必要最小限の広さと設備
NOAに設計を依頼したとき、「必要最小限の設備でいい、それにお金をかけるよりも、そこでどう生きていくかの方を大事にしたい」と言った。
しかし、「必要最小限」とは、なんてあいまいな言葉なのだろう。
人によって、その言葉の意味するところは大きく異なる。
ある人にとっては、一畳のダンボールマンションが必要最小限であり、またある人にとっては、9㎡が必要最小限であり、ある人にとっては100㎡であったりするから厄介だ。
9㎡セルフビルドの小屋については、「これなら出来そう!」と思って見ていた。
建築確認申請の必要が無いから楽珍だし。(ただし、更地に新築の場合は必要)
しかし・・・。
本当にそれで満足できるか?
屋外をトイレ・キッチン・居間・インテリアを包括する空間とするならば、それもOK。
だが、屋内は寝るだけになってしまいそう・・・。
で、下(都市部)に住んでいる時、自分の動線をよく考えてみた。
キッチン・仕事部屋・寝室・風呂・トイレ・・・計算すると、やはり6畳二間分にはなってしまう。
特に、私は食器と料理用の道具、布とその道具がとても多い。収納にスペースを回すとなると、どうしても狭くなる。
で、仕事部屋兼キッチンで一間、収納・トイレ・風呂兼寝室(ロフト)で一間とすると、なんとか6畳二間でいけるかな?
なんてことを考えていたら、9㎡というのは私にとってはどうしても狭すぎると思えた。
「必要最小限」って、何てあいまいな言葉だろう・・・改めて感じてしまった。
同時に、私は何て恵まれているんだろうとも・・・。
昔、新聞少女としていくつもの○○荘などという所に出入りしていたことがある。
5人家族が6畳一間なんてのはざらだった。
部屋の入り口に散乱している生活用品を見て、子どもながらに色んなことを私は感じていた。
家を見るというのは、その人の生き様を見るということに他ならない。
「必要最小限」とは、その人の欲望の大きさの最小限を表しているいるのかもしれない。
ところで、正規雇用が大幅に減る今、若者たちは自分の棲家をどのようにイメージするのだろう?
生涯結婚しないで一人暮らしをすることになるか、シェアハウスで仲間と暮らしていくか、本人の意思ならいいのだが、中には意に反してこれまでの家のイメージからは大きく異なる道の選択をせざるを得ない人が増えるのではないか。
我が家の青少年のパラちゃんも、住み込み業務で(修行中の身とは言え、飼い殺しに近い過酷な労働。朝8時から深夜12時までの勤務。週に一回は明け方5時まで。狭いワンルームに二人の従業員。私にはタコ部屋生活に見えたが、それでも、非常に恵まれていたと今は思う。)身体を壊して私の所に舞い戻ってきた。現在、新たな道を見出しはしたものの、若者達の未来はそれほど明るいとは言えないような気がする。
私は、地震による都市機能の破壊に脅えてここへ来たので、ある種のサバイバル志向者の一人とも言えるだろうが、エコ・循環型生活やBライフとサバイバル生活は、技術的に大きく重なる部分があると考えている
「必要最小限」の言葉の意味をもう少し深く掘り下げてみたい。
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