迷建築「ノアの箱家」

ひょんなことからNOAに選ばれし者として迷建築「ノアの箱家」に住むことになったKOKKOの笑ってあきれる自宅建築奮戦記

生きのびるための建築

2010-08-05 22:50:08 | 建築一般

生き延びるための建築(石山修武  NTT出版 2400円)

NOAの若い設計士からは以前からいくつか本を紹介してもらってきた。

今回は現場作業中に携帯にわざわざ電話いただいた本なので、「これはいい本に違いない。」とすぐさまネットで中古を購入した。

 

若い建築家たちに向けて語られた先行く経験者からの叱咤激励であり、警告の書であった。

文明批評も含んでいるので面白かったが、専門家しか知らないような建築家・学者の名前のオンパレードであった。

リチャード・バックミンスター・フラーなど、これでもか、これでもかというぐらいでてきた名前である。

何する人ぞよく分からんままに完読したが、この人物の名前はしっかり記憶に刻み込まれたので、いつか理解できる日が来るだろう。

 

さて、この本で感激したこと。

伴野一六氏の家

これを発見した時の石山氏の心のときめきが伝わってくる。

家もすごいが、この家をすごいと思える石山氏がすごい。

好きですねえ! この感覚。

 

伴野邸は渥美半島にあり、海から流れ着いた品々で造ったセルフビルド邸宅らしい。

窓が実にいい。

そして、石山氏が写真にとれなかったという総凸凹鏡張りのトイレと風呂。

これは是非見てみたい。

渥美半島の田原・・・しっかり記憶した。

いつかきっと押しかけて行くことになりそうだ。

 

昔、沖縄の久高島に同じようなことをしている老人がいて、彼の家を撮影した。

伴野氏ほどではないが、近辺に打ち寄せられる廃物で家を飾りまくっていた。

今年の早春、本部半島の備瀬でも同じような家を見つけ、嬉しくなって延々2時間家の主と過ごした。

漂流物には不思議な魅力がある。

それに命を与える発想に惹かれる。

 

ドラキュラの家

何がいいかって、クライアントのドラキュラ君がいい。

「寝室要らない。玄関要らない。窓要らない。光が嫌だ、明るすぎる。便所に扉は要らない。風呂場にも扉要らない。」

ドラキュラ君にあるのは、“空間”の概念のみ。

オーッ!

私とちょっと共通しているところがあるかも。

私の下(都市部)の家も扉はトイレと風呂以外全部外していた。

闇が好きだ。

むむむ、ドラキュラ君と会ってみたい!!

 

石山氏はドラキュラ君のために倉庫のような家を設計したが、石山氏が「この仕事は絶対引き受けよう」と思ったのは、ドラキュラ君が以下のように言ったからだという。

「自分は父なし子で、母は熱海の芸者だった。自分が生まれた時すぐおじさんの家に預けられた。そして、お母さんはどこかに行っちゃった。小さい時から自分の場所が何処にもなかった。いろいろなところから預けられた子ども達が集まっていた家なんで、何処にも自分の場所がなかった。テレビが置いてあったキャビネットの中に、小さな千代紙の貼った紙の箱があり、そこにおはじきとかお手玉とかカルタとかそういった自分の宝物を入れていた。その箱だけが自分の場所だった。だから、自分の家が欲しい。」

続けて、石山氏は書く。

「彼は本当に自分のスペースが欲しかったんです。それを直感で分からないと建築家ではない。要するに、住宅を作るのではない、空間・空虚をつくるんだ。僕にとっては、実に感動的なクライアントでした。」

「自分には本来何の社会的場所もなかった、だからスペースが欲しいというこの人の歴史。こういう人のためにはやはり何かを作りたい、作って上げたいというより、作らせてもらいたいと思うんです。」

このように言える石山氏は、何て素敵な人だろうかと思う。

好きですねぇ! この感覚。

安っぽい同情からではない。

住居の建築は、ライフの創造だと私は考えている。

ハウスではなく居場所・ホームを造るのだ。

「こういう他者にあったときというのは、こちらが非常にデザインされます。出会いとかめぐり会いとかのセンチメンタルな話ではありません。」と氏は語る。

「ああ、こんな建築家と出会いたい!!」と思ってしまうのだ。

(幸い私はもうNOAと出会っている。まだ出会っていない人は出会って下さい。)

 

アライグマギンとの家

ペットの命が残り少ないと知った飼い主からの依頼で建てた家。

いいねえ!

「次にキリンと暮らしている人が来ないかな、なんて期待しました。来たら、またやるだろうね。すごく背の高い塔を設計できるな、なんて。」

そう言える石山氏、ますます素敵ですねぇ!

会って話がしたくなってしまう。

 

ルイス・カーンのブリティッシュ・アート・センターとバルセロナパビリオン

光の使い方について解説してあったが、是非見てみたくなった。

光の“展示”だ。

 

一番感動したのは、ベネチアビエンナーレの「廃墟」

このときの磯崎新氏の言葉もいい。

「石山、このベネチアのビエンナーレを壊せないかね。」

まともな建築家なら、阪神淡路大震災で衝撃を受けなかった者はないはずだ。

かくも真剣に「建築」を考えている人間がいたのだということ、浅学で「廃墟」のことは今回初めて知ったが、感動した。

嬉しくもあった。

 

「建築」はビジネスだ、商売だ、だがそれだけではない。

それをしっかり声を大にして喋っている。

かつて、フラーなる人物は、数百名いる聴講者を前に延々講義をし続け、5時間たってもその勢いはやまず、夜になってとうとう最後の一人になってもまだ猛烈に語り続けたという。

フラー壮年の時の講義伝説らしいが、どうやら石山氏も彼と同様の燃える人物なのだろう。

石山氏は言う。

「僕はその最後の一人になりたかった。そんなに他者に語り続けるエネルギーのもとは何なのか。自己満足ではあるまい、フラーはむしろ、その最後の一人の聴講生にこそ語りかけたい、結晶体としての聴く人を視ていたのではないか。」

で、自身も世田谷美術館で21日間も夜に連続講義し続けた。

ものすごい情熱である。

「生きのびるための建築」・・・若い建築家の心に生き続けるといいと思う。

 

磯崎新氏・・・ちょい、興味が湧いた。

実は、ほぼ毎年1回、氏の顔を見る機会がある。

富山県利賀村でである。

8月に利賀芸術公園で1ヶ月に亘って開催されるSCOTの演劇祭の観客として、氏も参加している。

SCOTの主宰者鈴木忠志氏とは若い頃からの親友らしく、利賀芸術公園に点在するいくつもの舞台や劇場は、全て磯崎氏の設計である。公園の前を流れる百瀬川で魚釣りをしながら、若き日の二人は文化の発信のあり方について語り合い、東京を捨て猛烈な過疎・僻地の利賀から文化発信していこうとする鈴木忠志氏に磯崎新氏が共鳴したのだった。

あまりお金をかけないで、でも劇場空間としてすごくいい空間になっていると思う。

SCOTの演劇にはぴったりの空間だ。

(野外劇場の池の石は勅使河原宏氏がイサム・ノグチの牟礼の工房で創ったものという。野外劇場では閉幕間際に大量の打ち上げ花火を使うのがSCOTの特徴だが、池の向こうの大きな山が光のスクリーンとなり、陰影豊かで広がりのある空間が出現する。)

20年近く毎年通っているが、氏の顔をよく見かける。

今回から、顔の見え方が違ってくるだろう。

 

 


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