迷建築「ノアの箱家」

ひょんなことからNOAに選ばれし者として迷建築「ノアの箱家」に住むことになったKOKKOの笑ってあきれる自宅建築奮戦記

ハウスとホーム(セルフビルド考⑳)

2011-02-05 08:30:32 | セルフビルド考

毎年寝太郎君

家は、“ハウス”であるが“ホーム”である。

単なる器ではなく、居場所のことだと解釈している。

セルフビルドのブログで毎年寝太郎君のブログが人気なのは、昨今の経済事情を反映して少しでも安く家を建てて生活するためのヒントを求めている人が多いというより、寝太郎君の非常に個性的なライフスタイルに関心を持っている人が多いからと推察している。

私も、寝太郎君のライフスタイルには強烈に関心を持っている一人である。

彼の自分の“ホーム”を作ろうというひたむきさに好感を持つ。

私にとっては、家を建てるための技術的ヒントが満載というより、己の生き方を考えるヒントが満載と言った方がいい。

住居のあり方は、その人固有の生き様の現れに他ならない。したがって、家を見ればその人が何を大切に生きているかが分かる。

寝太郎君のブログは、非常に明快にそれが伝わってくる。

おそらく一般的な感覚からすれば、彼を社会貢献を考えないニートだと言う御仁もいるだろう。

ましてや、彼自身の言葉によれば、元ホームレス・引きこもりであった(ある)となると、胡散臭いと感じる御仁もいるだろう。だが、「都会でやって行けないから田舎に逃げた」という彼を“根性なし・やる気なし”で、Bライフは“負け犬のサバイバル”に過ぎないと言えるのか。

私はそうは思わない。

自分の内面の切実さに忠実であろうとし、自分の立ち位置を固め掘り下げていこうとしている姿にむしろ真摯さを感じている。

彼は、“ハウス”ではなく“ホーム”を作ろうとしてきたに違いない。

どんな“ホーム”を創りあげていくのか、今後も必見である。

 

千石イエス

昔、「イエスの方舟事件」というのがあった。

千石イエスなる人物が若い女性を大勢連れて神隠しの如く連れ去ったと騒がれた事件である。

熱海だったかどこかで彼が体調を崩して病院に入院したのをきっかけに、真相が明らかになっていった。女性たちは連れ去られたのではなく、彼に付いて行ったのだ。むしろ、千石イエスは当初はそのことに戸惑いさえ感じていた。

確か、“投降”の時も、千石氏は投降すれば娘達が家に連れ戻されて不本意な暮らしに戻ることを懸念し、悪化していく体調を押して逃亡生活を続けていたと記憶している。千石氏の体を心配する娘達がおっちゃん(娘たちは千石氏をそう呼んでいた)を説得する形で“投降”したと記憶している。

あの事件は、衝撃的だった。

「何で? 何で家族を捨てて他人のところへ? しかも集団で?」

統一教会でもなく、オウム真理教でもなく、ヤマギシでもなく、あれにはもっと人間の臭いがした。

娘たちは、切実に自分の“居場所”を求めていた。千石氏は、それに応えようとしていたのだ。

イエスの方舟は、まさしく彼女達の“ホーム”だったに違いない。

 

昔、ハンセン氏病を患った桜井哲夫氏の詩を読んで不覚にも泣いてしまったことがある。

最近、朝日新聞に日本のみならず世界各地を旅してはしゃぎまくっている彼のことが載っていた。家族から引き離されて狭い施設の中で人生の大半を過ごしてきた彼にとって、それは単なる物見遊山ではなく、人間としての誇りの復権である。

その彼にとって、あの在日朝鮮人の元女学生の存在は“ホーム”であったに違いない、そして今も“ホーム”なのだろう。

 

建築家には“ハード面の家”しか建てられない。

“ソフト面の家”はいかに建築家といえども建てることは出来ない。

こればかりは、自分でつかんでいく、創っていくしかない。

セルフビルドするしかないのである。


  


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