サッカー狂映画監督 中村和彦のブログ

電動車椅子サッカーのドキュメンタリー映画「蹴る」が6年半の撮影期間を経て完成。現在、全国で公開中。

佐村河内守氏を描いた映画『Fake』を観てきた

2016年06月22日 | 映画

(後半、ネタバレがあります。途中で言及しています。)

 佐村河内守氏を描いたドキュメンタリー映画『Fake』を観てきた。
 
 まず最初に感想を簡単に書いておく。
 面白かった! しかし映画全体があざといと言っていいほどの構成になっていて、もちろんよくできた構成とも言えるのだが、選択された場面意外を見たいという欲求にかられた。見せられている欲求不満というか。まあでも作るの大変だったろうし、森監督以外の人間ではそもそも企画が成立しなかったのかもしれない。

 映画を観始めた時、もし私が佐村河内氏に「ドキュメンタリー映画を撮りたい」とアプローチしたとして、受け入れてくれたのか?受け入れてくれたとしたら内容はどんなものになったのか?そういった邪念が駆け巡り、頭の中が暴走しそうになってしまった。それではいかんと途中からはスクリーンに集中した。

 それはさておき映画の前半で佐村河内氏は、謝罪会見で自分の聞こえの問題に関しての資料をきちんと提示したのにもかかわらず、マスコミがほとんど正確に報じなかったことを繰り返し訴える。その点に関しては全くその通りで謝罪会見の頃は、TVをつけても間違いのオンパレードでひどいものだった。
 そういうこともあってか謝罪会見当日に書いたブログ記事はかなり多くの方に読んでいただいた。趣旨としては、佐村河内氏がやったことと、佐村河内氏の聴力とはきちんと分けて考える必要がある。『聞こえにくい』人であることは間違いないだろうというもの。
(とはいえ私の書いた記事にも勘違い、間違いはあった)

その時の記事は以下。良かったら読んでみてください。
http://blog.goo.ne.jp/kazuhiko-nakamura/e/17f6f7548a61f5401910641dd57f0e1b
http://blog.goo.ne.jp/kazuhiko-nakamura/e/7556bde8edd3a5830f1040ae2e3f1419

 会見で示された診断書(映画でも再三登場する)によれば、佐村河内氏は日本国内においては障害者手帳を取得できない聴力ㇾべルだが、『聞こえにくい人』(中度難聴)である。
 そのことは映画の随所でも感じることができる。微妙な発音の違いを認識できなかったり、テレビの音を大きくして見ていたり。
 もちろん佐村河内氏が映画の中でも多少の嘘をついている可能性はある。例えば森監督が口の形を見ないで音を言い当てるといった場面でも、“たまたま”わかったのにわざと外した可能性もないとは言えない。映画のなかでは母音部分はあっているが子音部分を間違えている。あるいは作り手のほうが、当たった方ではなく外した方を編集で使っただけなのかもしれない。不明瞭に聞こえるということは、当たる場合もあれば外れる場合もあるわけだ。
 TVの音だって必要以上に大きくしていたのかもしれない。編集でテレビの音だけ大きくした可能性だってある。普通のドキュメンタリーではやらないだろうが、この映画は全部Fakeかもしれないと監督自身が言っているような映画だ。何らかのあざとい演出があったとしても不思議ではない(かもしれない)。まあそこは違うでしょうが。
 ちなみにTVの音を大きくして視聴することは、診断書に示された佐村河内氏の聴力レベルであれば有効だ。『聞こえない』『ほぼ聞こえない』状態であればTVの音はもちろん意味をなさない。

 そういった『聞こえにくい』ことを証明するための小さな嘘が少しはあったかもしれないが、佐村河内氏が『聞こえにくい』存在であることは間違いないだろう。だがそのことは2年前の記者会見の時点でわかっていたことでもある。

 佐村河内氏の大きな嘘が露呈してしまう以前、もっとも罪深い嘘は『聞こえにくい人』が『聞こえない人』を演じたことだろう。自身が聞こえにくくなるなかで、その先にあるかもしれない『聞こえなくなる』ことに恐れをいだき、「聞こえない作曲家として売り出したらどうだ」という悪魔のささやきに耳を貸したのだろうか。そのささやきだけは耳鳴りのなかでも明瞭に聴くことが出来たのか? 

 作曲家、音楽家として、『聞こえにくい』ことでの限界性を感じ苦悩したことは間違いないだろう。そして同時に己の作曲能力の限界(譜面が読めないことやクラシック音楽への素養の欠如、知識ではなく技術面)の克服のために新垣氏の力を借り、『聞こえない作曲家』というキャラを演じた。

  佐村河内の嘘のなかで個人的に興味があるのは『聞こえない』というキャラを演じると決め、そして実行していった流れ。その足跡は奥さんとともに歩んだものなのか、奥さんをも欺いたのか?
 考えやすいのは奥さんとともに歩んだ、つまり共犯関係にあったということだろうが、真実はわからない。映画内でもはっきりした言及はない。間接的に触れた箇所はある。
 そのあたりのことは関係性を壊したくないということもあるのか、あまり追及されることはない。ある種のラブストーリーとして進行させるためにはそのほうが良かったのだろうし、奥さんとの信頼関係を築くためにもそうする必要があったのかもしれない。
 
 ともかく佐村河内氏は、『聞こえない作曲家』を演じるために手話を学び始めた。手話は『聞こえない作曲家』を演じるにあたっては必須のアイテムだからだろう。奥さんも必要に迫られ学び始めた。もちろん佐村河内氏くらいの聴力レベルの人でも手話を学び始める人も少しはいるだろうが、多くは補聴器を装用し聴覚活用で『聞こえにくさ』を補うという場合がほとんどだ。
 ちなみに映画内では奥さんが手話通訳を務めていて一般的な手話通訳能力には欠けるという印象だが、佐村河内氏向けの通訳としてはきちんと機能しているように見えた。通訳方法は、聴者の言葉を逐次リピートしつつ、手話単語、指文字を表出させるというもの。リピートすることにより佐村河内氏は2度聞くチャンスを与えられる。また普段から見慣れた奥さんの口形を読み取る。見慣れてない人の口形は読み取りにくいのだ。そして補足として手話単語があり、指文字も多用されるという感じだった。まさに佐村河内氏のための通訳だった。印象としては総合的な手話力はあまり高くないように見受けられた。

 佐村河内氏の聞こえに関することに関しては少々物足りなく感じたのも事実だが、ラストのネタバレとも絡んでくるので後述する。
 
森監督の基本スタンスとして、絶対的な“真実”などない、0か1か、白か黒か、という二元論に異を唱える映画を作ろうしているのはわかるのだが『聞こえ』に関する追及の甘さに物足りないと感じたのも本当のところである。
 
 真っ当にドキュメンタリーを作ったら二元論に収束されるはずはない。ほとんどの現実そのものが二元論で語れるようなものではないからだ。だが多くのドキュメンタリーと呼ばれているものが“わかりやすく”というお題目のもと、都合のわるいものを排除し単純化する傾向にあるのもまた事実だろう。
 
 映画『Fake』は、そういった二元論に異を唱えるためにあえて単純化した構成を採用しているようにも見える。具体的に言えば、佐村河内氏側から見れば、新垣氏やマスコミのほうがおかしな存在に見える。そういった構成に観客はまんまとはめられていくわけで、映画としては正解だったのだろう。
 

 ゴーストライター問題では、佐村河内氏は再三コンセプトは自分が考え主要なメロディラインは自分が考えたと主張する。コンセプトを考えたのは残されたメモからも間違いないのだろうが、コンセプトだけでは曲の共作者とは言い難い。
 作曲という観点から見れば共作ではないとしても佐村河内氏がプロデューサー的観点から作品作りに大きく関わっていたことは確かで、音楽に限らず作品を産み出すにあたっては不可欠なものである。(言い方は変かもしれないが)曲に対する貢献度は高いだろう。そういったプロデューサー的視点は私にも足りないもので新垣氏にも欠けていたのだろう。しかし作曲者に名を連ねるということは著作権の問題とも絡んでくる。

 映画内で「では証拠となるメロディを聞かせてくれ」と映画に登場するアメリカのジャーナリストも佐村河内氏に迫る。大半は新垣氏に渡って手元にないようだが、残されているものもあるらしい。

 
ここまで書いてきてラストに触れたくなったので、ネタバレが嫌な人は以下の記事は映画鑑賞後読んでください。
宣伝では衝撃の12分というようになってますし。

以下、何行か空けておきます。

 









 

 

(以下、ネタバレ有)

で、そのメロディを映画内で直接聞かせるのではなく、森監督は佐村河内氏に作曲をさせるという選択をする。
(驚きではなく予想通りでもあったのだが)
森監督が佐村河内氏に「今まで作曲してきたのなら表現したい欲求が溜まってるでしょう」みたいな言葉で挑発し、佐村河内氏がそれに乗った形だ。ひょっとしたらその言葉の一部は新作を撮れていない森監督自身に向けられた部分もあったかもしれないが、ともかく作曲の場面がないと映画が終われないと判断したのだろう。
 監督は、その判断をいつしたのだろうか?とても興味がある。凄く早い段階だったのかもしれないがそれはわからない。

 佐村河内氏は作曲のためのキーボードは(撮影時点の)3年前に手放したという。新たにキーボードを購入し、NHKスペシャルで“作曲”を演じたあの部屋で作曲が行われる。
 作曲は『聞こえない作曲家』としておこなわれるのではなく、『聞こえにくい作曲家』として補聴器を活用し残存聴力を活かした作曲だ。
 その場面を素直に見るならば、聞こえなくなって2002年に聴覚障害者手帳を取得した後も、新垣さんに渡すデモテープ分のメロディを『聞こえにくい作曲家』として作曲してきたと考えるのが自然だろう。だとすれば奥さんも、佐村河内氏が『聞こえない作曲家』を演じるにあたっての共演者だったということになる。
 それとも2002年以降はコンセプトだけだったのか?しかしだとすると主要な旋律は作曲していたという佐村河内氏の主張と論理矛盾を起こしてしまう。
 
 作曲風景は夫婦愛と相まって感動風に描かれる。奥さんは佐村河内氏が作曲している姿を見ることは、本当に好きなのだろう。

 作曲の主要な部分は、奥さんと佐村河内氏本人が撮影する映像によるもののようだ。監督が撮影に行かなかった日のものなのか? NHKスペシャルの時と同じように入室を拒否されたのか? 演出としてあえてカメラを渡して撮ってもらったのかもしれない、作曲部分がFakeであるかもしない含みを持たせるために?
本当のところはよくわからない。

  もちろん森監督は感動物語として終わる気はさらさらない。ひょっとしたら少なくない場面がFakeだったかもしれないという含みを残して映画は終わる。

 個人的な印象では作曲され披露された曲自体は、やはり新垣氏の力を借りる必要があったのだなあと感じさせるものだった。どこからか借りてきた曲というような印象もあった。
 その場面自体に嘘がなければ、『聞こえにくい作曲家』として残存聴力を活かしつつ主要旋律を作曲し新垣氏に仕上げてもらう、そういう図式の解明にはなったということだろう。
(追記・映画で披露された曲は完成版なのだろうが、共作としてデモテープを渡したものは主要旋律だったのかなという想像の元書いています) 

 ただ前述したように、2002年に聴覚障害者手帳取得後もこの方法で作曲していたのなら奥さんも佐村河内氏とともに世間に嘘をついていたことになり、その方法をとらず10年近くキーボードが埃をかぶっていただけだとしたら共作だった証明にならなくなってしまう。
 そういった矛盾する場面を夫婦愛で包み込み、嘘ではなくFakeだったかもしれないよと含みを持たす。

 取材対象者(佐村河内夫婦)にも納得してもらいつつ多層的な描き方をするなんて、うーん、映画としては相当上手い描き方だったのかなあ。

 

 



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7 コメント

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Unknown (アラカン)
2016-06-22 14:34:48
うーん、主要旋律のみに聞こえましたかぁー?
私には対旋律、副旋律、ポリフォニーも、フーガ技法すら聞こえましたし、和声法も対位法もしっかりしているように聞こえました。

王道の音楽やオーケストレーションでありなが、パクりでないのは凄いと感じましたよ。

新垣隆さんは、こういう美しい王道が書けない人と思いました。
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Re:Unknown (kazuhiko-nakamura)
2016-06-22 14:43:42
書き込み、ご指摘ありがとうございます。
音楽はあまり詳しくないので、いささか乱暴な書き込みになってしまったかもしれません。
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Unknown (アラカン)
2016-06-22 15:13:26
主様へ

いえいえ、とんでもありません、こちらこそ一致ょ前に申し訳ありませんm(_ _)m

クラシックを生業としておりまして、つい気になって口を出してしまいました。
すみませんm(_ _)m

私もパクりを見抜いてやろうと即座に頭を切り返えてラストまで聴いたのですが、あれだけド王道の音楽にも関わらず誰のパクりでもない佐村河内氏の才能はやはり、新垣隆さんの才能と比較するのは違うな、と感じました。
また、FAKEの新曲は《鬼武者》や《交響曲HIROSHIMA》と共通する一貫する個性がありましたので、やはり新垣隆さんの主張は嘘だと思いました。
過去の作品はFAKEを作曲した人の作品に間違いありません。
新垣隆さんの単独作品は、佐村河内さんの過去の作品とは全く違いますので。

逆に主様には、指文字とか様々なことを教えられ大変勉強になりました。

ありがとうございましたm(_ _)m
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Re:Unknown (kazuhiko-nakamura)
2016-06-22 15:36:22
なるほど、いろいろ教えていただきありがとうございます。
ただ佐村河内氏と新垣氏、異なる2人の個性が補完関係にあったことは事実でしょうね。
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Unknown (Unknown)
2016-06-22 20:40:45
映画に登場する海外記者の記事を読むと、佐村河内氏の取材をしたのは、2015年1月です。映画のラストシーンの撮影が2016年1月なので、実はラストの「作品」の完成まで、1年近く掛かっています。この映画、実際の時間経過をシャッフルして編集してあります。ちなみに海外記者は新垣氏にも取材をしてまして、作曲についてのコメントが佐村河内氏と対象的なので引用します。
「実際の作曲には、指示書は必用有りません。悲劇を音楽にするのに悲劇の体験を語る必用はありません。悲劇を作曲するのに必用なのは、音楽の歴史の中で培われた技法です」
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Re:Unknown (kazuhiko-nakamura)
2016-06-24 11:17:08
書き込みありがとうございます。

新垣さんの言葉はその通りなのでしょう。ただ佐村河内氏の依頼がなければ作曲しなかったでしよし、佐村河内さんの意向を受けた形で作曲したということかと思います。
プロデューサーと作曲家との関係として。
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Unknown (Unknown)
2016-06-24 20:46:33
確かにプロデューサー(依頼主)と作曲家の関係だと思います。ただ、佐村河内氏自身が自分を「プロデューサー」と思っていないんですよね。あくまでも、自分は作品を「共作」した「芸術家」と主張しているんです。芸術家を志向しながら「表現の技法」を欠いたのは決定的にまずいです。佐村河内氏が自分の「能力の限界」と「本来の資質」を見つめ直せる人間だったら別な生き方が出来たと思うんです。
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