迷建築「ノアの箱家」

ひょんなことからNOAに選ばれし者として迷建築「ノアの箱家」に住むことになったKOKKOの笑ってあきれる自宅建築奮戦記

外壁板貼りの大詰め

2012-03-28 21:35:49 | 「ノアの箱家」工事進捗状況

いつまで続くか、このリフォーム

「ノアの箱家」は、一昨年夏には一応の完成(表題登記)をしているので、現在の工事は、法的にはリフォームということになる。日々、リムフォームばかりしている家である。

ここ数日は、外壁のリフォーム。コンテナの鉄がほぼ隠れた。

                  

                  

                扉は、コンプレッサーで赤に塗る予定。しかし、塗る作業は、いつになるか分からない。気分次第、体力次第。

 

 

                             

                住みながら家を造るということの“庭”の実態。いつまでたっても、果樹は隅っこのまま。廃材とゴミの山。

 

本日は、傾斜土浄化槽の土の入れ替え作業もした。鹿沼土は、寒冷地樫田では凍結破壊が進み、次第に泥沼化してしまうことが分かったので、全部軽石に入れ替えた。古い土は、よい肥料というか、よい土壌改良剤になる。

 

         

        アプローチの水仙の花が咲き始めた。ムスカリやチオノドクサたちもかなり咲き始めた。

 


 

 


心の駅 工房しげ

2012-03-27 19:10:06 | 高槻の観光案内

高槻市大字田能小字苗松10番地

昨日のブログで紹介した工房しげの所在地である。

府道6号線を高槻駅北の緑ヶ丘病院から亀岡に向かって北上、山道に入ってからは唯一の信号(バス停樫田校前)を越え、樫田郵便局手前を左折して500メートル左側、林道田能線入り口に、その工房はある。

しげちゃんの住居である電車は、グーグル地図に2台とも、ちゃんと記載されている。

先ほど、しげちゃんに呼ばれて、焚き火を囲みながらの酒盛りをして帰ってきた。

夜の電車も風情がある。しげちゃんは、私が来るからというので、わざわざ電車の運転席のライトをつけて待ってくれていた。

 

         

                    夜の電車のヘッドライトの色の美しいこと。いつまで見ていても飽きない。

 

                       

お酒を飲みながら、樫田の歴史について語らった。店のすぐ下には、安威川の最上流の支流(城山辺りが最初の一滴?)が流れており、蛍の乱舞が見られる。この辺りの山で、一昨年、ツキノワグマが出たが、蛍と熊と鹿と猪としげちゃんは、樫田の名物である。

 

しげちゃんは、いつも、この焚き火で食事を作り、コーヒーを沸かして仲間と語り合う。

山からの湧き水を石臼にためて、それで顔を洗い、歯を磨き、手を洗う。茶碗もそこで洗っている。風呂だけは、森林センターの樫田温泉に入りに行く。

「ドラム缶で湯を沸かしたら?」とKOKKOはいつも言っているが、しげちゃんには、その気は無いようだ。

朝食は、1・6キロ先の二料山荘で、モーニング:450円を食べているらしいが、もったい無い。これだけの豊かな環境なのに・・・。

しげちゃん曰く、「日銭を稼がにゃならんから、手っ取り早くいくねん。」とのこと。

 

 

                     

                                       豊かな炎、豊かな時間。

 


ただでゲットした電車2台

 しげちゃんは、もともと地元民である。農家の次男坊だったので、よくある慣わしで婿養子として京都市西京区大枝に嫁ぎ(?)、故あって出戻ってきた。

十数年以上前に、現在老人ホームが建っているところの山すそに、ただでゲットしてきた電車を置いて、山の生業を始めた。私はその当時から“電車の店”を知っており、まだ幼少だった我が家の青少年たちを連れて“家探し”にその前をよく通過した。まさか、自分がその後本当に樫田の人間になるとは知らずに・・・。

やがて、私は、電車がなくなっていることに気がついた。けれども、その電車がどこへ引越ししたのか知らぬまま年月が過ぎた。数年前、私が建築トラブルで苦しんでいた時、囲炉裏茶屋に出入りしているしげちゃんと囲炉裏で出会った。電車に尋ねて行き、彼こそが、あの“電車の店”の主だったのだと知った。

元の場所から約500メートル離れた現在地に引っ越してきた時、しげちゃんは、山を切り開き、木株を取り除き、平地を自分で開拓した。そうして、電車を運んできて、夢のマイホームをセルフビルドしたのだった。

 

十数年前、“出戻り”しげちゃんには、お金が無かった。実家では肩身が狭い。自分の居場所が欲しくて欲しくてたまらなかった。そんな時、亀岡のとある医院の駐車場に置いてあったこの電車を、たまたま通りすがったしげちゃんは見かけた。

「売ります」と看板がついていた。

「これだ!」と感じた。

「俺の求めてきたものは、絶対これだ!」

でも、お金は無い。でも、どうしても欲しかった。医者に声をかけ、正直に気持ちを訴えた。そうして、ただでゲットしたのである。これは、しげちゃんの夢の“本気”さに医者が感動してくれた結果である。

その医院とは、亀岡から大井に向かう9号線沿い右手に「目の博物館」を設けている眼科医院。おそらく、同じような感覚を持つ者同士が互いに反応し、火花を散らしたのだろう。

とにかく、電車をゲットしたしげちゃんは、夢の暮らしに向かってスタスタ歩き始めた。

しげちゃんの夢とは、山で木を生業とすること。

それまでにも、雇われて薪屋の仕事をしていたが、自分で色んな山仕事をしながら、変木を趣味兼商売とする暮らしがしたかったのだ。

何年もの時間をかけて、しげちゃんの“電車ハウス”は、“電車ホーム”となった。

現在、しげちゃんだけでなく、大勢の人たちの“心の駅”として、この電車はある。

 

    

   

田能から二料ヘ向かう道の左、林道田能線(旧明智街道。亀岡の明智光秀が摂津の国に向かうときに、この道を使うことがあったらしい。)の入り口に電車がある。この林道は、2.8km先で、空谷橋へ向かう道と萩谷に向かう道に分かれる。ここから萩谷を抜け、摂津峡(上の口)までの距離は、およそ14km程であろうか。萩谷へ向かう分岐点を右手に向かうと、すぐ左手に岡山(金毘羅山)があるので、岡山林道とも呼ばれる。

 

   

枕木を貰ってきて階段を作り、土地を開墾した時に出た木株も利用。川原で拾ってきた石を白く着色して、花壇の縁としている。この電車は、非常に珍しい車両らしく、運転席付きだから、よけい人の注目を浴びている。電車マニアがよく見学に来る。

 

                         

しげちゃんは、解体請負もしている。とある家の解体のときに貰ってきた朴の切り株を土地の一角に置いたら、そこから根っこと幹が伸びてきた。嬉しくて、これまた解体で出た祠の屋根を切り株に載せた。祠の屋根の向こうから、伸び出した朴の幹が見える。  

 

 

        

                 しげちゃんは、しいたけの原木販売もしている。電車の一番奥の山がしげちゃんのしいたけ栽培場。

 

 

                    

                       寝室棟の電車の横で、ほだ木にしいたけの菌を植え付ける作業をしているしげちゃん。

 

 

             

                “しげちゃん工房のしいたけ原木”として、摂津富田のダイエーでも販売されていたことがある。

 

                     

              

解体現場から貰ってきたブロンズ像。杖を持つ老人らしい。寝室棟の入り口は、解体現場から貰ってきた住宅用ドアで出来ている。廃品利用の感覚は、「ノアの箱家」とも共通している。

 

                       

                   しげちゃんは、猛犬を飼っている。昼間は他家に猛犬を預け、夜になったら迎えに行く。

                      

 

 

              

工房に併設されている作業小屋と焚き火小屋。林道田能線(旧明智街道)際も、しげちゃんの店の一部。私は、しげちゃんのこの字体がすごく気に入っている。ちなみに、「自然木販売」の看板は、解体現場から持って帰った木をサンパツして看板をつけてあるのだが、根っこがまだ生きているので、そのうち・・・。

 

 

                          

                                 焚き火小屋。この煙で竹を燻す。

 

                

          敷地のいたるところに変木がある。どれが売り物で、どれが私物か不明。標語は、彼が自分自身を励ます言葉でもある。

 

                  

             店舗件事務所用の電車。看板によれば、いちおう、“変木屋”らしい。この前庭は、春になると、花木で溢れかえる。

 

 

                   

店舗件事務所棟の裏側。運転席から後ろが無い電車をゲットしてきたので、鉄工所に頼んで電車完成品らしく見せるため、鉄板をつないで車両を長くしたとのこと。際の黒竹も解体現場からゲットしてきた。しげちゃんの敷地に生えている草木は、このような“養子”“貰い子”“拾い子”が多い。しげちゃんのポリシーは、“不用品を生かす”。これは、彼のライフスタイル全般に現れている。しげちゃん曰く、「俺は、山に生かされている。」「自然の恵みで夢を売る。山に転がっている物、そのままでは無用に終わってしまう物に命を与えて提供する仕事がしたい。」

 

                    

                                        店舗研事務所入り口

 

 

                  

               電車に入ってすぐに目に入る看板。いたるところに看板や標語がある。苦しかった頃、自分を励ますために書いた標語なのだろう。

 

     

               しげ工房社長の椅子と応接用椅子。応接用椅子は、廃車からゲットしてきたシート。

           

 

             

              

             

 

 

                 

                            これが結構な値段。ン千円。

 

しげちゃんの作品は、阪急百貨店梅田店や姫路の山陽百貨店などで、ディスプレー用に使われている。(木の根っこやオブジェなど)。実際に彼自身がディスプレー作業にあたることもあるらしい。

京都の有名な“みやこ踊り”で舞妓さんたちが、毎年手にする桜の小枝は、しげちゃんが樫田で伐採してきた山桜から取ったものである。

 

しげちゃんの連絡先:090-3495-1567(樋口重之)


 

 


樫田の昔

2012-03-25 18:27:20 | 高槻の観光案内

丹波国桑田郡漢部郷田能

樫田は、約50年ほど前までは、京都府桑田郡の樫田村であった。

それが、全国初の府境越えで市町村合併し、大阪府高槻市になった(その時、桑田郡の一部は、能勢町とも合併した)。

さらにそれよりもっともっと大昔は、表題のように、丹波国であった。

勿論、樫田が丹波地方の一部だったとは知っていたが(現在も“下”の高槻市民とはちょい異なる丹波文化圏)、先日、家の近所にJRの電車を改装して住んでいる重ちゃん、「面白い本、見したるわ。」と、持ってやって来た分厚い郷土史本を見て、新たに、ここが“漢部郷”と呼ばれている地域であったことを知った。おそらくは、渡来系の人間が住み着いたのであろう。日本海から出雲・丹波に上陸してきた稲作民たちの末裔の村が樫田なのか???

さて、その本は、中畑から外畑を抜け、向日市に向けて一山降りた京都市西京区大原野在住の山口某なる郷土史家がまとめた本だった。

めっぽう面白く、一気に一晩で読み終えてしまった。

亀岡の保津峡入り口にある請田神社の祭神は、樫船神社からの分神であるとか、田能の住民が亀岡湖を干拓したとか、どこまで真実かはわからないが(何故なら、古事記・日本書紀などの神話からの引用がけっこうある。しかも、「邪馬台国は、丹波である」との説)、面白いのは面白かった。

今の樫船神社が1200年代に現在の場所に遷宮されたなんてのは、全く知らなかったし、樫船神社の元宮が、いつも見てきたゴルフ場際の禿山にあったとか、“タニハ道:丹波道の意”のこととか、多数存在した“樫神社”のこととか、かつて、中畑や田能は、焼畑の村であったとか・・・。

おそらくは、すでに、村の古老さえ知らないであろうことが多数記載されていた。

しげちゃん:「欲しいとこは、コピーしてもええで。」

KOKKO:「おおきに。こんな大事なもん、ありがとう。」

しかし、元丹波国桑田郡漢部郷田能かぁ・・・、いい呼称だなぁ。

次から、住所はこれで書こう!・・・ なぁに、郵便番号を書いとけば、ちゃんと届くわさ。

 

工房しげ:

変木や鹿の角で工芸品を作るかたわら、しいたけの原木や木の伐採・薪販売など、“山”を生業としている樋口重之さんのアトリエ兼住居。JRの運転席付先頭車両2台を改装して住んでいる。彼の独特のライフスタイルに興味を持つ人は多く、電車そばの焚き火には、来客が絶えない。

彼の独特の書体で書いた変木看板は逸品。色んなところから注文が来る。

是非、見に行ってみなはれ!! 電車マニアにゃたまらない。


 

 


大谷(二料)

2012-03-06 21:10:21 | 高槻の観光案内

生活水の取水

今でこそ、樫田には独自の上水道施設があり、山水を浄化して水道水として使っている。しかし、一部では今も田能川や出灰川(芥川の最上流)の水を直接取水している家がある。また、独自に井戸を掘って使っている家も数件ある。

二料の大谷橋バス停から左に入った大谷集落には、昔の山水取水の痕跡が今も残る。畑で取った野菜を洗ったり、スイカを冷やしたり出来そうだが、使っている様子はない。

                   

納屋の手前にある川の際に石の階がある。それを降りると、凹型のちょっとした深みが造られている。かつては、ここで洗い物もしていたのだろう。上流からの水が自然とその凹に溜まり、オーバーフローして段差から流れ落ちていく。

ここの山水は、田能の方へは流れず、二料から九十九折、車作へ向かう。安威川の最上流のひとつなのだ。

 

                   

道路の際からいきなり川に降りる階。洗濯もここでしていたものと思われる。

 

                   

川から塩ビパイプを通して道路際の水路へ水を引く。水は道路の下を通過して、フェンス向こうの防火水槽へ流れていく。防火水槽には、大小の錦鯉が泳いでおり、昔は、岩魚なども飼っていたのではないかと思われる。そういえば、二料地区には、岩魚養殖用の水槽を残している家がいくつかある。うまい知恵だ。当たり前のことなのに、改めて感心してしまう。

郡上八幡の友人の家には、数段に分かれた同じような水槽があった。最上段を茶碗洗い用にし、一番下を土付きの野菜を洗うために使っていた。自然界から無限に与えられた無料の水だが、豊かな水があるということは、裏を返せば、万が一の場合は、水が脅威ともなり得ることを意味する。長良川は頻繁に水害をもたらしたが、ここ高槻の二料地区大谷でも、土砂崩れで壊れかけている庵風の家がある。二料地区では、毎年のように土砂崩れがおきており、二料と田能をつなぐ一本道が2年間も通行止めになっていた時期があった。おかげで、おなじ樫田内とはいえ、二料からたった2キロしか離れていない隣の田能に行くために、いったん茨木に向かって安威川沿いに山を南下、171号線に出たら高槻へ東進、再び山を北上して樫田に戻らねばならなかった。これは、車で1時間もかかる行程である。

杉尾地区でも、かつて、鉄砲水で家が壊れたことがあった。田能地区では、菖蒲園付近で氾濫。出灰地区では、北雪工房の自家用つり橋がこの数年で3回も流れている。彼の風情のある木製吊り橋は、とうとう鉄製の橋に造り替えられた。

水と人間の戦いである。


 


ちょこちゃんの春

2012-03-02 21:17:15 | 雑感

ちょこちゃんの冬

今年は断熱工事をしたので、コンテナ内はストーブが効くようになった。

おかげで、早朝30分間、毎夕3時間、石油ストーブをつけるようになった。昨年は、ストーブが効かないので、燃料の無駄と気付き、屋内気温-3℃の中、暖房なしで越冬した。それを思うと、今は極楽、極楽。

さて、病気がちのちょこちゃんを中庭から室内に入れたのが、たしか12月1日。

ウサギは暑さには弱いものの寒さには強いとのことだったので、囲炉裏茶屋でも屋外倉庫で飼い、こちらに来てからも中庭で放し飼いにしていた。昨年は、-10℃でもぴんぴんしていた。

けれども、夏の暑さにちょこちゃんはやられてしまった。

今から思えば、中庭がいくら風の通りのいいところとはいえ、コンテナの鉄の照り返しと日陰なしは、老体に応えたのだろう、何も食べなくなってしまった。そこで、昼間は玄関デッキの最も風通しのよい所に小屋を置き、夜はコンテナ内に入れて獣から守ることにした。毎日、朝と夜に大きな籠を移動させるのはしんどかった。

おまけに、一度体調を壊すと、10日間は毎日下の病院へ点滴をしに連れて行かねばならない。仕事からいったん帰宅してから、ちょこを連れて再度下に降りる。二度目の帰宅は深夜になる。餌はみじん切りにしたものをすり鉢でさらに細かくする。それを注射器で口に流し込んで強制給餌。そういったことを6月以降何度も繰り返してきた。12月も中旬まで体調不良で、このままチョコちゃんは、新年を迎えずに死んでしまうのかもしれないと思っていた。

樫田の冬は厳しい。今冬の最低気温は-11度。今も零下が続いている。

老体保護のため、屋内で冬を過ごしたちょこちゃんは、うさぎ小屋の扉を開けてやると、大急ぎでストーブのところへ走ってきて、しばらく毛づくろいをした後、いきなりコテンと横になってくつろぐのが常であった。

 今、菜の花が咲き始め、ちょこちゃんは春を迎えようとしている。

 

                   

初め、死んだのかと思ってびっくりした。完璧にストーブの前が自分の場所と決め込んでいるようで、ウサギ小屋に私が近づくと、金網を鼻でガチャガチャ突付きまくり、出してくれとせがむようになった。扉を開けると、ストーブの前に直行する。