子どもと家
子どもが家とともに成長できたらどんなに素晴らしいだろう。
最近、ハーフビルドを謳う建築業者がちらほら。
ネットで見ると、奥さんがキッチンを、子どもが子ども部屋を、旦那さんがの居間の床を建築業者の指導を受けながら造っている写真を見かけることが増えた。
しかも、完成を急がない。住みながらじょじょに完成させていく。子どもが家族が家とともに成長変化していくのだ。
いいことだと思う。
思想としてのセルフビルドだと構えなくとも、たとえそれが追い詰められてのセルフビルドであろうが、余興としてのセルフビルドであろうが何であろうが、また、たとえたったの一部分であろうが住み手が何らかの形で家作りに参加することは、家への愛着が格段に増す。
とくに、子ども達が“大規模工作”に参加することは、スケールの大きな空間を意識しやすいので、後の世界観にまで影響していくような気がする。
残念ながら、我が家の青少年は自立して出て行ってしまった。だから、所詮「ノアの箱家」は母という“他人”の家でしかなく、関心なし。我が家の青少年達にも、家作りの醍醐味を味わわせてやりたかった。家造りは、子どもが小学生以降だといい。中学・高校生になると、もう立派な労働力だ。しっかりこき使った方がいい。
永遠に未完成の家
白足袋の飼い主君(石山修武氏)なんて、「未完成だからいい。その方が生きている感じがする。」なんてことを言っている。
確か、世田谷村は、10年以上経った今も未完成だったと思う。当初は、がらんとした大空間からスタートし、息子さんに「部屋が欲しければ適当に勝手にそこらに造れ」と言っていた。ははは。笑っちゃうね。ワクワクしてしまう。あたしゃ、こんな親父の所に生まれてきたかった!
しかし、トイレはカーテンの仕切りだけ、その周辺に家族以外の大人数がいるとなると、世田谷村では、用足しは村外に行かなきゃならなかった年頃の娘達がいたのではなかろうか?
特に、○○○なんて、臭いのことを考えて引っ込んでしまって便秘にならなかったのだろうか?
さすがに羞恥心何処吹く風の大阪の廃鶏寸前病的苔KOKKOも、これだけはごめんだ、なんて、人の過去の暮らしが気になって気になって仕方ない。そこが知りたい。
さて、今日、出張から帰ってきたら、樫田は吹雪。下は雨。大阪市内は午後から晴れだった。
明日はどうなるんだろう。明日は、私も工事に参加する。
本日兄ちゃんたちは、屋上デッキの骨組みの水平をとっていたらしい。
囲炉裏茶屋にある陶房和里庵のM女史が夕方来訪。
新築祝いの陶器製卓上時計をいただく。
有難い。