J OKAYAMA ~岡山スポーツの桃源郷へ

岡山トップスポーツファミリー(ファジアーノ等)、スポーツ文化情報リスペクトブログ(共同運営)。

Jリーグへの道について37

2017-10-01 00:01:52 | ファジアーノ岡山

 リスペクト(事例紹介)コラムです。
 今年6月に山陽新聞朝刊に「岡山サッカーの歩み」という特集記事が連載されました。岡山サッカー界の本当の創世記から現代まで詳しく書かれていました。当ブログとしては、'05年頃の「岡山からJリーグを」運動が本格化した頃から覚えています。最近の情報は読者の皆さんもよくご存知だと思うので、今回はその中の「第2部 ファジアーノ編」のJリーグへ昇格までの記事を順番に引用して紹介していきたいと思います。第4回の今回は「④ プロ化」から。以下、抜粋して引用させていただきました。
                
「2006年夏、ファジアーノ岡山は組織を株式会社化、社長に木村正明(48)を迎え、J入りを現実的に見据えた体制を敷く。ブラジル人FWジェフェルソンを獲得し戦力強化も進めた。中国リーグ2年目。日本フットボールリーグ(JFL)昇格が絶対の目標だった。
 中国リーグは破竹の9連勝を含む11勝2敗1PK勝ちで、初優勝を飾る。次なる関門は前年はね返された「全国地域リーグ決勝大会(地域決勝)」。本当の勝負はここからだった。
 地域決勝は、全国の地域リーグの上位チームなどが集い実力接近。3連勝など短期決戦の過酷な日程で、Jリーグまでのステップの中でも「最難関」とされた。
 13チームによる争いで、ファジアーノは1次ラウンドを突破。4チームで戦う決勝ラウンド(大分市)に初進出する。2位までがJFL入りにつながる条件の中、1勝1敗で迎えた最終のTDK戦(東北)戦。1-1からのPK戦で敗れ、3位となり、昇格は夢と消える。
 地域決勝敗退は2年連続。「ここまでが限界かな」。当時、監督を務めていた現岡山県サッカー協会会長の山下立次(62)=倉敷市小島小川=は試合後、こんな思いがよぎったという。ファジアーノはプロで固めた他のチームとは違い、ジェフェルソン以外はアマチュア。
「生活がかかっているかどうかの差が出た」と山下は述懐する。
 社長の木村は“改革”は早い方がいいと感じていた。当時は「試合より私用」というような選手もおり、「ファジアーノに人生を懸けた選手らと同じ船に乗りたいと考えた」。出した結論が「プロ化」だった。
 そのオフ、選手は大幅に入れ替わる。現主将の喜山康平(29)らが東京Vからの期限付き移籍組3人を含む15人が加入。一方で19選手が退団した。トレーニングの時間帯を、夜間から他チームと練習試合を組みやすい日中へ変更したことで、仕事の都合がつかなくなったためだった。」
「指導者も例外ではなかった。木村のつてで、新監督に元日本代表FWで元J2草津監督の手塚聡(58)等を招いた。」「チームのプロ化により、ファジアーノはJ2昇格に向けアクセル全開で進み始める。」 
引用:山陽新聞(上左画像参照)
   

 記事タイトルは今回から変更です。「草の根」は前回の頃までという個人的印象なので。ジェフェルソン選手、はっきり覚えています。当時、横浜FCさんから鳴り物入りで入団した実力派の外人選手。当時、F田さんという通訳兼フロント社員も入社されました。この頃から少しずつ社員が増えていきました。どの頃にどなたが登場したか、すべて覚えています。はっきりではないですが(苦笑)。
 この頃、岡山商工会議所に県サッカー協会と、HSCも事務所が移転し、新法人もそのままそこを事務所として継承しました。ファジの事務所はとにかく狭かったですね。県協会の一部分という感じでした。確か2005年に初めてポスターが登場し、当時、HSC広報誌の配布場所を置いてもらっていた事もあり、県南スポーツ店を中心にポスターを配布していました。うーむ、この時がクラブ初の(個人)ローラー作戦という事ですが、あれからかれこれ11年ずぅーっと、ポスターを手に歩いている訳ですか。最近ではローラー作戦も組織化し、特にサポーターの皆さんは毎回熱心に活動されます。
 
 語る会でよくFリーダーと出ていた昔ばなしで、誰も覚えていないでしょうが、ジェフェルソン選手とともにサントスという選手も入団しています。ほとんど出場実績はなく、幻化していますが、応援フラッグにしっかりサイン残っています。(どれかはっきりしませんが)
 練習時間を変更した当時は、かなり話題になりました。今までチーム発足からずっと一緒に戦ってきた戦士達が去っていった訳ですから。キャプテン一昌(藤井選手)など、とても名残惜しい退団でした。
 ヴェルディ3人衆の前に、2006年秋に重光(東京V)、野本両選手が入団した時代がありましたね。そして、2007年2月に喜山、三原、弦巻のヴェルディ3選手とともに15人が入団。プロ化が進んでいきました。当時よく喜山選手のブログを読んでいました。三原選手はマイペースで、とにかくコミカルな選手でした。弦巻選手はその後思わぬ奥さんが登場し、外国に移籍されたりと激動の選手人生だったですね。喜山選手は当時は若くてやんちゃ(ごめんなさい)なCFでしたね。今はJ1クラブ(当時の松本さん)の主将経験をもとに再入団した、頼もしいキャプテンです。他の2人は今どうしているのかな。そして手塚監督。いいオヤジさんでしたね。若い選手達のお父さんという感じでした。Jリーグ入りを実現してくれた功労者でした。今回はこんなところか。ここからはだんだん今のクラブにスタイルが近づいていき、昔ながらの思い出から遠ざかっていきます。
岡山サッカーの歩み③:http://blog.goo.ne.jp/kataru-kai/d/20170924
   〃         ②:http://blog.goo.ne.jp/kataru-kai/d/20170917

   〃         ①:
http://blog.goo.ne.jp/kataru-kai/d/20170910

コメント
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