は三原城築城の際に河口部分
を戦国時代の護岸で築かれて外堀
として利用された。

さて、次に行こう。
「わくはら」の西隣りに「こまが
はら」がある。「三原」の三つの
原のひとつとされている。
ここは大いに疑問がある。


この「こまがはら」は「高麗ヶ原」
ではなかったろうかという疑問が
あるが、それ以上に、ここは非常
に狭い土地で、ここを原と呼ぶに
はかなり無理があるように思える
のだ。谷合いの狭い土地だ。
ただ、この狭い谷は奥が非常に深
く、古代山陽道に続く道がある。
現在は途中から舗装もなくなり、
獣道のようになっていて人も通れ
ないが、地元の人の話では昭和
時代までは三原の山越えで古代
山陽道(現山陽自動車道三原IC
付近)に出る道を人が通っており、
大八車が通れたとのことである。
奥に民家もあったと聞く。
この場所はとにかく奥が深い谷
だ。江戸期には「城付五村」の
一つに加えられて特別税制地区
とされ、三原城主の鷹狩場でも
あった。駒ヶ原とはいうが、馬
を疾駆させられるような土地で
は全くない。
西町の極小規模耕地を除けば、
江戸期には三原城から一番近い
農地だった。城から数百メートル
の距離に駒ヶ原の農地の南端が
ある。
現駒ヶ原町と市内本町は隣接し
ているが、旧駒ヶ原のうち南端
の現本町地区の旧名は堀内町で
あり、それは現在町内会名に残
っている。
しかし「堀内町」と言っても、
現三原城近隣の者しか分からな
いだろう。
それは現西町を「かじ新町」、
現宮浦三丁目(旧名宮之浦→
宮浦町→宮浦)を「三番町」と
言っても分かる人が少ないのと
同じだ。各々地元の数百メートル
四方の住民しかそれぞれを知ら
ない。

(赤線内が駒ヶ原)



こまがはら=駒ヶ原。現三原市
駒ヶ原町。

三原城からすぐの地点。この先ずっと
数キロ奥まで谷が続く。



途中から旧村を見る。



これより奥は3ナンバーの車が
進めない状況になる(というより
もUターンが不能になる)ので、
普通四輪車で行くのはここらあた
りまで。ミニバイクならば行ける。
舗装終了地点より先はブッシュ
ナイフ=
マシェットで藪こぎを
しながらでないと進めないほど
道は塞がっていた。
古代山陽道の八幡(おそらく古代
駅家があった場所)まで通じた
山道だというが、人通りが途絶え
て、山越えには車を使うようにな
ってから一気に獣道化したと思わ
れる。
山頂は中国地区遊歩道となって
いる筈なので、駒ヶ原ルートを
開拓すれば
徒歩道として三原IC
までつながる筈だ。装備を整え
て探検の価値はある。
ただし、単独行は危険だろう。
自動車が一般的に普及する昭和
40年代中期頃以前は、普通に人が
徒歩で山越えルートとして利用し
ていたのだろう。

この駒ヶ原は広島藩の記録である
『三原志稿』によると、和州浪人
安田新兵衛が帰農して
開いたと
されており、その後三代で安田家
は絶えたが、その後はこの地

庄屋藤三郎と新右衛門らが土地を
分割相続したとされている。

駒ヶ原の小河川は江戸期の古地図
によると「西ノ川」と呼ばれた。
三原城が築城された際には中央部
の堀として活用されたが、明治期
に中流域から河口部にかけては
暗渠にされた。

赤○部分。


緑○部分。


下流部は城下町内なので明治期に
完全に暗渠にされ、その上に家が
建てられたりした。
この石垣は戦国末期~江戸初期の
石垣である。


駒ヶ原の西横には「三原」の地名の
理由とはされなかった恵下谷(えげ
だに)という地区がある。
実はこここそが本来「原」としな
ければおかしいように思えるよう
な場所だ。
しかし、ここは「三原」の三つの
原からは除外されている。
この地区も小河川が流れ込んでいる
が、下流域は暗渠にされ、その上に
道路が通っている。河口部分には
ファミリーレストランのジョイフル
がある。(2022年現在廃業撤去)



(正保年間-1644年頃)

市内流域。ここを上流に登ると
山陽自動車道三原ICに到達する。
途中は急峻な難所であり、車
(馬車)が通れる道は大正時代
に造られた。
この道は県北の備後国三次(み
よし)に達し出雲まで通じている。
先に見える緑色の山すそ部分か
らいわゆる「えげだに」になる。
この川筋に非常に多くの寺院が
並ぶ。


峠道は自動車が通れるように
なった。
1970年頃までは急な峠道で車が離
合できなかった。
谷に落ちそうな退避場所がところ
どころにあり、車と行き会ったら
そこまでどちらかがバックするの
である。路線バスでさえそうだっ
た。
この画像のような二車線になった
のは1980年代以降だ。


道が開かれたのは大正年間である。


下は断がい絶壁。




この恵下谷(えげだに)は、中世
には鋳物師(いもじ)が住し、多
くの銅鐘を残している。銘による
と「三原大工」と自称していた。
三原は刀剣産地であると同時に、
銅鐘を製造する鋳物師が活躍した
土地でもあった。三原城築城以前
に内陸部に「三原」があったので
ある。この事実は見逃せない。
三原とは三原ではなく柞原であっ
たのだ。

その恵下谷(えげだに。会下谷)の
現道路は大正時代に山麓に造られた
ものだが、明治~古代にかけては、
他の谷と同じように谷川ぞいが道
だった。
その恵下谷の谷底の現在はこれだ

(2014年6月)。

まさに、鎌倉時代・南北朝時代・
室町時代・江戸時代と変わらぬ
景観だろう。
この道は古代から存在した山道だ
ろうが、途中で消滅している。途
中からは川を上らないとならない。
このさらに上流には大岩もあり、
砂防堰堤もある。

恵下谷の市街部周辺は寺院が多い。
江戸期に造られたものだろう。




江戸時代幕末、広島藩三原城士で
ある志士丹羽精蔵は、慶應三年に
京都木屋町において新選組に惨殺
された。
維新後に官位を授与されて、この
三原寿徳寺に眠っている。


丹羽(にわ)家墓所。


この寺にはトクサが植えられて
いた。刀の鞘を磨くのにはなく
てはならない植物だ。



熊本県八代市の故谷川盛吉刀工
のご自宅の庭にもこのトクサが
植えられていた。
つまんでみると、まるで紙やす
りそのものだった。
茎によって番手が異なる感じで、
いろいろ揃えたら十分に紙やすり
の役目を果たしたことだろう。
現代は紙やすりというサンド
ペーパーがあるので(刃物の
研ぎにさえ使える)、このトクサ
は殆どみかけなくなった。
これは珍しい物を近くに発見した。
旅をしての目に潤いとは、こう
いう歴史の息吹を感じることの
ように思える。
普段住んでいる町でも、近所なの
にまだまだ行ったことがない場所が
たくさんある。近くとも旅はでき
るし、新しい発見は常にある。

寿徳寺の向かいも立派な寺がある。
実は三原城下は異様に寺が多い。


この恵下谷の入り口には昭和
初期に造られた大砂防堰堤が
あり、それの奥は昭和末期に
建設された新設霊園がある。


ただ、近隣の寺から無縁仏の墓碑
も移設供養されたらしく、一番奥
には無縁仏の墓碑がならんでいた。
それには明和二年と刻印された物
もあった。1765年だ。
さて、そんな三原の最後の原であ
る「西野原」を見てみる。

西野原。脇を流れている小河川が
現在の西野川で、三原市役所の
横を通って海につながる。

これが「三原」の最西部の「原」
とされる西野原。原は無い。

鎌倉時代の古三原の「三原」と
いうのは一体どこなのか?
刀剣界の大家たち、古三原が現
三原というのならば、その場所
を示してほしいと思ったりも
する。
海しかなかった場所に、どうして
フイゴを据えられたのか、と。

「三原」とはどこか?
城ができる前の三原はこんな風景。

ここは長井之浦=糸崎である。
神功皇后西征の折に瀬戸内航行
中に立ち寄り、補水したとされ
る。
その時、水を差し出したことに
よる「水調(みつぎ)」の名か
らみつぎ→御調と転化し、郡名
として律令制導入後に吉備国
(のち備後国)が設置された際
に「御調郡」とされた。
長井之浦の「井」とは汲み水の
ことであり、井戸水だ。
その井戸の崎(崎=海にせり出し
た突端)ということで井戸崎→
文字が転じて「糸碕」→糸崎に
なった。
現三原エリアの中世以前に原など

なかったが、この糸崎は上の画像
にも見られるように海に突き出し
た半島ではあるが、良質の湧水地
でもあり、もし仮に刀工が居住す
るとすれば三原周辺ではここしか
ない。
しかし、ここに行くには古代~中世
末期には海路しかなく、そのような
陸の離れ小島のような場所に刀鍛冶
がいたとは推定し難い。
鉄原料と大量の木炭を運搬するため
には、海路のみでは不十分であり、
陸路が通じているのが条件として
必要な筈である。
ただし、中世初期に設けられた安芸
厳島=宮島のような特別な場所で
あるならば別だ。
しかし、三原市糸崎町の古名長井
之浦の場所は、糸碕神社がある他
は別段特別な土地ではない。
だが、嘘かまことか、糸碕神社は
天平元年(729年)創建とされて
いて、まだ湾刀の日本刀が登場す
る以前の直刀上古刀の時代の
奈良時代であるということになる。
古代から場所としては存在した
土地だった。
三原湾内海岸の三原城近辺より
ずっと古い。戦国末期に三原湾
埋め立て大開発よりも850年も
遥か昔に糸碕は由来があった。
たぶん、糸崎の海辺の岬は、古代
瀬戸内海航路の要衝、潮見、補水
地だっただろうと思われる。出っ
張ってるから目印にもなっただろ
うし、ここが中世には完全に航海
の安全祈願の神社であったことは、
阿波国人の航海祈願寄贈記録等な
どから理解できる。
万葉のころから歌にも歌われた
目印的な地点だったと思われる。
尾道を出た後はここ井戸先=糸碕
で小休止したのではなかろうか。
そして和田沖(現在地名で和田あ
り)から須波(現代地名でも須波
あり)を抜けて沿岸沿いに船を進
め、竹原から安芸津に出て、呉を
経由して安芸広島に向かう。

万が一、「古三原」が内陸部では
なく現三原近辺で鍛刀したとした
ら、由緒としては、三原市糸崎町
糸碕神社(いとさきじんじゃ)
付近の
長井之浦か、現三原市中之
町の
賀羅加波神社(からかわじん
じゃ)
近辺だと思われる。
ただし、鍛人部(かぬちべ)の
部の人として平城京から刀鍛冶
が下向し、それが三原正家である
とする一説は、全く首肯できない。
現存が確認できる初代備州住正家
(鍛刀地は不明)は鎌倉時代末期
の人だからである。奈良時代の天
平年間とすると、正家の時代から
600年も時代が繰り上がる。
また、刀剣がすべて官製であった
上古直刀の刀鍛冶の個名は判明
していないのが事実だ。

室町中期以降は次第に鍛刀地が
だんだん明らかになってくるの
だが、鎌倉南北朝時代の刀工の
駐鎚地は不明のままなのだ。





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