迷建築「ノアの箱家」

ひょんなことからNOAに選ばれし者として迷建築「ノアの箱家」に住むことになったKOKKOの笑ってあきれる自宅建築奮戦記

伝説化する造形

2010-07-26 22:13:25 | 建築一般

表現とは何なのだろう。

浄化され結晶化されていく何がしかがあって、どうにもやめられないものがあるというのは確かだ。

 

大きな物を自分の表現手段として選んだ場合どうだろう。

例えば、建築。

膨大なお金がかかる。

時の経済情勢により、好況の時はバカスカ出来ても不況になると一気に出来なくなる。

表現としての建築は、自分の思いを作品化していくことにおいて、他の表現手段よりも自分以外の何かに大きく左右されやすいと言えるのではないか。

自分の意思ではどうにもならない、展示発表の機会が保証されにくいということは、建築を選んだ人間が引受けていかなければならない運命かもしれない。

NOAの代表者のH氏が1月に大阪にやって来た時、

「建築っていいですね。自分の創りたいものを創るのに、人がお金出してくれるから。」と言ったら、

「それが建築のいいところですよ。自分は貧乏していても、物凄くたくさんのお金を使わせてもらって創れるから。自分の物じゃなくて人の物だけれど。」

H氏は笑いながら答えた。

あんなに大きなプロジェクトをやれるなんて、実に快感だろうと思う。

しかも大量の人間に長期に亘って見られる、使われる、言い換えれば展示され続けるのだから、この快感は一度味わうと、なかなかやめられないのではないか。

(ただし、駄作の場合は悲惨。自分の死後にまで恥を晒し続けることになる)

加えて、自分の建てた建築物の中でさまざまな人間ドラマが展開されているのを知れば、またもや大きな喜びを味わえる。

ましてや、建物に“伝説”が生まれたとしたなら、これは建築家冥利に尽きるのではないか。

 

伝説化する造形

8年ほど前、京都タワーの風説ろうそくを模って設計されたものと言われていること)の真偽について確かめたことがある。

当時、各地のろうそくにまつわる伝説や遺構・遺物について調べていた私は、当然ながら京都タワーの通説についても調べることになったのだ。

京都タワーは建設当時「古都景観論争」に揺れたというが、当時の記録を調べていてどうにも不思議な点があった。

当時の京都タワーの景観論争には、いわゆる文化人と行政サイド・市民たちの喧々諤々の声の記録は残っていた。

だが、肝心の設計者の声が何処にも見当たらない。

???

論争は、「ろうそくの形をしているから、京都タワーは神社仏閣の多い古都にふさわしい」という京都タワー擁護論が展開され始め、次第に収束していった印象があった。(私の勘違い・浅学か?)

???

本当に、“ろうそく”なのか?

どうして、設計者は何も語らないのだ?

どうにも不自然極まりない。

ひょっとしたら、設計者側は意図的に沈黙したのではないか?

もしくは沈黙させられたのではないのか?

京都タワーの設計関係者のうち、たった一人生き残っている人物がいるというのを突きとめ、連絡先を調べて電話した。

あいにく留守だった。

留守番の人に伝言しておいたが無視されるかなと思っていたら、翌日、わざわざ御本人から電話をいただいた。

「皆さん、当時からろうそく・ろうそくと仰るんですが、ろうそくではないのです。強度を保ちながらも安上がりにするためにあれこれ考えていたら、自然にあの形になったのです。デザイン上からではなく、あくまで構造上の問題です。でも、いいじゃないですか、ろうそくでも。『京都タワーがろうそくの形に見立てたものだ』と言われていることに対して、死んだ彼もきっと嫌だとは思っていなかったと思いますよ。」

そうか、設計者は傍で論争を聞きながら、嵐が過ぎ去るのを待っていたのかも知れない。

冷や冷やしながらも密やかに論争の成り行きを見て楽しんでいたのかも知れない。

電話の向こうには、老人の穏やかな笑い声があった。

作品は、作者の手を離れ独自の命を持って歩き始める。

それが作品の持つ力だ。

伝説が生まれるということは、作品が人の記憶に刻み込まれたということだ。

伝説が作者の意図とは異なったものではあったとしても、ある意味、これも作者の冥利と言えよう。

亡くなった主任設計士の人知れずほくそえんでいる顔まで見えるような気がした。

通説(風説)が伝説にまでなっていく過程に、私まで加担しているような密やかな快感を感じた。

このままに任せていたい、そう思った。

 

NOAの本庄氏が西表島に建てた工事用杉板を使ったホテルが「名建築に泊まる」に載っているという。(まだ見ていないけれど、確か、稲葉なをと著?)

「直接私に取材があったわけではないのに、ちゃんと調べて書かれていました。」

にこやかに語る本庄氏の顔を見ながら、私は京都タワーの生き残り関係者の言葉を思い出していた。

NOAの設計した沖縄武道館を見て、「ガメラ」と子どもが言ったという。

私も「わ、何やこれ! ガメラや。」と思ったのを記憶している。(私は子ども並みか)

そのうち、沖縄武道館には“ガメラ伝説”が生まれるかも知れない。

本庄氏は、笑ってそれを受け入れるような気がしている。

 

 


迷建築「ノアの箱家」物語⑫

2010-07-22 20:25:28 | 迷建築「ノアの箱家」物語

NOAの設計士は名建築家だろうけれど、私の方はコンテナの迷人である。


 迷建築「ノアの箱家」の迷建築ぶりを記録しておくため、7月14日付けの「ノアの箱家」⑪の続きを書いておこう。

 

「建築確認申請までの設計を引受けます。詳細設計はしません。」

という約束で設計を引受けてくれたNOAだった。

要するに、建築確認申請に必要な設計はするが、細かいところは施主の意向を取り入れて勝手にやりなさいということだった。

これは、設計事務所の負担を最低限に収めるという観点からだけでなく、お金が出来た時に住みながら自由に追加工事していきたいという私の意向(セルフビルド)に添う余地を残すためでもあった。

“四角いドーナツ”の形が決定した後、細かなことがら(ドアや窓・排水経路・トイレ)などについて、若い設計士のT氏との打ち合わせが始まった。

遠い沖縄と大阪とのやりとりである。

私の帰宅は遅い。

連絡はメールが主になった。

が、メールというのはどうもニュアンスが伝わりにくい。

いくつもの思い込み・行き違いがあるにもかかわらず、それにお互いが気付かぬままにやり取りしていることもあり、後で気付いて、いらいらしたり不安になったりすることもあった。

私がいつも一番強く感じていたことは、“心細さ”であった。

ただでさえ、分からないことばかり。

しかも、私にとっては大きなお金を動かす仕事。

工事は一度やったら、取り返しがつかない、失敗は許されない。

業者検討でも苦悩し、不安に苛まれることが続いた。

先の建築家とのトラブルを経験しているので、誰に対してもどうしても疑心暗鬼が先に立つ。

どうしていいか分からない。

必死に勉強してきたとはいえ、付け刃なので知識にはむらがあってちぐはぐ、疑心暗鬼の一方で無防備でもあった。

そこへ色んな人の善意のアドバイス。

一つひとつ皆違うので、あっちを立てればこっちが立たない。

ありがたい反面、混乱もした。

費用は高くついても身近に信頼できる専門家を持つということの意味の大きさを知った。

何も知らないままに専門家に丸投げしてしまう一般的な住宅建築の安心感も理解した(ただし、その安心感が現実に即したものかどうかは別)

 

その中で、おおむね共通していた意見がある。

「素人は口出ししたらダメ。いったん任せたら何も言わんと、職人に任せとき。

工事監理なんて職人が嫌がるから、頼まん方がええ。」

「職人を信じなさい」ということだろう。

けれども、信じたおかげでとんだ欠陥住宅に泣く人は多い。

皆さんがくれるアドバイスは、施主は孤独なまま人生最大の賭けに丸裸で臨むのが筋だということを言っているのである。

消費者側(施主)がこんな意識でいるから、次々悲劇が起きるのではないか?

こればかりは、絶対飲むわけにはいかない。

私は、コンテナ様ではなく木造さんにするもしれなかった時も、「住まいの水先案内人」か「イエンゴ」に工事監理だけは頼むつもりでいた。

それに確か重量鉄骨については、工事監理者を置かねばならなかったのではなかったか?

第一、工事が図らずも“違法”や“欠陥”になってしまうようでは、無理をしてこの仕事を引受けて下さったNOAに申し訳ない。

NOAの名誉に傷がつくことだけは避けなければならない。

恩を仇で返すわけにはいかないのだ。

「工事監理者を置いてはいけない」という雰囲気の中、角が立たないようにしながらこちらの正当な主張も通さなければならない。

神経が磨り減った。

そうこうするうち、NOAのH氏が

「豊中の知人(設計士)に25万円ぐらいで頼んでみます。」

私の経済状況を慮って工事監理を担当してくれる設計士を探して下さった。

結局、その豊中の知人もコンテナ様を扱ったことがなく工事監理は困難と分かり、遠く沖縄からNOAが工事監理に通って来て下さることになったのだ。

もう、おんぶに抱っこである。

しかし、沖縄からたびたび通って来ていたのでは必要経費が高くつく。

しかも、NOAには他の仕事もある。

イエンゴのO氏のアドバイスで、工事監理に写真を活用することをNOAに提案した。

 

かくして、建築確認申請手続きが開始。

1月、NOA夫妻が大阪に住んでいるお嬢さんの引越し手伝いと時期を合わせて樫田の現地調査にお見えになった。

私用と称して、実は私の経費負担を減らそうとの配慮である。

細やかな配慮にはただただ感謝あるのみとしか言いようがない。

 

「いい家を造ろうと思ったら、自分と同じ考えの設計士と出会うことが大切です。そしたら、いい家ができるんですよ。」

城北商店街の名物ダブルカツカレーの店で昼ごはんを食べながら、H氏が言った。

以前、「住居のあり方も思想だ」という私に「共感します」とH氏はメールで答えてきたことがある。

NOAのHPには「無理して膨大な借金をしてまで家を建てるから問題が起きてくる。施主が住みながら少しずつ造っていくというのも一つの住宅建築の方法だ」という趣旨の言葉をH氏が語っている対談記事が転載されていた。

まさしくH氏は私と同じ考えだったのだ。

 竹のインスタレーションについても、H氏の設計した沖縄武道館で勅使河原宏氏の製作現場を直接見てきており、理解していただきやすかったかもしれない。(ただ、私のインスタレーションは、彼のとはまるきり違う)

また、私がやろうとしている“竹”のイメージに近い過去の木のインスタレーションについては、実際に製作した私の生徒の作品の写真を見て

「子ども達の才能、ものすごいですね。」

H氏があの写真を見てそう言える人物だったというのは嬉しかった。

(大概の人は教室内のあの様相は受け入れがたい。指導者側の意図も理解しかねるようだ。ある程度継続して私を見てきた人たちは、ビックリしながらも面白がり応援してくれる。当時の校長もその一人だった。私としては、あれは日本の小学校美術教育史上に於いて、特筆すべきとりくみであったと今も自負している。)

幸運な出会いだったと思う。

しかも、H氏は偶然にも私の沖縄の知人の親友の友人であったということを、その日、知った。

「この出会いは、初めから仕組まれていたのではないか」

そんな気がした。

「きっといい家ができる。」

静かな確信が湧いてきたのだった。

 

 

 


セルフビルド考④

2010-07-22 09:31:37 | セルフビルド考

気に入った物たちに囲まれて

気に入った物に囲まれて暮らしたい。

そしたら、高価な買い物やゴミ捨て場で拾い集めたものが区別なく増えていった。

そんな我が家を見た友人からも、いろいろな不用品・珍品が集まってきた。

で、気がついたら我が家は民族博物館かギャラリーのようになっていた。

下(都市部)に住んでいた頃のことである。

 

玄関先までは、まるきり普通の建売住宅だ。

密集した下町の何戸一かの長屋を切り崩して建てられた小さな小さな家だった。

ドアを開けた時のギャップにびっくりする家だったはずだ。

まさか内部があのようになっているとは、誰しも想像がつかなかったに違いない。

たまに来るガス修理などの業者達の首がぐるぐるぐるぐる廻っているのが面白かった。

NHKの美の壷のディレクターが「いい家ですね。」と言ってくれたのは嬉しかった。

私は、「いい家」=「住み手固有のポリシーのある家」と理解している。

 

ドアを開けると、石臼に巨大な緑主体の生け花。(大半が月桃かクワズイモ)

石臼の周りは、十津川で拾ってきた大量の石をデザイン的に並べていた。

この石はきれいな白色だが、アクリルで金色のまる模様を描いていた。

ほとんどの部屋にいくつもの石を置いていたが、部屋ごとに色が違う。

玄関は白のまま。

階段は、黒に着色したものに金。

トイレは、ブルーに金。

浴室はえんじに金。

台所近辺は、焦げ茶に金。

書斎兼写真ギャラリーは、緑と朱色に金。

那智黒も固めてたくさん置いていた。

ロフトは茶色に金。

この石のシリーズは、「ノアの箱家」でも続けられていくことになるだろう。

おそらくは“竹”とのコラボレーションもすることになる。

ただ、部屋がドーナツ型の一つしかないので・・・。

さて、さて・・・。

 

私が私であるために

 身近な人達には、木のインスタレーションの写真を見せるなどして説明しているのだが、どうも中庭の竹は彼らの中では「和風庭園」などの一般的な竹のイメージにいつの間にか摩り替わっていってしまう傾向がある。

「コンテナ周囲に竹垣を設けたらどうか」とか、「たけのこの形に竹を組んで中庭に置いたらどうか」とか私の志向性とはまるきり異なる意見を聞くことになる。

時には、家の外部から内部まで竹であふれかえらせるという私の発想を「そんなん変や。頭おかしいんとちゃうか。」とまで言う人がいる。

そこまでやるとは理解に苦しむというところか。

けれども、その感覚はすごく一般的な生活者のそれに違いない。

一般的に言えば、「居間=日常生活空間」、「ギャラリー=非日常空間」であり、きっと両者は別物だ。

竹中心の生活をしていくために「ノアの箱家」が設計されたと聞いてはいても、まさか私の生活に一般的な「居間」や「書斎」「台所」「風呂」「トイレ」はなく、全てが「ギャラリー空間」と言ってよい生活感覚で生きているというのは理解しにくいのだろう。

だが、長年そのように私は暮らしてきた。

 

東側のコンテナは、とりあえず「書斎」という設計になってはいるが、以前の家と同じように写真ギャラリーでもある。(壁面は、写真で一杯になる)

そして、南側の大ガラスの部屋は、「居間」であり「インスタレーションギャラリー」となる。

また、北側のベッドを隠す板壁廊下も生活空間であると同時にギャラリーの一環である。

(廊下を時折、竹が走り抜けることになる)

中庭しかり、屋根しかり、のり面しかり、アプローチしかり・・・敷地全部がギャラリーである。

 

私は私であり続けたい。

「変人」であることの自由を満喫したい。

 

しかし・・・、家ばかりやってられない。

家にエネルギーを注いでいるうちに、年老いて竹ができなくなってしまっては元も子もない。

何のための「ノアの箱家」かということになってしまう。

 お金があれば人に任せられるのにと、やはり思う。

 

 竹のインスタレーションは“参加型”になることを願っている。

やりたい人はご自由にどうぞ! 

必要なだけ時間(日数)場所を提供します。

みんなでワイワイやれたら楽しい。

人がしているのを見るだけでも楽しいはず。

 


セルフビルド考③

2010-07-20 22:32:35 | セルフビルド考

生き延びるための建築:石山修武

連休中日の昼頃、現場作業中にNOAの若い設計士のT氏から携帯に電話があった。

で、表題の本を薦められた。

T氏には以前にも何冊かの本を紹介していただいていたが、石山修武氏の本についてはセルフビルドの本が面白くて一気に読んでしまっていた。

彼のセルフビルドに関する見解で特徴的なのは、セルフビルドを必ずしも建築に限って考えていないことだ。狭義のセルフビルドではない。

ミニチュア模型?作品もセルフビルドとしての扱いを受けていた。

恐竜ロボットもである。

面白いのは、「子どもが非行に走らないような家を設計して欲しい」と依頼され、「待ってましたとばかりに引受けた」こと。

彼の建築への姿勢を感じる。

また、路上生活者の家の設計も引受けている。←ホントに実現したのかな?

水上生活者の家へのまなざしもいい。

T氏が新たに紹介してくださった本はまだ手にしていないが、「生き延びるための建築」だなんてタイトルからして私にピッタシカンカンのような気がする。

因みに、石山氏は世田谷美術館内に臨時設計事務所を設置し、観覧者が内部の事務所内の人の動きをリアルタイムで観察出来るようにして展覧会をしていたというのをどこかで読んでいたが、かなり面白そうな人物である。

 

伊豆の長八美術館

富士山に母の墓がある関係から、静岡にはよく行く。

西伊豆の松崎はなまこ壁の町並みで有名だが、西風の強いその町に「伊豆の長八」というこて絵の名人の美術館がある。

長八のこて絵を見たくて、5年ほど前松崎まで走った。

長八は幸せな人だったなと学芸員とぺちゃくちゃやっているうち、なまこ壁に使われている瓦の話に話題が飛び、それが例によって「淡路かわら工房」と知って、またもや嬉しくなってしまった。

カワラマン氏の瓦だ。

独特の風貌の笑い顔が眼に浮かぶ。

彼も幸せな人だ。

で、アプローチに円形上に組んだ瓦と土壁が気に入り、2回目は長八のこて絵ではなく美術館そのものを見に行った。

それが石山修武氏なる人物の設計によるものだと知ったのは、ずっと後になってから。

例のセルフビルドの本に、石山氏は自分の住んでいるあばら家(掘りごたつの底が抜けてしまって、家族の足が寒風に晒された)の増改築についても書いていたが、実に面白い。

「伊豆の長八設計士様はこんなボロ家に住んでいたのか! へえ~、設計士って、案外紺屋の白袴かも?」

「設計士の自宅拝見シリーズ本ないかしらん?あったら、喜んで絶対見る!」

面白い物は何でも見たくなってしまうので、その本(セルフビルド)に載っていた山梨県のコンテナも3月に見に行ったが、(何しろ1000円)ああいった家を取り上げる石山氏の感覚が私は好きだ。

 


地獄の三連休

2010-07-19 21:40:19 | 「ノアの箱家」工事進捗状況

地獄の三連休

もうぶっ倒れそうなぐらいひどい状態だった。

感覚が麻痺していたが、今までよく耐えてきた。

三連休の二日前に、とうとう9時ごろに二日連続寝てしまった。

それがよかったのか、少し疲労回復。

しかし、ひざの痛みはひどく、屈伸と正座が出来なくなり、灸をし始めたのはいいが、久しぶりの灸でやけど→水ぶくれ。無様な足になった。

お次は、左足裏の神経を傷つけた部分の痛み悪化。(これはもう5ヶ月続いている)

おまけに、三連休の中日に右腕の腱鞘炎再発。

この腱鞘炎は、15年ほど前に初めてやった。

“竹”をひと夏切り続けた時にやって以来、時々再発していたやつだ。

今回の再発は、土堀(スコップ)が原因だろう。

排水浄化システムの岩組みをするために掘っていたら、いきなりビビッと来た。

もう、三箇所も同時に痛む身体になってしまったところへ、昨日からは両腕両肩の筋肉痛。

昔、強制労働に従事していた人たちはもっとひどい目にあってたんだろうな。

命落とすまでこんなことをやり続けてたんだろう。

私ときたら、連休中日の昨日、とうとう意識が朦朧として運転できなくなり、迎えにきてもらうはめになった。

しかし、一晩寝ると奇跡的に回復。

またもや働きづめの一日だった。

めちゃくちゃの三連休。

 

しかし、楽しい。

でも、楽しいとはいえ、いいかげんにしないと家が出来た頃には取り返しのつかないことになってるかも・・・。

そしたら、なにもかも計画がパーになってしまうから気をつけなくちゃ。

若くはない我が身の惨めさ、悔しさ。

 

さて、地獄の三連休にしたことをまとめておこう。

17日(土)・・・中庭の井戸枠作りと中庭への土運び(兄ちゃんと中ちゃんも)

18日(日)・・・排水浄化システムの岩組み作りと草刈と廃材焼却(一人の作業)

19日(月)・・・中庭への土運びとウッドデッキ周辺整備・雨水タンク設置・コンテナ入り口の水溜り補修(兄ちゃん・中ちゃん・印刷屋のひでちゃん・途中で焼き肉屋のおっちゃんも参加)

いずれも毎日見学者多数。

中日は10名ほど入れ替わり立ち代わりやって来た。

 

              

蜘蛛の巣、発見!!      アンカーボルトの修理      浄化システムの岩組み(仮置き)

 

 

 連休中日。兄ちゃんが総勢11名で現地に冷やかしに来た。

この日、中ちゃんも印刷屋もおそろいで丹後半島の伊根までツーリング。

私は、炎天下一人で作業し続けた。

 

               

西側里道のブロックをサンダーで切る。      綺麗に切り取られたウッドデッキの端

 

 

              

中庭に土を入れる。       型枠を嵌める。          コンクリートを打っていく。

 

 

              

 雨水タンク            梁をつける。             設置完了