「死」
宮崎学の「死」という写真集がある。
カモシカと日本鹿と狸の死体を時間経過とともに変化していく様子を定点写真にしたものだ。
自然科学的視点から見ても興味深いが、この人の生き方がよく現れている写真だと思った。
奇麗ごとで動物を撮っているのではないのだ。
「カラスのお宅拝見!」とか「柿の木」とか、全て共通している視点があって、好感を持つ。
事象に対する凝視。
「死」についての前書きにそれが端的に言葉で表現されている。
輪廻転生
目をそむけてはならない、とおもいながら、ファインダーをのぞいていた。
鼻が曲がるかとおもわれるほどの死臭が漂うこともあり、
ハエのうじが体皮をやぶって湧き出してくることもある。
怯むことなく見つめていると、
そこにはふしぎなドラマが展開されてた。
「死は生の出発点である」
私は、自然の新しい摂理を、生きものたちから学んだ。
同じく、アラーキーの「チロ、愛死」
この人らしい。いい写真集だ。
陽子さんの棺を左に、チロの棺を右に編集してあるページがある。
また、陽子さんの遺骨を持った自分を左に、チロの遺骨を持った自分を右に編集してあるページがある。
チロが死に至る経過を淡々とアラキ流のヘタウマ写真で撮り続け、後半は空の定点写真ばかりが並んでいる。
最後の方になって初めて文字。「チロはAの愛人生、ずーっと」
裏表紙には「ずーっと」
たったそれだけの文字と泣いている自画像イラスト。
おい、アラキ!
思わず心の中でつぶやいていた。
写真の編集が秀逸だ。
30年ほど前、まだ若かった頃、彼が大嫌いだった。
巷に溢れるアラーキーの真似写真を見ると不愉快だった。
沖縄の知人石川真生さんの「熱き日々inキャンプハンセン」という写真集の寄せ書きに書いている文面なんて、当初は「こいつ、いい加減にしろ!」と思って読んでいた。
が、なんと私は浅い読み方をしていたのだろうと、数年してから気付いた。
彼の写真・文面を読み間違えていたことに。
そうか、そうか、そうだったのか。
彼が太陽賞を受賞した「よっちゃん」だったか「よっちん」だったか(「さっちん」か「さっちゃん」か?)
という写真集・・・彼は昔から一貫してちっとも変わっていなかったのだということに。
いい写真家だ。
というより、いい人間だ、いや、もっと心情的に言うと「いい奴だ。」
ただ身にまとっている衣装が衣装なので、誤解を生みやすい。
凝視だ。柔らかな凝視。
愛情を持つということの一つの形がそこにはある。
物凄い写真家だと思う。
で、はたと自分の母の死を思った。
友人の死も。
また、かつて20年近くも消息をつかめなかったある人物のことも。
“消滅”が残された人間に残すものについて、考える。
「夫の死に救われる妻たち」(写真集ではない)なんて本もある。
これについてはタイトルが衝撃的ではあるが、内容には実に深いものがある。
“死”・・・やがて私にも訪れることを実感する一瞬がある。もう、歳だな、やっぱり。