迷建築「ノアの箱家」

ひょんなことからNOAに選ばれし者として迷建築「ノアの箱家」に住むことになったKOKKOの笑ってあきれる自宅建築奮戦記

迷建築「ノアの箱家」物語㉑

2014-04-14 06:03:13 | 迷建築「ノアの箱家」物語

NOAの設計士は名建築家だろうけれど、私の方はコンテナの迷人である。


迷建築「ノアの箱家」の迷建築ぶりを記録しておくため、2012年2月19日付けの迷建築「ノアの箱家」物語⑳の続きを書いておこう。

 

もう一つの箱家、現る?

ノアの箱船はアララト山に漂着したが、迷建築「ノアの箱家」はポンポン山に漂着した。

ところが、最近になって、他にもう一つ箱家らしきものがポンポン山に漂着するかもしれないという噂を耳にした。何でも、住人は青年という。

KOKKOは俄然色めきだった。鶏冠の血色が一気によくなり、ぴんぴんしてきた。その青年も“コンテナおばさん”ことKOKKOのことを知り、色めきだっているらしい。両者の対面は、兄弟姉妹の固い契りとなるのだろうか。それとも、宗旨を巡る緊張に満ちた睨み合いとなるのだろうか。

出会いを想像してニタニタしていたら、昨日、その青年が立派な手土産をぶら下げて水仙狂い咲き状態の「ノアの箱家」にやって来た。

むむむ、どうやら兄弟姉妹の固い契りだな、コレワ。

KOKKOは賄賂にはイチコロなんである。で、これからは彼のことを“コンテナ兄さん”と呼ぶことにし、いそいそと「ノアの箱家」内を案内することにした。

KOKKO:「この押入れは、元はベッドだったところで・・・。こっちのベッドは、前に戸板をはめると押し入れにしか見えなくなるように している最中で・・・。」

KOKKO、KOKKOとうるさいんである、我ながら。鶏冠ピンピン、若返るのを実感するKOKKOちゃんなのであった。

コンテナ兄さん:「断熱はどうしているのですか?」

ふむふむ、コンテナ兄さん、これから自分のコンテナをどのような箱家にするか瞑想中、いや迷想中なんだな、コレワ。

かつての自分が懐かしくなって、KOKKOおばさんは若鳥をボロ羽根でやさしくなでなでしてあげるのだった。老鶏にも母性本能。

 

人はなぜコンテナを求めるのか?

かくして、コンテナおばさんとコンテナ兄さんの兄弟姉妹の契りが交わされた。

最近、このように主に若者たちの間に安上がりの生活を求める風潮が増えている。体に鞭打ってまで無理にお金を稼ぐことはしない。あくまで精神的自由希求型だ。

今の若者たちの生活は厳しい。

かつてのような終身雇用制社会ではない。派遣労働というワーキングプアが増大し、また、人間関係の持ち方も昔とはまるで違う。彼らはどうやって今後の人生をトレースしていくのだろう。彼らはどんな家庭を築いていくのだろう。そう思いを馳せた時、彼らの生活がおひとり様家庭を初めから想定されていることが多いのが気になるのではあるが。

いずれにせよ、そういった風潮の中で、コンテナが注目されているのだと思う。特に、坂茂氏が女川でコンテナ二階建ての仮設住宅を建ててからは急加速。

わずか4畳半でも自分の空間(ホーム)が確保されれば、人の生活は成立する。そのおひとり様カプセル・シェルターが求められているようだ。問題は、コンテナは本当に安上がりかどうかという点。安上がりというならば、寝太郎君みたいな方法がはるかに合理的、論理的。さらにはホームレスというライフスタイルもあるのだから。

さて、コンテナ兄さんのトイレ構想は私のトイレ構想と同じ発想だった。

自給自足に近い暮らしを求める人も確実に増えている。日本経済は必ず破綻する、これからは農業の時代だというのを敏感にキャッチした人たちの動きだ。

 

KOKKOにゃホントにもうお金がないんだ! 苔KOKKO~!

心も体も会社やお金のために犠牲にしない。自分第一の心豊かで自由な暮らし。そのためには、脱会社、脱集団、時には脱家族さえもしてしまう・・・・・。

私も、昨年末、病気でとうとう退職した。定年まで4年も残して。

お金にゆとりがあるわけではない。「ノアの箱家」作りですっからかん。それにまだ箱家は建築途上じゃん。退職金だって、このままではわずか数年でなくなってしまう。年金もあてにならないから、老後の不安は大きい。

でも、辞めたことをちっとも後悔していない。

どの降圧剤を飲んでも全く効かず、いつも180~200あった。200越えのことも多かった。もともと低血圧の私が!である。

「いつ脳卒中を起こしても不思議ではない状態。」と医者に言われ、発作の恐怖と戦いながらの1年を過ごしてきた後の決断だった。

 

私はいったい何のために家を建ててきたんだろう?

未完成のあばら家状態のまま死んでしまうのか?

パラちゃんや神戸にいる我が青少年たちに散財する母の姿を見せただけで終わってしまうのか?

自分らしさを納得する暮らしをしないままに?

“竹”はどうなる?まだほとんど何もしてないぞ!

一昨年8月の末に畑仕事をしていて、いろいろ考えながら汗を拭きつつ見上げた青空と白い雲が目に染みた。

「このままずっとこうしていたい。そしたら、ちょこちゃんもこの手で看取ってあげられる。」

湧き上がってきた私の偽らざる感情。

その一方で積んできたキャリア・技術に投入してきた身体的精神的経済的エネルギーの大きさ、現場に残していく子どもたちを思っての未練と煩悶。残り4年で計画していた貯金と建築費用の莫大さ・・・。

自由と健康か、キャリアとお金か?

自分の暮らしか他人の幸福か?

どちらを取るのか?

煩悶し続けること半年。

「あと1年、様子を見よう。」と仕事継続を決めた途端、体調の急速な悪化。

めまいと吐き気、ふらつき、頭痛でどうにもならなくなった。ドライアイも酷く、パソコン作業が辛かった。

心と体が悲鳴をあげている!

もういい加減、自分の本当の声を聴いてやらなくてはいけない時期が来ているんだよ!

で、辞めた。

 

辞めた途端、血圧が下がり始めた。

昨年4月半ばで170以上にならなくなった。

5月連休過ぎには130以下。

夏には120前後。

で、それ以降、降圧剤を飲んではいるものの、100~120。冬場でも時には100を下回るという本来の状態に。

過度な義務感、過労。人間関係の苦しみ。それらはストレスとなり、血管の収縮をもたらす。長期にわたってそれが継続すると、脳卒中や心筋梗塞を引き起こす。過労死と言われているものの多くの直接死因はこれらであると、退職後初めて知った。

ギリギリのところで救われた、間に合ったんだと私は思っている。

仮に、今後経済苦に見舞われようとも、病気悪化で死のうとも、私自身の決断、私自身の運命として引き受けていく他あるまい。

これからはそんな状況下で「ノアの箱家」作りを続けていくことになる。

さすが迷建築の名に恥じない、迷建築中の迷建築ぶりだな、コレワ。先が全く読めない。


 

 


迷建築「ノアの箱家」物語⑳

2012-02-19 20:06:27 | 迷建築「ノアの箱家」物語

NOAの設計士は名建築家だろうけれど、私の方はコンテナの迷人である。


 迷建築「ノアの箱家」の迷建築ぶりを記録しておくため、2010年12月24日付けの迷建築「ノアの箱家」物語⑲の続きを書いておこう。

 

ノア様、現る!

「ノアの箱家」の現況確認のために、ノア様がはるばる沖縄からやってくると知らせてきたのは、2ヶ月ほど前のこと。

その約束の2月19日がやって来た。

阪急高槻市駅に10時半にノアご一行様と待ち合わせ。囲炉裏茶屋で借りた車で迎えに行く。

今回、本庄尚美さん(本庄正之さんの奥さん。こちらも建築士)は、我が家の青少年と同じ歳の青少年連れでの建築現場のご視察である。

しゃべりまくりながらの車30分。「ノアの箱家」に戻ると、兄ちゃんたちは外壁板を貼り続けていた。

本庄さん:「自分でやってるって言ってても、肝心なところはやってもらってるんだろうなとは思ってましたけど。」

「ピンポン!!」

「あってりめ~よ~! おいら、素人だぜよ、一人でできるわけねぇじゃん!」

土佐弁だか江戸弁だか分からないような言葉で、トサカ振り回しながら答えるKOKKOちゃんなのであった。改めて、兄ちゃんとその助っ人たちの存在に感謝し、苔KOKKO~!とKOKKOちゃんは井戸端で鳴き続けた。

家の周りや家の中を、ノアの本庄さんはカメラでパチパチ。

つい一ヶ月前までは、床が見えなかった「ごみ箱の家」も、今じゃ、何とか「散らかった家」ぐらいにはなっている。どうぞ、どうぞの撮影会。

本庄さん:「まさか、ここまで手を入れてるとは思いませんでした。頑張りましたね。でも、高くついたでしょう?『結果的には、業者に任せて建てた方が安くなるはずですよ。』って、言ってたでしょ?」

KOKKO:「はい、玉城さん(NOAの若い設計士)にもそう言われてました。怖くて、今では建築費の計算やってません。領収書はとっていますので、最後に計算しますけど。」

やってるうちに、どんどんアイデアが湧いてくる。持ち合わせのお金とのからみで、企画がどんどん変化していく。当初、北へ向かっていた舟が、蛇行の末、南東に向って航海しているようなものである。

でも、決められた道を行かない楽しさと自由がある。

あれこれ考えながら、その時その時で決めていける楽しさも、決めずにほったらかしにできる気楽さもある。これを業者任せにしていたら、「与えられる」だけで、納得いくまで迷う自由はない。我がままと私好みは追求できなかった。

水仙ロードの水仙を眺めているノア様ご一行を見て、苦しかった2年前のことを思い出し、今の幸せを噛み締めて、じ~んとなった。

住む家があることって、こんなにも精神的安定を与えるものなんだ、普段は気付きもしないだろうけれど、生活の基盤なんだと、改めて「家」の持つ意味の大きさに思い至り、東北の人たちのことを思いもした。

ノアの設計士の方々は、私に「ここがお前の居場所だよ。」と場所を示して下さったのである。

あの時、あの出会いがなければ、私の“ホーム”はなかった。さ迷える魂を抱いて、さすらいの日々を苔KOKKO~!と鳴き叫びながら過ごしていただろう。やせ細り、ボロボロの羽で病にのたうち、廃鶏になっていたに違いない。

ノア様!ありがとうございます!!

こうして、2年ぶりに「ノアの箱家」建築現場で、ノア様と再会できたことを心から嬉しく思い、久しぶりにクリスチャンのように敬虔な気持ちになるKOKKOちゃんなのだった。

            

ノア様からいただいたシーサー殿に、手を合わせて拝むKOKKOちゃん。台所の棚の上にシーサー殿は鎮座ましましている。

 

落ち着いたら、本庄正之さんや玉城さんも「ノアの箱家」に来ていただきたい!

南側のコンテナで、向かいの竹を見ながら皆でさんぴん茶を飲みたい。

 

「ノアの箱家」、迷建築の証

本庄さんご一行と兄ちゃんたちといっしょにお茶を飲んでいた時、発覚したこと。

兄ちゃん:「あっ、あそこだけ、板が一枚裏向けに貼ってある!」

コンテナとコンテナのつなぎ目部分の下から四枚目の板が一枚、確かに裏向け。もう、後戻りは出来ない位置、やり直しは効かない。さすがは、迷建築中の迷建築、どこまでもやってくれるじゃないのさ! 

けれども、これは、きっと初めから約束されていたことだったに違いない。

安らかな気持ちでそれを受け入れた。「これは、きっと祝福された家の証なのだ。」と。 

        

ぱっと見ると、何のことはない。が、よく見ると、右の写真のように、一枚裏向けに貼ってある。兄ちゃん曰く、「ここは、KOKKOちゃんが貼ったところや。」KOKKO曰く、「うそ~。下のほうは、兄ちゃんが貼ったはずやで。」と喧嘩。工事中、何度喧嘩してきただろう。私が勝つこともあれば、兄ちゃんたちが勝つこともある。これを、「マホガニーとウォルナット」と私たちはよんでいる。


 

 


迷建築「ノアの箱家」物語⑲

2010-12-24 19:46:40 | 迷建築「ノアの箱家」物語

NOAの設計士は名建築家だろうけれど、私の方はコンテナの迷人である。


 迷建築「ノアの箱家」の迷建築ぶりを記録しておくため、11月7日付けの迷建築「ノアの箱家」物語⑱の続きを書いておこう。

 

メルマスのリサイクル御殿

昔、三宮にメルヘンというスナックがあった。

そこのマスター(メルマス)の自宅は、ほぼ拾ってきた物・貰った物でセルフビルドした家だった。

夫(彼も手伝っていた)と子ども達を連れて泊りがけで遊びに行ったが、それはそれは見事なものだった。

みすぼらしさは微塵もない。絵心のあるメルマスのセンスの勝利だった。

建築雑誌やテレビで「リサイクル御殿」と紹介され、メルマスはとても嬉しそうだった。

 

はからずも、今、私も彼と同じように拾ってきたもの・貰ったものをフルに活用して家を建てようとしている。

勿論、新規に購入しなければならなかったものは多い。

が、アトリエ・NOAの本庄正之氏に当初語った通り、リサイクルがコンセプトであるというのは間違いない。

 

「KOKKOちゃんにお金があったら、こんな面白い家にはならなかったと思う。」

ムサシ・タケシ・タカシが言った。

その通りに違いない。

セルフビルドは、前の建築家の背信により多額の損失を出してしまった私の、追い詰められての選択でしかなかった。確信的選択ではなく、結果的にそうなっただけなのである。

お金があれば、間違いなく人任せになり、ありきたりの家になっていただろう。

勿論、内部のインテリアについては、私の今までの習慣が大きく影響していたはずだし、“竹”のこともあり、一般住宅そのものというわけにはいかなかっただろう。

だが、怪我の巧妙とでも言おうか多くの人との出会い、あれこれ知恵を絞り、“おままごと”的に建築を楽しみ、失敗も重ね、しんどくとも実に楽しい7ヶ月だった。

まだ内装も外壁も手付かず状態だし、完成までには植物の力を借りるため、どんなに少なく見積もっても4~5年はゆうにかかってしまう。外観もどんどこ手を加えていくから、10年スパンで考えなければお話にならないのではないか。

 

もの創りの楽しさについては充分知っているつもりではあるが、まさかこの私が家を造ることになるだなんて、想像だにしていなかった。

建築の過程で、ドリトル先生動物園倶楽部事務猫“白足袋”の飼い主君こと、石山修武という超一級の面白い建築家の存在を知ったのも、私にとっては大きな収穫であった。

今、私の目の前には、建築という未知の世界が広っている。

これからも私は、建築の世界を波間に感じながら「ノアの箱家」に乗って航海し続けていくことになる。

どんな旅になるのだろう。

だが、ひとつだけはっきりしていることがある。

ノアの箱舟はアララト山に漂着して旅を終えたが、「ノアの箱家」は約束どおりポンポン山に漂着した。が、その後、再び漂流し続けるということである。

 

ここまで私を導き、漂流のチャンスを与えて下さったアトリ・NOAの皆さん方に、改めて感謝と敬意をこの場でお伝えしておきたい。

NOAの皆さん方、メリークリスマス!!

 

アトリエ・NOA

http://www.a-noa.co.jp/

 


迷建築「ノアの箱家」物語⑱

2010-11-07 22:25:50 | 迷建築「ノアの箱家」物語
NOAの設計士は名建築家だろうけれど、私の方はコンテナの迷人である。

 迷建築「ノアの箱家」の迷建築ぶりを記録しておくため、10月19日付けの迷建築「ノアの箱家」物語⑰の続きを書いておこう。

 

 合法的中古ISO規格海上輸送コンテナ住居としての「ノアの箱家」

市役所の建築士資格を持っている役人だけでなく、コンテナ製造会社の人間でさえ「コンテナは違法です」と私に言った。

だが、れっきとしてここに建築確認済証と中間検査済証と完了検査済証の三つがある。

この三つを眺めるたび、これまでの苦労を思い出して胸が一杯になる。無知というのは本当に恐ろしいものだ。私に正しい知識を教えてくれたイエンゴの設計士の方々やアトリエ・ノアの本庄正之さんとの出会いが無かったら、私は今頃望まない家に住み、魂の抜け殻状態、ただ息をしているだけの存在になっていただろう。設計士の方々には今さらながら感謝の気持ちで一杯になる。

 

「違法でもいいから、コンテナを置いてしまえ。置いたが勝ち。」

「まず木造の申し訳程度の小屋を建築確認申請を通して建てる。その後、コンテナを勝手に置く。役所は文句を言っても事実上の黙認だからそれでええ。」

色んなアドバイス(そそのかし?)をやってくれた周囲の人たち。一時はその気にもなった。が、これから自分がやろうとしている超ド派手なことや借金の信用に関わる問題を考えれば、躊躇せざるを得なかった。小市民なんだな、私は。模範的国民なんだな、私は。

正直で臆病な子羊ちゃんなんだ、私は。

国民栄誉賞を下さいな。

  

                     

 

                 

 

                 

 

確信的違法建築の道を選択しなかった「ノアの箱家」は、珍しいコンテナハウスということになる。普通なら勝手にジャカジャカ加工して勝手に建てているような代物を正攻法で建築したコンテナハウスなんである。

しかも、使用している資材の大半はリサイクルである。拾ってきたもの・もらってきたものであるからして、まさしく私の「バラック浄土」なのだ、コレワ。しかし、誤解しないで欲しい。0円ハウスのホームレスさん達や白足袋の飼い主君の真似をしているわけではない。ま、時々仮名遣いぐらいは真似しちゃうけどさ、いいじゃないのさ、それぐらい。家の建て方・資材調達の発想そのものは独自だよ。いや、窮地に追い詰められて独自にそうなったんだけど。つまり、正真正銘バラック浄土独自ホームレスだな、私は。

で、ある人が言った。

「今も昔も同じだね、あなたは。」

防空壕時代のことを指して言うのだ。

我が家の青少年達も「お母さんは防空壕で暮らした経験があるから、きっとやっていけるよね。」

はあ、おそらくそうでしょう。

だって、ちっとも惨めだなんて思ってないもの。むしろ、ルンルン気分。何て楽しいんだろう!!

というわけで、本日の記事終了といこう。


 


迷建築「ノアの箱家」物語⑰

2010-10-19 21:07:38 | 迷建築「ノアの箱家」物語

NOAの設計士は名建築家だろうけれど、私の方はコンテナの迷人である。


 迷建築「ノアの箱家」の迷建築ぶりを記録しておくため、10月1日付けの「ノアの箱家」⑯の続きを書いておこう。

 

竹のインスタレーションを自宅で行うと決め、家の建築を目指した時、かつて私が一般教員をしていた頃の教え子たちのことを思い出していた。

教室内外を木で溢れかえらせ2週間もその状態で過ごし、最後には体育館で図工展作品を作った子ども達のことである。

彼らは「ノアの箱家」のことを知ったらどう言うだろう。

田舎にケガノコウミョウとも言える家を建て、山姥よろしく髪を振り乱しながら飽くなき夢追い人をやってるかつての先生だ。

「その歳でまだやってんの?!」

 

木のインスタレーションをした時、彼らは小学校5年生だった。

当時、彼らに出した製作条件は三つ。

①始業時間前の30分以内で製作すること。

  ※教室の真ん中にうず高く積み上げられた木の山で製作。日中は作品とともに過ごし(授業・給食など全て)、放課後には作品を潰し元の山の状態に戻して下校するというルール

②他のクラスの通行妨害にならないよう製作すること。

   ※廊下にも製作してOK。木をドアや窓から外へ飛び出させて製作するグループもあった。

③怪我人を出さないこと。

※机の上にも木を置く、黒板を覆い隠す、窓を木で見えなくしてしまう、自分たちの班をバリケード封鎖してしまうなど、足の踏み場もない状態の中で私たちは2週間を過ごした。学年の中で一番ゴンタクレの多いクラスだったが、整然と製作し、休み時間に暴れて潰す子はいなかった。そんなことをしたら仲間に“シバカレル”と分かっていたのだろう。

 

こういったあり得ないことを実行するに当たっては、それなりの事前準備がいる。

周囲には「玉野井はぶっちぎれてる。仕方ないからやらせるしかない。放っておけ」と諦めていただくことが肝心である。

が、それよりも一歩進んで応援していただけたら申し分なし、バッチグー。

私の場合、生徒も保護者もよく理解してくれた。楽しんでくれたし、応援もしてくれた。

あれだけ恐ろしいことをやっていたのに、保護者からの苦情は一切出てこなかった。子どもが生き生きしていたし、毎日学級便りを出してリアルタイムで状況報告をしていたからというのが大きかったと思う。

それに数々の前科(教室一杯蝶々放し飼い・・・産み落とされた卵は幼虫となって教室中を這いずり回り、窓や柱などあちこちで蛹になっていた、民族楽器とガラクタ・生活雑貨楽器による音楽劇“夕鶴”・・・1年間の算数以外の全教科を通して学習したことのまとめ、土室納豆作り、牛のウンコでおにぎり燃料・・・北海道から牧草しか食べていない牛のうんこを取り寄せた、世界初ただの小学生達によるボレロ上演・・・「モーリス・ベジャールにビデオを送ろう」と言って取り組んだetc.)がある身ゆえ、「次は何をやらかしてくれるんだろう」との期待もあったようで、面白がった校長が教室まで来て子どもを“煽動”してもいた。

とにかく周囲の理解と環境に恵まれていたから、あれは出来たのである。

勿論、私も努力をした。

基礎学力の維持と学習習慣を身に付けさせることは最重要のとりくみとして気をつけた。

教科書に載っていないことをやりまくってばかりいたが、子ども達の学力は相対的に高かったはずだ。

 

子ども達に何を伝えるのか

目先のことだけ考えて対応していたのでは、何も残らない。

 教育をしていく上で指導者側が常に意識しておかなければならないことは、将来的に何を残すのか、自分は何を伝えたいかである。

「何でもありだ、自由だよ。」・・・常識を超えたところに創造がある。

創造的に生きていくこと、これは時にはマイノリティとして生きる道の選択を意味する時もあり、逆風覚悟である。これは自分を信頼していなければ出来ないことでもあるから、教師だけが頑張っていても無理、家庭での自尊感情・自己受容(ありのままの自分を愛せること)を育む環境が大事だとは思う。

創造的に生きていくこと・・・とにかく一番これを伝えたかった。

 

先だって、ケンシロウから連絡があった。

木のインスタレーションをやった子どもの一人で、すでに社会人だ。

彼は、私との暮らしから強烈な何かを感じ取ってくれていた生徒の一人のようで、同窓会も彼からのお声で始まる。

「先生、集まる数は少ないけど飲み会するから、来て。」

二つ返事でOK。

「なんなら、樫田でしようか。デッキがデッキたし。」

ケンシロウに私のブログのことを伝えた。

読んだらきっと「先生、まだやってんの! まだやるつもり~?」と笑うに違いない。

でも、元気を出してくれるに違いない。

彼らがよく言う言葉、「先生、まだ“変”をやっていますか? ずっと“変”でいて下さい」

 そう、私はずっと“変”であり続けたい。

世界でたった一人しかいない存在の自分を大事にしていきたい。

 

彼らの目と姿を通して、私のしてきたことへの審判は下るだろう。