迷建築「ノアの箱家」

ひょんなことからNOAに選ばれし者として迷建築「ノアの箱家」に住むことになったKOKKOの笑ってあきれる自宅建築奮戦記

カナディアンファーム(セルフビルド考25)

2012-05-22 21:52:32 | セルフビルド考

「廃材王国」カナディアンファーム

囲炉裏茶屋に住んでいた時、和里庵のM女史から借りた「廃材王国」という本がえらく気にいって、いや、本というより、その建築群の感覚が気に入って、ずっと訪ねて行きたかったのが、八ヶ岳のカナディアンファーム。神長官資料館と同じく、茅野市にある。神長官資料館を尋ねた後に、昼食がてら、寄ってみた。

 

         

                     アスレチック                            “居候小屋”の入り口にある集会所

 

子供向けのアスレチックまで造ってあった。これは、本には載っていなかった。最近、造ったものらしい。アスレチックの上に、隠れ家的(牢屋的?)なミニスペースがあって、大人も喜んでもぐりこんでいた。勿論、私も。

かつて、“居候小屋”と「廃材王国」で紹介されていた小屋の前の集会所の屋根の裏の木組みの面白いこと。カナディアンファームでは、設計図無しで家を建てる。そこいらで見つけた適当な木を使って家を建てるので、このような面白い出来上がりになる。カナディアンファームには、いたるところにこんな建物が建てられている。全てセルフビルド(中には、朽ち果てているものもあった)。サウナまであったのにはびっくりした。

ここの建築群の特徴は、とにかく、思いつきというかひらめきで造るとうこと。基礎なんて、森の木を何本か根元数十センチあたりで切り倒し、切り株を基礎代わりにして、その上に床を組むという方法もいくつか取り入れている。敷地内にそういったひらめきの建物がいくつもいくつもあって、手作り感というか、開拓者の家っぽいのがあって、実に面白い。

カナディアンファームにいると、自由に生きていいんだという心理的な後押しを受ける。元気になれる。

 

          

                     土がのった屋根                                       面白いドアと柱

 

これで三度目の葺き替えだという台所棟の屋根。土の上に草が生えている。現在、物置か“居候小屋”になっているらしい建物のドアの見事なこと。アプローチには、主であるハセヤンの長男の大樹君の手形と名前が。

カナディアンファームには、ハセヤンの生き方に共感する若者達が続々やってきて、常に何人かが“居候”している。ここで数年居候しながら、家の建て方や燻製の作り方、畑の仕方などを学んで「卒業」していくのだ。

今回、私が来た時も31歳の若者が店の手伝いをしていた。ここを出た後、岩手の農場で震災ボランティアをする予定だという。彼は、もともと岩手でボランティアをしていて、こちらに移ってきているので、元の古巣に戻ると言った方がいいかもしれない。

 

KOKKO:「給料は、小遣い程度には貰っているの?」

岩手居候:「いいえ。貰ってません。アメリカの農場には、主は食べ物と住居とノウハウを居候に提供し、

その代わり、居候は労働力を提供するという考えが伝統的にあるんです。」

KOKKO:「でも、ここを出て行くとき、無一文では自立できないじゃない?」

岩手居候:「居候たちは、無一文ではないんです。みんな、蓄えを持って来ているんです。」

KOKKO:「そうか。行き場の無い若者達が逃げ込んできているわけじゃないんだ。みんな、確信的居候なわ

けなのね。」

 

学びたい。体験したい。実験したい。ここに来る居候たちは、初めから自立していくことを前提として、自立のためのノウハウをハセヤンから吸収するためにやってきているのだ。

  

 

      

              天井からぶら下がる4年物の生ハム                            生ハム切りは、ハセヤンの仕事

 

食事をしていたら、なにやら生臭い臭いが・・・。天井からぶら下がっている埃?だらけ、カビ?だらけの肉の塊が犯人だった。肉の塊というよりも、尻尾付きの豚のお尻だったり、鹿の後ろ足だったり、というのが本当のところなのだけれど・・・。

ハセヤン曰く、「これが本物の生ハムだよ。塩漬けにして干してあるだけ。カビなどの力で美味しくなるんだ。見てみろ、切り口がこんなに赤くて、まるで生肉みたいだろう?4年経っても、こんなにいい色してるんだ。」

 おいおい、四年間もこんなところにぶら下げたままなのかい?

ところがどっこい、生ハム作り専用のツリーハウスがあって、中をのぞくと、お尻とか後ろ足がうじゃうじゃ天井からぶら下がっていた。ノスフェラトウか? ちと、不気味。

だけど、鼠返しつきのツリーハウスは、とても素敵だった。私もこんなの造りたい!

 

                   

                              鹿・豚・馬の生ハムと鮭の燻製

 

鮭の燻製は、勿論自家製。燻製棟も作ってあって、そこでハセヤンはハッスルしている。

この鮭の燻製は、「どっちの料理ショー」でも取り上げられたことがあるらしい。

生ハムの方は本格的過ぎて、臭いが気になって食べられない人もいるはず。通好みの味と香り。1人前で1900円?ほどもした。

だが、美味しかった!!

 

敷地に咲き乱れていたパンダスミレを所望したところ、快諾を得たので、スコップで何株かを掘り起こして持って帰った。我が家の小丘をすみれが丘と呼ぶことにしよう。


 


住みながら家を造るということ(セルフビルド考24)

2011-12-30 07:13:32 | セルフビルド考

ゴミ箱暮らし

入居してからとうとう1年になった。

床以外はコンテナの鉄むき出しのままで生活し始めたが、夏以降、断熱工事と内装が進み、やっと家らしくなってきた。が、収納棚がベッドの下以外使えない状態だったので、床に荷物や資材が散乱しまくっているゴミ箱生活をずっとしてきた。

というのも、南側に作った収納棚は、前に材木や巨大工具が陣取っているので、初めに荷物を適当に詰め込んだまま整理もできていなかったのである。おかげで、工事のたびに、今日はここを工事するから荷物はあっちに移動、明日はあっちを工事するからこっちに移動という具合に、引越し作業と工事はいつもセットの仕事となった。

この引越し作業がとんでもなく、重労働。もともと、人の何倍もの荷物を持っているから、重労働度も数倍。8時半には大工との打ち合わせ開始なので、早朝から荷物の移動を一人ですることになる。

そして、工事。

大工の昼食作りもしなければならない。一人だったら、お茶漬けで済ませるが、手伝ってくれている大工や彼の友人のことを考えると、そうもいかない。前夜、仕事から帰宅してすぐに山越えして買出しに行くことになる。樫田には店がないので、どんなに疲れていても、車で一山越さねばならない。これまた重労働で、居眠りしそうな時が何度もあった。

そして、工事の後の掃除も辛かった。

燃やせるごみは、出たはなから燃やしていくが、それでも追いつかない。

いくら布を被せても、工事で出てくる埃はどうしても荷物の間に入り込んでしまう。

工事ですでに疲れきっている身体での掃除は堪えた。それを毎週繰り返すので、とうとう嫌気がさし、最後の方になると、「どうせ、埃だらけになってしまうんや。えい、ママよ。」で、布を被せるのを最初から手抜きし、ひどいときは、掃除さえしなくなってしまった。

これが、この一年のゴミ箱暮らし、住みながら家を造るということの実態である。 

  

                       

南側コンテナ。工事が進むにつれ、「居間」でなくなり、「資材置き場」と化した。これは、かなりましな状態。以前は、足の踏み場を探さねばならなかった。

 

                 

東側コンテナ。これもまだましな方。この二日間で、棚が使えるようになり、大工の来ない日もあったので、その時間を利用して整理することができた。現在、壁の荷物は半減した。→「捨てる技術」

この部屋は、いずれギャラリー機能を持たせるので、荷物は一切なくしてしまう。

 

                     

仕事スペース。作りつけの本棚には、まだ扉をつけていない。地震で本が飛び散らないようにロック式の扉にする予定。

たいした本でもないのに捨てられないので、本棚は手前と奥に二重に詰め込んである。引越しの時、段ボール箱17杯分の本だった。→「捨てる」勇気を!

本棚の前に、囲炉裏茶屋から貰ってきたカーテン生地1ロール。部屋がもう少し片付いたら、これでカーテンを縫う。本当は冬が来る前に縫ってしまいたかった。

                   

扉はまだつけていないが、台所の棚が一応出来たので、床に散乱、もしくは段ボール箱に詰め込んだままの荷物をとりあえず突っ込んでみた。突っんでいくにつれ、床が見え始めたのには、感動。

おお!! ここは、「家」だったのか!!

 

                  

キッチンの上の棚が出来たので、ここぞとばかりに荷物を上げる。ノアの設計士からいただいたシーサー殿が鎮座する“神棚”。

それにしても、羽目板を貼ると、解体現場から貰ってきた窓の古さが目立つよのう。でも、ちゃんと塗装しなおす予定。色は・・・。

 

今、細部の仕舞いはまだとはいえ、家の内部の鉄はほぼ姿を消した。

外壁もスタイロフォームむき出しだが、家らしくなってきた。

断熱にも満足している。

先日、屋外が-5℃のとき、室内が8度あった。(うちは、窓が多く、カーテンもまだしていない)

下に住んでいた時、樫田よりも暖かい地域なのに、室内の気温が7℃しかない時があった。囲炉裏茶屋の離れで暮らしていた時も、屋外-3度の時、カーテンをしていて7℃(グラスウール断熱)だったから、これは、なかなかの断熱状況なのではないか。

安普請の以前の持ち家の断熱材は、グラスウールだったのではないかと今になって思う。

コンテナでも、屋根を工夫し断熱に配慮すれば、夏は涼しく冬は暖かく暮らせることの証明になったのではないか。


 

 


“コウタ”とコウタ(セルフビルド考23)

2011-10-30 22:38:38 | セルフビルド考

「アートスペース樫の木」  名前の由来

我が家の正式名称は、「アートスペース樫の木」。

「ノアの箱家」は、そのうちの居住家屋を指し示す名称だ。

「アートスペース樫の木」の名前は、かつての教え子がポケットに大事にしまいこんでいたどんぐりの実から芽生えたナラの木に由来する。

 

教え子の名前はコウタ君。

私が初めて本格的に指導した自閉症の子どもである。

出会った時、彼は小学1年生。自発語が無く、表情も乏しかった。

校庭で友達に押し倒されて馬乗りされては叩かれ続けても、コウタ君は、無表情に寝ころがっているだけだった。(叩いている子の方も自閉症の子どもで、決していじめているのではなく、それが仲のよい二人のコミュニケーションだった)

それを見るたび胸が締めつけられるのだが、果たしてどう指導していいか皆目見当がつかず、手探りの日々だった。

うさぎが好きだと聞き、教室でミニうさぎ(現在、我が家の中庭で老後を過ごしているちょこちゃん)を放し飼いにし、情操と言語を育む方法とした。

毎日うさぎを指差し、「あれは、“うさぎ”。」と語りかけ、黒板に書いた「う」「さ」「ぎ」の文字を発音しながら、コウタ君の指を持って一緒になぞり書きし続けた。

けれども、コウタ君は一向に喋ってはくれず、半ば諦めかけていた3ヵ月後、突如としてコウタ君は、自分の足元に駆け寄ってきたちょこちゃんを見て、「う~~さ~~ぎ~~」と、喉の奥から搾り出すような声で喋った。

繰り返される「う・さ・ぎ」という言葉の発音は、次第に明瞭に、速く、大きくなっていく。そして、コウタ君は勢いよく黒板に駆け寄って行き、「うさぎ」と自力で書いた。

目の前で起こっていることを理解するまでに時間がかかった。 衝撃的な出来事であった。

その日の光景を、私は今もはっきりと記憶している。

ヘレンケラーが初めて“WATER”と言った時のサリバン先生の感動は、きっとこんなふうだったのではないだろうか。

それ以降、来る日も来る日もコウタ君は、一人で勝手に「う・さ・ぎ」と喋り、書き続けた。時には、ノートや紙切れにも「うさぎ」を連発し続けた。

コウタ君にとって、物には名前があること・・・それは大きな発見であり、それほどの大きな喜びだったのだ。

それをきっかけに、コウタ君は急速に多くの言葉を覚えていった。

同時に、少ないながらも自発語も発するようになった。

 コウタ君は、多くの気付きと感動を私に与えてくれた子どもの一人である。

 

コウタ君は、小さな丸いもの:ビービー弾やどんぐりの実を集めるのが大好きだった。

お母さんが服を洗濯するとき、ポケットの中からしょっちゅう大量のどんぐりの実が出てきた。

コウタ君はそれを庭じゅうに次々埋めていき、家のあちこちからどんぐりの芽が吹き出した。

お母さんは、それらを抜き取り続けるというどんぐりとの戦いに突入したのだが、一つだけコウタ君専用の朝顔の植木鉢の中のどんぐりだけは残しておいた。

私とコウタ君の別れが近づいてきた頃、小さな鉢に5本の木がはちきれんばかりに育っていた。

お母さんは、「このままでは大きくなって困るから、捨てようと思います。」と言った。

「じゃあ、このどんぐりをコウタ君の思い出として私に下さい。」と言って、私は鉢ごと貰い受けた。

土地を買ったとき、隅っこに植え、この木を我が家のシンボルツリーにしようと決めた。

そして、どんぐりを“コウタ”と名付けた。

 

 一口にどんぐりと言っても、落葉樹のナラや常緑樹の樫など多種多様なのだが、私は、かつての教え子が拾い集めて宝物のようにしていたどんぐりを、どういうわけか常緑樹の樫と思い込み、「樫田の樫の木か。ピッタリや!」と、即座に我が土地を「アートスペース樫の木」と名付けたのであった。

 ところが、冬になると、“コウタ”は木の葉を落とし、丸裸になった。

もしや?と思ってネットで調べたら、“コウタ”は、常緑樹の樫ではなく落葉樹の楢だったと知った。

だが、私の“コウタ”は、あくまで樫の木であって、楢ではない。(正確には、常緑樹になろうとしてもなれない落葉樹、樫と間違われた楢)

私は、「あすなろ」という歌を思い出して、しばらく口ずさんでいた。

「大きな檜に明日はなろう」とどんなに願ったところで、あすなろはあすなろ、檜にはなれないのだという説明を受けて小学校時代に習った歌だ。

  

     あすなろ、あすなろ、

                     明日はなろう。

                     お山の誰にも負けぬほど、

                     ふもとの村でも見えるほど、

                     大きな檜に明日はなろう     

 

だが、あの歌は決して絶望の歌などではない。

いい、このままでいい。ボタンのかけ違えは、きっと初めから約束されていたことだったに違いない。だったら、ボタンのかけ違えも、まるごと慈しんでいこう。

そう思った。

勿論、「アートスペース樫の木」を、「アートスペース楢の木」に変更しようとは思わなかった。

 

Wコウタ

“コウタ”を植えて半年がたったとき、コウタ君一家が囲炉裏茶屋に私を訪ねてきた。

土地へ案内し、“コウタ”の前でコウタ君を含む集合写真を撮った。

それから2年が過ぎ、今日、再びコウタ君一家がやって来た。

先だって、ちょこちゃんが高齢化して病気を繰り返しているので、もう長くは無いだろうと知らせたら、「生きているうちに会いに行きたい。」とのことだった。

コウタ君はすでに声変わりをしていて、身長は私より大きくなり、筋骨隆々。毎日筋トレをしているという。

ちょこちゃんとの再会を果たし、小丘の上の久保柿を高枝鋏で収穫し、工事の廃材の焚き火を楽しんで、コウタ君一家は帰って行った。

お~い!!今度は、ブラックベリーとブルーベリーを収穫しにおいで~。

車が田んぼの向こうに見えなくなるまで、私は手を振った。

 

                   

地植えのままでは巨木になってしまうので、間引きをしてから大きな鉢に植え替えたのが、今年1月。

“コウタ”には三つのおまけがついていた。これは、春になって花が咲き、正体を知った。シラー(orチオノドクサ)、百合科の花である。白い可愛い花が咲く。

 

 

                      

今年1月には、私の身長ぐらいまで伸びていた。冬は、“コウタ”にイルミネーションする。

後ろに見えるのは、小丘の柿と梅。

 

 

                      

 

 

“コウタ”は、落葉樹のままでいい。樫と間違われていた楢と分かっても、そのままでいい。

楢は、冬になると、衣服を大地に脱ぎ捨て、それを命の糧として他者へ与える。

“コウタ”とコウタ君、ともにすくすく育て。健やかにたくましく生きよ。

 


 

 


永遠に未完成(セルフビルド考22)

2011-02-12 18:43:25 | セルフビルド考

子どもと家

子どもが家とともに成長できたらどんなに素晴らしいだろう。

最近、ハーフビルドを謳う建築業者がちらほら。

ネットで見ると、奥さんがキッチンを、子どもが子ども部屋を、旦那さんがの居間の床を建築業者の指導を受けながら造っている写真を見かけることが増えた。

しかも、完成を急がない。住みながらじょじょに完成させていく。子どもが家族が家とともに成長変化していくのだ。

いいことだと思う。

思想としてのセルフビルドだと構えなくとも、たとえそれが追い詰められてのセルフビルドであろうが、余興としてのセルフビルドであろうが何であろうが、また、たとえたったの一部分であろうが住み手が何らかの形で家作りに参加することは、家への愛着が格段に増す。

とくに、子ども達が“大規模工作”に参加することは、スケールの大きな空間を意識しやすいので、後の世界観にまで影響していくような気がする。

残念ながら、我が家の青少年は自立して出て行ってしまった。だから、所詮「ノアの箱家」は母という“他人”の家でしかなく、関心なし。我が家の青少年達にも、家作りの醍醐味を味わわせてやりたかった。家造りは、子どもが小学生以降だといい。中学・高校生になると、もう立派な労働力だ。しっかりこき使った方がいい。 

 

永遠に未完成の家

白足袋の飼い主君(石山修武氏)なんて、「未完成だからいい。その方が生きている感じがする。」なんてことを言っている。

確か、世田谷村は、10年以上経った今も未完成だったと思う。当初は、がらんとした大空間からスタートし、息子さんに「部屋が欲しければ適当に勝手にそこらに造れ」と言っていた。ははは。笑っちゃうね。ワクワクしてしまう。あたしゃ、こんな親父の所に生まれてきたかった!

しかし、トイレはカーテンの仕切りだけ、その周辺に家族以外の大人数がいるとなると、世田谷村では、用足しは村外に行かなきゃならなかった年頃の娘達がいたのではなかろうか?

特に、○○○なんて、臭いのことを考えて引っ込んでしまって便秘にならなかったのだろうか?

さすがに羞恥心何処吹く風の大阪の廃鶏寸前病的苔KOKKOも、これだけはごめんだ、なんて、人の過去の暮らしが気になって気になって仕方ない。そこが知りたい。

 

さて、今日、出張から帰ってきたら、樫田は吹雪。下は雨。大阪市内は午後から晴れだった。

明日はどうなるんだろう。明日は、私も工事に参加する。

本日兄ちゃんたちは、屋上デッキの骨組みの水平をとっていたらしい。

 

囲炉裏茶屋にある陶房和里庵のM女史が夕方来訪。

新築祝いの陶器製卓上時計をいただく。

有難い。


 


セルフビルドは本当に安い?(セルフビルド考21)

2011-02-11 07:22:08 | セルフビルド考
セルフビルドはホントに安い?

NOAの若い設計士が言っていたことを思い出す。

「セルフビルドにすると安上がりに出来ると思っている人が多い。でも、実際にやってみると、建売の方が安上がりになることがかなりある。経費節約のためだけでセルフビルドを目指すとがっかりしますよ」と。

どんな家を求めるかによって、ピンキリだ。

だが、セルフビルドをする人の大半は、こだわりの持ち主だ。しかも、家造りを楽しいと考えている。だから、やっているうちにあれこれもっとやりたくなる。おまけに資材や重機・道具の手配についてはプロに叶わないことがある。で、気が付いたら???!!!となってるらしい。

「建売住宅って、実は馬鹿に出来ないんですよ。必要な設備を最低の費用で造っている。大量生産だからコストダウンがはかれるんです」と。

ムムムムム・・・。

彼の言うことがほんとうなら、建売住宅って、生産費と販売額の間の開きが大きすぎるのではないか。何で?と思うぐらいに私には高いと感じるから。

 

仲間が大切

仕方なくセルフビルドの道を歩んだ私だった。

が、自分の都合で工事を中断させたりできる便利さは大いに気に入っている。

お金が出来た時に工事の続きをすればいい・・・そう思えるだけで、追い詰められた気分が無くなる。今は楽しめている。

もっとも、基礎屋や鉄工所が入っているときは毎日が工事漬け状態で、正直言ってしんどかった。資材の手配・業者との打ち合わせ・役所とのやり取り・サイズの測りなおし・工法細部の検討・預金通帳残額とのにらめっこ・・・・正規の勤務をしながらそれらをこなしていくことはストレスが大きく、時に押しつぶされそうになった。

女性一人(ご主人がいるが、日本語がそれほど出来ないので、事務的なことは全て彼女一人)でセルフビルドに挑戦したフランス帰りの人を以前紹介したが、彼女は現在無事入居。そのとたん、何もかもやる気がなくなってしまったと言っていた。緊張が一気に解けたからだろう。

背水の陣でやってるさなかは気付かなかった精神的肉体的ストレスが、いかに大きいかということだ。本宅があって経済的にゆとりもあり、別荘を作るのなら、精神的に追い詰められたりはしないだろうが、後戻りできない状況の中でのたった一人の家造りには、相当過酷なものがある。

 

我が家の青少年は、乳飲み子だった頃から私一人で育ててきた。その間、夫のいる人をうらやましいと感じたことが二度ある。

一回目は、阪神大震災の時。

高槻でも壊れた家があった。私の家も壊れる!と感じたが、激しい揺れの中、階下にいる子ども達を助けに行くことも出来ず、子ども達の泣き声を聞きながら「どうか下敷きにならないで」と祈るしか出来なかった。余震の時、二人を両側に抱きかかえながら、「私一人ではこの子達を守ってやれない! 誰か! 誰か!」と叫んでいた。その時、普段は喧嘩ばかりしている向かいの家で、夫婦がお互いを呼び合う声がして、「うらやましい」と心底思った。

二回目は、まさにこの家造りの難産の時。

ちょっとでも道をそらせば崖の下に真逆さま。たった一人の暗中模索。

夫のいる人をうらやましいと思った。

「どんなアホな奴でもええ、私に休む時間を与えてくれる連れが欲しい。」

とまあ、廃鶏寸前の大阪の病的苔KOKKOおばさんは、これまた心底思ったのであった。

そう、気心の知れた仲間・家族の存在は、家造りではとても大切だ。苦しみは分かち合え、歓びが何倍にも膨らむ。