迷建築「ノアの箱家」の迷建築ぶりを記録しておくため、9月30日付けの「ノアの箱家」⑮の続きを書いておこう。
ノアが設計を引き受けてくれた時、条件がひとつあった。
それは「完了検査を受けて下さい」というものだった。
わざわざそういうことを言うことの意味が初めは理解できなかった。
私は、中間検査も完了検査も単にこちらの必要経費が増える程度のものとしてしか理解できていなかったからである。
「お金、もったいないなぁ。節約したいなぁ。」である。
阪神大震災までは新築物件の3割ほどしか受けていなかったという。震災後、一気に7割をこし、今はほとんどが受けているというのを何かの記事で読んだことがある。裏を返せば、受けなくても済むのか?受けなくて済むなら経費節約できるから嬉しい限りではあった。後に調べてみると、私の場合、中間検査18000円、完了検査20000円で、それほどの大金ではないことが判明、安心した。私は数十万円はすると思い込んでいたのだ。
「うん、これなら受けてもいいや!」と、この程度の理解しかしていなかった。
その時点では、検査の持つ意味合いにはまだピンときていなかったのだ。
やがて、法規制(それらの多くは私にとっては、無駄金を使うだけでなく、本当にやりたいことが出来なくなってしまう足かせ)をクリアーさせるということは、“建築の自由”を奪われているような抑圧感を強く感じ始め、次第にその理不尽さに怒りがこみあげてくるようになった。
屋根・雨水・電気・排水浄化システム・トイレ・・・いずれもこだわりのある部分であったが、「それはダメです」と言われるたび、
「何とか道はないのか!!」と心の中で叫び続けていた。
特にトイレと排水浄化システムは絶対譲りたくないものだったので、本当にだめなのか?と必死だった。
だが、それがもし建築基準法に抵触するものであり、そのことによって設計士側に困った事態が生じるならば、方針転換しなければ・・・・。
“建築士法”・・・万が一の場合は、設計士の資格剥奪を含む不名誉なことが生じるということを玉城さんから聞いた。
恩人であるノアに迷惑がかかることはこちらとしても辛い。何としても避けなければならない。
「ああ、ノア様!!」
さ迷える子羊は、ノアの手の温もりを思い出し敬虔な面持ちとなった。
ノアの足元にひざまずき、羊は胸の前に手を組んでノアの目を真っすぐにみつめながら誓った。
「私をお救い下さったノア様に泥を被せるわけにはまいりません。私はノア様の清き身をお守りいたします。」
羊はそう言って、自分の毛を刈った。
刈り取った毛で糸を縒りふかふかの布を織り上げ、ノアの冷えた身体を温めた。
旧約聖書の一説には・・・・・・そんなん書いてへん!
いかんいかん、またもや白日夢。
ノアの完了検査
ノア夫妻が1月に大阪にお見えになられた時、約束したことがある。
役所の完了検査はそれはそれとして受ける一方で、ノアの完了検査を受けることだ。
「“竹”の計画を知って面白いからやってみようということになった。これがなければこの仕事は引受けていない。役所の完了検査が済んでも、玉野井さんという個人への完了検査はまだ残っている。家は“竹”が出来て初めて完成したことになるのだから、“竹”を必ずやって欲しい。見に来ます。」
高槻駅までノア夫妻をお送りする車の中で、言われた言葉だ。
これは何とも恐ろしい!!
役所の完了検査などよりもよっぽどか怖い。
だが、私にとっては嬉しくもある言葉だ。叱咤激励である。
私の竹のインスタレーションは、私の年齢・体力という人生のスパンに合わせて、その時々に応じて規模や内容を変化させながらやっていけるよう考えている。
自宅がギャラリーならば経費はいらない。
展示・撤去もあわてなくていい。
周囲の状況に追われることなく、自分の都合で気の済むまでやれるのだ。
だからこそ、「家」でやりたかったのだ。
息長く続けよう。
そして、年老いた私とこれまた年老いたノア夫妻とで、南側のガラスの大部屋から向かいの真竹の群落を見ながらさんぴん茶を飲みたいものである。
先だっての完了検査の時に若い設計士の玉城さんから、アトリエ・ノアの本庄正之さんが当初言っていたという言葉を聞いた。
「この仕事は引受けるぞ。建築家全体の信用を貶めた設計士がいるなら、今度は私たちがそれを持ち上げて行こう。」
この迷建築「ノアの箱家」物語は、私の愚かさゆえの苦闘の記録である。
同時に、まっとうな建築家がいるということの記録でもある。