かったかくんのホームページ

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「思い出の校庭の石碑の由来」

2018年05月10日 | Weblog
ちょっと、昨日の続きです。

今日、卒業アルバムには、今はあまり見受けられませんが、かつては、卒業写真を校庭の石碑の前で映ったものが多いです。
少しふるさとの歴史の勉強を。


1965年、昭和40年のふるさとの歴史を少しひもどきます。

○耶馬溪村から耶馬溪町へと町制が施行されました。
○耶馬溪中学校・津民中学校・下郷中学校・山移中学校の4校が統合されて耶馬溪中学校となり、現在の地に校舎が建てられました。


昭和40年は、ふるさとも変革期の中にありました。村が町へ。4つの中学校が1つに・・・。すごい変化。
 



40年前の学校

では、この石碑ってなんだ?「かったかくん」が中学生の時もありました。1965年、昭和40年にタイムスリップをします。


「昭和40年、下郷地区の江藤湖藤太氏が浄財、480万円を奨学金として町へ寄付をしました。それから江藤奨学金制度ができました。」

40年前の卒業生



その利子で高等学校に在学する生徒に対して、人材育成を目的として奨学金が活用されました。
奨学生は、毎学年末、学業成績表を教育委員会に提出したりする義務もありました。多くの生徒が学びを求めてこの奨学金を利用していきました。

「かったかくん」のときも「江藤奨学金」制度がありました。
 


現在の石碑

江藤氏は、この奨学金制度を確立しただけでなく、小中学校の学校環境整備に尽力されています。ふるさとの子どもたちの将来のことを大事にしてくれていました。


江藤氏の素晴らしい行動に対しての偉業をたたえて、3年後の1968年、昭和43年3月に江藤湖藤太氏の石碑の除幕式が行われています。


前の校舎

今のテニスコートの近くにある石碑。たぶん、生徒たちは、このことを知らないと思います。
また近いうちに生徒にこのことを改めて伝えたいと思います。



現在の石碑


中津市と下毛郡が合併されてからは、この奨学金制度も各種奨学金と合わせて、中津市奨学資金となっています。

いろんな歴史の中で、子どもたちは故郷で生きています。いろんな角度からふるさとの子どもたちを大切にしていく活動が展開していきたいものです。

将来を託す子どもたちを育てていきたいです。
今日もそんな話し合いが昼から行われました。



子どもたちには、たくましく心も体も学びも育っていって欲しいです。


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