表現とは何なのだろう。
浄化され結晶化されていく何がしかがあって、どうにもやめられないものがあるというのは確かだ。
大きな物を自分の表現手段として選んだ場合どうだろう。
例えば、建築。
膨大なお金がかかる。
時の経済情勢により、好況の時はバカスカ出来ても不況になると一気に出来なくなる。
表現としての建築は、自分の思いを作品化していくことにおいて、他の表現手段よりも自分以外の何かに大きく左右されやすいと言えるのではないか。
自分の意思ではどうにもならない、展示発表の機会が保証されにくいということは、建築を選んだ人間が引受けていかなければならない運命かもしれない。
NOAの代表者のH氏が1月に大阪にやって来た時、
「建築っていいですね。自分の創りたいものを創るのに、人がお金出してくれるから。」と言ったら、
「それが建築のいいところですよ。自分は貧乏していても、物凄くたくさんのお金を使わせてもらって創れるから。自分の物じゃなくて人の物だけれど。」
H氏は笑いながら答えた。
あんなに大きなプロジェクトをやれるなんて、実に快感だろうと思う。
しかも大量の人間に長期に亘って見られる、使われる、言い換えれば展示され続けるのだから、この快感は一度味わうと、なかなかやめられないのではないか。
(ただし、駄作の場合は悲惨。自分の死後にまで恥を晒し続けることになる)
加えて、自分の建てた建築物の中でさまざまな人間ドラマが展開されているのを知れば、またもや大きな喜びを味わえる。
ましてや、建物に“伝説”が生まれたとしたなら、これは建築家冥利に尽きるのではないか。
伝説化する造形
8年ほど前、京都タワーの風説(ろうそくを模って設計されたものと言われていること)の真偽について確かめたことがある。
当時、各地のろうそくにまつわる伝説や遺構・遺物について調べていた私は、当然ながら京都タワーの通説についても調べることになったのだ。
京都タワーは建設当時「古都景観論争」に揺れたというが、当時の記録を調べていてどうにも不思議な点があった。
当時の京都タワーの景観論争には、いわゆる文化人と行政サイド・市民たちの喧々諤々の声の記録は残っていた。
だが、肝心の設計者の声が何処にも見当たらない。
???
論争は、「ろうそくの形をしているから、京都タワーは神社仏閣の多い古都にふさわしい」という京都タワー擁護論が展開され始め、次第に収束していった印象があった。(私の勘違い・浅学か?)
???
本当に、“ろうそく”なのか?
どうして、設計者は何も語らないのだ?
どうにも不自然極まりない。
ひょっとしたら、設計者側は意図的に沈黙したのではないか?
もしくは沈黙させられたのではないのか?
京都タワーの設計関係者のうち、たった一人生き残っている人物がいるというのを突きとめ、連絡先を調べて電話した。
あいにく留守だった。
留守番の人に伝言しておいたが無視されるかなと思っていたら、翌日、わざわざ御本人から電話をいただいた。
「皆さん、当時からろうそく・ろうそくと仰るんですが、ろうそくではないのです。強度を保ちながらも安上がりにするためにあれこれ考えていたら、自然にあの形になったのです。デザイン上からではなく、あくまで構造上の問題です。でも、いいじゃないですか、ろうそくでも。『京都タワーがろうそくの形に見立てたものだ』と言われていることに対して、死んだ彼もきっと嫌だとは思っていなかったと思いますよ。」
そうか、設計者は傍で論争を聞きながら、嵐が過ぎ去るのを待っていたのかも知れない。
冷や冷やしながらも密やかに論争の成り行きを見て楽しんでいたのかも知れない。
電話の向こうには、老人の穏やかな笑い声があった。
作品は、作者の手を離れ独自の命を持って歩き始める。
それが作品の持つ力だ。
伝説が生まれるということは、作品が人の記憶に刻み込まれたということだ。
伝説が作者の意図とは異なったものではあったとしても、ある意味、これも作者の冥利と言えよう。
亡くなった主任設計士の人知れずほくそえんでいる顔まで見えるような気がした。
通説(風説)が伝説にまでなっていく過程に、私まで加担しているような密やかな快感を感じた。
このままに任せていたい、そう思った。
NOAの本庄氏が西表島に建てた工事用杉板を使ったホテルが「名建築に泊まる」に載っているという。(まだ見ていないけれど、確か、稲葉なをと著?)
「直接私に取材があったわけではないのに、ちゃんと調べて書かれていました。」
にこやかに語る本庄氏の顔を見ながら、私は京都タワーの生き残り関係者の言葉を思い出していた。
NOAの設計した沖縄武道館を見て、「ガメラ」と子どもが言ったという。
私も「わ、何やこれ! ガメラや。」と思ったのを記憶している。(私は子ども並みか)
そのうち、沖縄武道館には“ガメラ伝説”が生まれるかも知れない。
本庄氏は、笑ってそれを受け入れるような気がしている。