NOAの設計士は名建築家だろうが、私の方はコンテナの迷人である。
「ノアの箱家」の迷建築ぶりを記録しておくために、書いておこう。まずは、1回目。
地震が怖くて怖くて、下(高槻都心部)の家を離れようと決めてすでに5年がたっていた。
けれども我が“青少年”たちのことを考えてそれが出来なかった。
やっと全員巣立っていったので、翌日から土地探し。
自然と足は、20年前から考えていた上(山)へ向かうことになった。
土地代と建築費合わせておおむね2000万円の予算。
土地を探し出したはいいが、そこは素人の悲しいところ。
市街化調整区域の土地を購入するということの意味が深くは飲み込めていなかった。
一応調べこんでいたつもりであるが、後にその大変さに泣くことになるとは、その時は予想だにしていなかった。
私は、勝手に自分でコンテナを置いて勝手にやりたい放題できると思っていた。
好き勝手にやりたい人間にとって、コンテナは価格も手ごろだしすみながら手を加えていけるので好都合だ。それに自身恐怖症、コンテナ以外に考えられない。
しかし・・・。
おりしも建築基準法改正(改悪?)の後。コンテナへの規制も厳しくなった。
基礎を設けて固定し、固定資産税を払う・・・これは心得ていたが、肝心の「設計」が私には出来ないと、後で知ったのである。
コンテナは、重量鉄骨建築扱いとなり、もはや一級建築士にしか設計できなくなっていた。
一級建築士の独占領域である。
法律は、庶民の味方か敵か?
コンテナなんて、そもそも「設計」もへったくれもない、適当に窓やドアをつけ、適当にじゃかじゃかやれる代物じゃん。 何で?
しかし、コンテナは、もはや単なる鉄の箱ではなく、一人前の建築物に出世してしまっていた。
見てくれはどうであれ、今や、コンテナ様様、足を向けては眠れない存在なんである。
さらにもう一つ困ったことに、そのコンテナ様様を「住居」として設計してくれる設計士は、そうそういるものではなかった。
何年か前に東京のお台場であった「移動美術館」や店舗でもない限り、設計士の出番自体がそもそもそれほどあるとは言えない。
何せ、いくら様様:ありがたい存在であったとしてもでも、コンテナ様を正式な建造物、ましてや住居として考える人間は、設計士にもクライアントにもほとんどいないからである。
何しろ、鉄だ。
温かみがない。夏は暑く、冬は底冷えする。叩けば、ガンガン音がする。釘を打てない。結露がひどい。錆びる。天井高が低すぎる。形が決まっている。
一般的感覚から言って、「住居」とするには、難点が多すぎるのである。
それに、難民的イメージが先にたってしまって、「コンテナはどうも・・・」というのもあるかもしれない。
「住居」は、社会的には住人のステータスをあらわすことが多いので、多少の見栄もあって、住もうとは思はないのだろう。いや、「住もう」なんて思いつきもしないというのが本当のところだろう。
コンテナ様の使われ方と言えば・・・。
皆さんが勝手にじゃかじゃかやっているコンテナ様の大半は、「別荘=セカンドハウス」であったり「隠れ家」「工房」であったり「勉強部屋」「趣味の部屋」、「物置」の類。
ようするに、皆さん正妻ならぬ正居を他にお持ちで、コンテナ様はあくまで「日陰の存在」。
だから、正居として熱望する私は奇妙な嗜好の持ち主ということになる。
とにかく、奇妙な嗜好の持ち主は、必死にコンテナ様を扱える建築士を探しまくり、何とか見つけ出すことが出来た。救世主に見えた。
そして、その“救世主”との間にコンテナ様建築契約(その建築家は、設計+施工+工事監理をセットで契約することを前提としていた)と、コンテナ様用の土地購入を同時に「迷行」してしまったのである。
その土地は、建築条件付の土地だったので、その条件を取り下げてもらった上での購入だった。
これが、“迷建築”の第一幕の幕開けであった。
その建築家曰く、「アルミサッシの代金を先に払って下さい。」
私は、「建築確認が降りてからでいいでしょう?」
すると、「建築確認が降りるまで1ヶ月かかるので、それまでに指しを注文しておけば、すぐに建築に入れます。降りるまで待っていたら、その分だけ建築が遅れますよ。」と言うのである。
???とは思ったが、300万円支払った。(着手金と合わせて、これで合計400万円)
私は、簡易設計図どころかまだプラン図しか見ていない。
そんな状態で、サッシを注文してもいいのかね?
ま、コンテナだから、設計と言ってもそんなに複雑ではないから、そんなものなのかもしれないと思いもした。
でも、申請がパスしなかったら、サッシと代金はどうなるんだろうか・・・。
不安だったが、信じた。
理由は、初めて電話で話したとき、その建築家が私の著作の読者であり感想まで述べていたからである。
単純な私は、たったそれだけで簡単にその建築家を信じてしまった。
「×日までに振り込んでくれないと、業者に対して私は嘘つきになってしまう。」と言うので、
不安だったが、あわてて300万円を振り込んだ。
まだ発注する以前から「嘘つき」呼ばわりする業者などいるのかと不思議に思ったが、振り込んだ。家造りにあたっては、設計士とクライアントは二人三脚で協力していくのがいいと考えていたから。
翌日、「サッシを発注しました。」とメールが来たのを最後に、10回メールしてやっとこさ返事が返ってくるという状態になった。
それも「了解しました。」だけの短文のみの返事である。
これじゃ意思疎通にならん。
???
電話しても出ない。
出ても「今、会議中ですから、後でかけなおします。」
かかってこない。
???
連絡が取れなくなってしまったのである。
私の手元には、簡単なプラン図のみが残った。(それには、「詳細設計図は、建築確認が降りてから渡します」と記載されていた。)
そこへリーマンショックの津波が押し寄せてきた。
もともとい方円地区の自宅(知らずに購入していた)。
しかも、教書の4階建て。阪神大震災で最も被害の大きかったタイプの家(1F:RC、2F以上:木造)である。
銀行のローンが付きにくい=売りにくい家。
築年数は17年。改修せずに売れるぎりぎりの築年数。
我が家は、売値を下げなければ売れそうになかった。
建築家にやっと連絡がつき、問い合わせると、
「大丈夫です。まもなく建築確認が降りるので、家は×月頃には出来ます。」
その「×月頃」というのが連絡が付くたびに後ろにずれていった。
「このご時世、今売らなければ、よほどのことがない限り売れなくなってしまうだろう。」
次第に焦りが強くなっていった。
さらに大幅に値段を下げて売ることにしたら、やっと買い手がつき、ほっとした。
内心、建築家への不満と怒りが生じていたが、言わなかった。向こうにも都合があるのだろう、それを攻めるのはよくない。コンテナで作ってもらえるだけで感謝しなければ・・・。
「引渡し日が×月×日ですが、それまでにコンテナの家は出来上がりますか?」
「はい、大丈夫ですよ。絶対喜んでもらえる家を造りますから。ご安心下さい。」
で、安心して自宅の売買契約書に判子を押すことにした。
ところが、いよいよ明日が契約日という日になって、私側の不動産屋が言った。
「半年も建築確認が降りないというのはおかしい。市役所に行って、そもそも申請書が出ているかどうか確認してきた方がいい。でなければ、あなたは住む家を失うかもしれない。」
???
首をかしげながら市役所に行った。
「建築確認申請書? 出てませんよ。」
え? え? え?
自宅売買契約の話は吹っ飛んだ。いい条件だったのに・・・。
しかし、5年以内に自宅を建築するという条件のローンで土地は購入済み。
建築しなければ、その時点で一括返済しなければならない仕組み。
住宅財形については、2年以内に建築という条件で部分解約していた。(それで建築家にサッシ代として払っていた)
ローンについては、自宅を売ったお金を返済に充てる算段だったのだから、これはたまったものではない。
いったいどうすればいいのだ?
買った土地を売りに出して借金を返すか?
しかし、もともと相場よりかなり高く買ってしまった土地(これも後で知った)、それをリーマンショックのさなかに売るということは・・・。
あかん!! これで私はもうおしまい!!
絶望とはよく言ったものである。
自宅は売れない。家は建たない。田舎の二束三文の田舎の土地と借金が残った。
日々家屋倒壊の恐怖に晒されながら、私は借金まで抱えて生きていくしかないのか・・・。
地震に脅える私が、地震と水害に弱い街(高槻市内でも昔から水害の多いことで有名なエリアに住んでいた)の中の、地震に最も弱いタイプの家から脱出できなくなってしまったのである。
加えて、経済的不安というのを私は生まれて初めて経験することになった。
お金がないというのは人を窮地に追い詰める。
人を卑屈にもさせる。
卑怯にもさせてしまうのだろう。
きっとその建築家も窮地に追い詰められていたのだろう。
最初から資金調達目当てにお金を振り込ませたはずだ。
後から思えば、不自然な点がいくつもあったから。
初めて会ったとき、「始めに納めていただけるお金はおいくらぐらいですか?」と聞かれた。
着手金もすぐに欲しがった。
「私が安心して設計の仕事が出来るようにして下さい」と。
サッシ代金の領収書がなかなか届かないので催促したら、「コンテナ代」の名目で領収書が届いたりなどもしていた。(もともとサッシ代が300万円もするわけないので、不思議だった)
そうか、私は騙されていたんだ!
電話をかけて、
「建築確認申請は何処へ出されましたか?」と尋ねた。
「民間の申請機関です。」
「その申請機関の名前は? 電話番号は?」
「今は出先なので、分かりません。事務所に帰らないと・・・。」
「名前だけでも教えてください。」
「・・・。仲間に任せているので分かりません。」
「その仲間の人に聞いて下さい。」
「仲間は留守なので・・・。」
「建築確認申請に出した書類を見せて下さい。FAXして下さい。」
「一晩待ってください。明日、何とか書類を用意します。」
「どうして一晩かかるんです? すぐに出来るでしょう?」
「・・・・・」
「今、市役所に行って問い合わせて来たところです。申請書は出ていませんでした。事前協議もされていませんでした。あなたは、半年間私を騙していましたね。そして、今も騙そうとしている。」
「・・・・・」
「お金を返して下さい。」
「それは出来ません! そんなことをしたら、私の今やっている事業が出来なくなってしまいます!」
え?
「そんなこと」???
何で、この人がここで叫ぶの?
叫びたいのはこっちの方でしょうが!
建築家は、建築の傍ら他の事業もしていた。
私が不安に苛まれ続けていた長期間、ずっと新しい他の事業展開に心血を注いでいたのだった。
「必ずいい家を造りますから。」・・・建築家は、それを繰り返した。
「10年後にいい家出来ても仕方ない!」・・・心の中で私はそう叫んでいた。
私にとっては、家の出来具合だけでなく、その完成時期が大切だった。
その建築家とは、当初から、新居入居と旧居売買を同時期にすることで、余計な二重の引越し費用等の負担を発生させないということを前提に、建築を急いで欲しいとお願いしていた。
少なくとも旧居転売は、新居入居よりも後になることが望ましいとも言っていた。
コンテナ住居の完成は早ければ早いほどよかったのである。
数日後、電話すると、
「何か御用ですか?」
と何事もなかったかのような態度。
!!!
文句を言うと、
「私は、そんなに悪い人間じゃないですよ。」
と笑いながら言うのだった。
「こうなったのは、もともと私に支払ってくれなかった前のクライアントが悪いんです。」
流暢な口調でのたもうた。
!!!
前のクライアントが支払わなければ、人を騙してでもお金を振り込ませるのか!!
建築家の平然とした態度から、この人物は今までにも詐欺とまでいかなくてもそれすれすれのよく似たことをしてきているのではないかと思った。
私の気持ちなど何処吹く風、忙しいのにどうして電話をかけてきた・迷惑だって空気を漂わせながらの対応だった。
「ほっときゃそのうち諦めるだろう」と、私が根負けするのを期待していたのかもしれない。
法テラスの大阪弁護士会所属の建築関係専門の民事弁護士に相談すると、
「その建築家の仕事は、建築家といっても実態は内装屋だ。コンテナなら今までのノウハウで何とか住居ができると考えたのだろう。でも、内装屋に何処まで住宅に対応できるかどうかだな。しかも、このケースは市街化調整区域だしなあ・・・。」
そして、「契約書、自分に都合のいいことしか書いてないじゃないですか。」と笑うのであった。
弁護士の顔を見て、私は惨めこの上ない気分になった。
私は、何て馬鹿なんだろう!!
そういえば、その建築家は、私が地盤調査を望んだ時、
「よほどの沢でもない限り、しなくても大丈夫です。」と言い続け、
私が繰り返し強く望んだ末、やっと「じゃあ、しましょうか?」となった。
また、後に2F建てでいこうという話になったのだが、それもだいぶたってから「構造屋が『2F建ての場合は、地盤調査をしなければ確認申請は降りない』と言ったので、やはり地盤調査をしましょう」と言うのである。
???
ひょっとして、やらないつもりだったのか?
それに、今さら何だ?
住宅についての基本的知識がないのでは?
???
1階建ての住居の場合、法的には地盤調査の必要性はない。
けれど、「法的に必要性がない=安全」ではないのだ。
2F建てでなくともやって欲しい。
不同沈下がどれだけ恐ろしい結果を招くのか、地震時の液状化現象・地盤破壊は眼中にないようだった。
また、基礎についても、その建築家は布基礎を考えていた。
阪神大震災以降、住居建築において布基礎はほぼ姿を消し、ほとんどがベタ基礎であるにも関わらず・・・。
そのことを私が指摘すると、ピンボケの返事をしていたので、
「この人、本当に大丈夫かなあ?」
不安に思ったのを記憶している。
「じゃあ多少高くなるけれど、ベタ基礎にしましょう。」
瑕疵担保険のことに言及しても、
「工事をやった以上は、何かあった場合、私は逃げきれないじゃないですか。だから、わざわざそんなことしなくても・・・。」
弁護士曰く、
「お金を返す能力は、その建築家にはない。事務所兼自宅マンションも賃貸だろう。負債も持っているのではないか。仮に裁判で詐欺罪を立証できたとしても、あなたにはお金を取り返すことは出来ないと思う。逆に裁判費用の負担が増すだけに終わる。」と言われた。
泣き寝入りしかないと言われたも同然だった。
そうか、法律は味方ではないのだな。
だったら、自力で闘うしかないのだ。
以後、死に物狂いで長期に亘って闘うことになった。
一睡も出来ない日々が続いた。
人が人を呪うとき、より苦しいのは呪われている人間の方ではなく、呪っている人間の方である。
初めて、人を憎み呪う苦しさを知った。
はからずも犯罪被害者の多くが闘う道を選ばず、自己抑圧や忘却の道を選択する理由を私は自分の身を持って知ることになった。
しかし、自己抑圧も忘却することも、私にはできない。
生き抜いていかねばならなかった。
そのためには、何としてでも取り返さねば、私の場合、全てがだめになってしまうのである。
この闘いには何としてでも勝たねばならない。
しかし、闘う一方で、家を何とかしなければ・・・。
あの家には絶対住みたくない! もうごめんだ!
私にとっては、家屋倒壊の恐怖はどうしても消せない。神経をすり減らしながら住み続けるなんて、もう限界だ。
何とか自分を不安と恐怖から解放してやらなくては・・・。
それがそもそもの引越し・新築理由なのだから。
「空き家にした方が売りやすい。」
とは、繰り返しいろんな不動産屋から言われていた。
そうだ、今売らなければ、もうあの家から脱出する機会を永遠に失ってしまう!!
家を出よう。
借家を探そう。
しかし、私には高い家賃を払うゆとりは無い、ましてや目をむくような敷金・礼金なんて。
その時、助けてくれたのが樫田(中畑地区)の囲炉裏茶屋の女将さんであった。
「ガタガタ言うてんと、こっち来い!」
女親分肌の女将さんである。
翌日には、囲炉裏茶屋の離れに引越しが決まっていた。
高槻山間部最北の樫田は中畑にある囲炉裏茶屋の客として出入りするようになって2年。
今度は、住人(格安の間借り生活)としてその囲炉裏茶屋に出入りすることになったのである。
自宅は、運良く数日後には買い手が現れ、一週間後には売買契約成立。
しかし、一番初めからすれば、実に500万円の値崩れ。
バブル時代に3200万円ほどで買った家が1000万円を大きく切っていた。
けれども、売れただけでも幸運だった。
囲炉裏茶屋の女将さんの気風のいい一声がなければ、私は家を出る機会を失い、
経済的不安と家屋倒壊の恐怖に飲み込まれながら、あのまま堂々巡りをし続けていたに違いない。
囲炉裏茶屋の女将さんには感謝している。
しかし、これが“迷建築”の第二幕の始まりであった。