4月から受講している小田原ガイド育成講座では、グループ毎に自主研究の提出を求められる。
Nori の班では「小田原の不思議なお話」と題して、小田原の逸話を集めてみた。
その中で Nori が担当した記事をここで紹介してみたい。
2話あるので本日はその一話目を
12/5 13:20 追加
携帯の画面では読みにくいとの声があったので、文章のみ下に追記します。
<1>はじめに
歴史ある小田原には数々の逸話が語り伝えられている。
それらの中にはまるで都市伝説かのような不思議な話も散見される。
今回は興味をひくこれらの逸話について調べてみることにした。
尚この調査の目的は根掘り葉掘りで真実を浮上させることではなく、ガイドとしての
引き出しを増やすことにある。
<2> 不思議なお話
1;火牛の計
<伝説の内容>
1945年(明応4年9月)
韮山城を出北条早雲は箱根を超え、1000頭の牛の角に松明を結び付け当時
小田原を支配していた大森氏に対して突入させた。
今もその雄姿を見せる北条早雲像は小田原駅西口に鎮座している。
<火牛の計を考える>
有名な伝説ではあるが、先ずの疑問点は本来臆病な性格の牛が角に火を灯され
ると前には進まず後ずさりし、とても突進なんてことはできないはずだ。
火牛の計について過去を調べてみると、BC
3世紀の中国で斉の田単将軍が行ったとの
伝説が残っている。千頭の牛の角に刀剣を
括り付け、尾に松明を灯し敵軍に突入させた
とのこと。
この逸話をまねて源平盛衰記に
「源義仲が倶利伽羅峠の戦いで角に火を点けた
500頭の牛を平家軍に突入させた」
との記載があるが、後にこれは否定されている。
仮に早雲が銅像と違い牛の尻尾に火を点けたとしても、千頭もの数を思い通りの
方向へ走らせられるのか? 暴れまわって自軍への被害が出るのではないか?
等々考えていたところ、興味深い考えを見つけた。
<静岡県 伊東市史・災害編>
市内の宇佐美遺跡の発掘調査で津波堆積物とみられる地層が発見された。
津波の高さは7~8m に達していたと思われる。
これは1495年8月の明応大地震によるものとみなされる。
現地ではその跡を見ることはできなかったが、発掘写真等を見せて貰うこと
ができた。
提供;伊東市役所 生涯学習課
伊東市でこの高さの津波なら、小田原へも同程度かそれ以上の津波が押し寄せ
た可能性が高い。
ここで日付けを見てみよう
・明応大地震 (1495年) 明応4年8月15日
・火牛の計 (1495年) 明応4年9月
あまりに一致した時期ではなかろうか。
以上より伊東市役所の鈴木氏は
「火牛の計とは、は押し寄せる波の比喩
として伝えられたのではないか」
と推測している。
しかし津波で打ち崩された街を攻撃するなど、日本人の考えでは「卑怯」だと
感じるだろう。
当の早雲にしてもその後ろめたさはあったのかもしれない。そこで「火牛の計」
なる逸話 に作り替えて後世に残したのではなかろうか。
歴史は常に「勝者の歴史」であるのだから。
参考資料 伊東市史 災害編