『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

・舞台演劇ほど“共感”を呼ぶ芸術はない/九州大学演劇『蒲田行進曲』―下

2014年04月02日 00時11分05秒 | ●演劇鑑賞

 

  ◇“赦したい・共感したい”と思っている観客

   前回述べた(1)(2)(3)に関する「シーン」は、直接的に「銀四郎・ヤス・小夏」の三人のこれからの生活や存在意義に関わるだけに、とても重要な意味を持っています。もう一度確認してみましょう。

   ●《妊娠させた〈小夏〉を〈ヤス〉に押し付け、二人を結婚させた〈銀四郎〉》

   ●《未婚の母を避けるため〈ヤス〉を受け入れ、子供を産もうとする〈小夏〉》

   ●《〈小夏〉を妻として迎え、〈銀四郎〉と〈小夏〉の子供の育ての父親になろうとする〈ヤス〉》

   そういう《三人三様》の “生き様” を描いた「シーン」でした。

   「観客」は、〈三人三様〉の “生き様” をそのまま認めることはできないにして、“赦せるものなら赦し”、 “共感できるものなら共感” したいのです。多くの観客は、“たくさん赦し、たくさん共感したい” と思っていることでしょう。

   「観客」にとって、「舞台演劇」とは「テレビの液晶」や「映画のスクリーン」と異なり、自分の眼の前には、自分と同じ「生身の人間」が、“同じ瞬間” に “同じ空気を” 吸ったり吐いたりしながら “生きている=演じている” のです。

  一方、「役者」は必死で “演じながら=生きながら”、「何らかのメッセージ」を「観客」に送り続けているのです。ときには「観客」を怒らせ、不快にさせ、またときには喜ばせ、心地よくさせながらも、最後は “赦してもらいたい、共感してもらいたい” と思っているのです。もちろん、この『蒲田行進曲』という「物語」が目指しているものも同じでしょう。

   そこに、「観客」と「演劇を提供する側」との “一体感” が存在するのであり、他の芸術ジャンルでは味わうことのできない「舞台演劇」の魅力があると思います。生身の人間同士が、一瞬一瞬、時間と空間を “共有” しながら、一方は演じ、一方はそれを観ているのです。「舞台演劇」以上に “共感を呼ぶ” 芸術があるでしょうか……。

         ☆   ☆   ☆

   筆者は今現在、原作の「小説」もその「脚本」も読んではいません。しかし、今回の原稿「」を書くにあたり、映画『蒲田行進曲』のDVDを観ました。

   無論、深作欣二監督の「映画」と、今回の九州大学演劇部の「舞台」とは、「ジャンル」も「時代」も「演出(家)」も「役者」も、そして「スタッフ」等関係者も「表現形式」もまったく “異なって” います。

   それ以前に、前者はプロの監督にプロの役者、プロのスタッフにプロ集団の映画制作専門会社による作品であり、後者は「大学の演劇部」による作品です。しかし、《両者》は共に、人を “共感” あるいは “感動” させるための「表現形式」ということです。

        ☆

  今回の『蒲田行進曲』は、中心となる「人物三人」の強烈な個性が最大のポイントでしょう。そのため、この「三人」を舞台上で演出し、演じるのは大変難しいはずです。それを20代前半の学生演出家や学生の役者がどのように描くのか……筆者の最大の関心は、まさにそこにありました。

  その点については、正直言っていくつか課題が残ったかもしれませんが、その解決は今後に待ちたいと思います。

           

   ◇銀四郎、小夏、ヤス役者の好演と演出

  今回の「演劇」で注目したのは、やはり中心となる三人の役者でした。〈銀四郎〉役の「兼本俊平」氏、〈小夏〉役の「若藤礼子」嬢、そして〈ヤス〉役の「白居真知」氏

   〈銀四郎〉の傍若無人ぶりが、よく描かれていました。自己中心的な彼は、我がままで身勝手、傲慢で強引という類まれなキャラクターです。

   その「憎まれ役」を、兼本氏は大変うまく演じていたと思います。欲を言えば、 “自分をうまくコントロールできない人間の弱さ” を感じさせてくれたら……。「映画」では、この点が巧みに表現されており、〈銀四郎〉の人間的な魅力ともなっていました。

   〈小夏〉を演じた若藤嬢は、〈銀四郎〉という強烈な個性を力演した「兼本」氏と、〈ヤス〉を熱演した「白居」氏二人の間にあって、やや影が薄くなったかったかもしれません。願わくば、「女」としてまた「妊婦」として、男二人に対してもう少し “抵抗” する姿勢があった方がよかったかもしれません。その方が、〈銀四郎〉と〈ヤス〉二人の “弱さ” や “狡さ” それに “優しさ” を相対的に描くことにもなるからです。

  ともあれ、今回一番の熱演は、やはり〈ヤス〉役の白居氏でしょうか。中心的な役回りとはいえ、なかなかの好演であり、熱演でした。「賢いのか愚かなのかよく判らない、とらえどころのない難しい役」を、自分の中でしっかりととらえ、自信をもって演じていたのが印象的でした。それはまた、「演出」の「山本貴久」氏の力量でもあるのでしょう。

        ☆

   今回の九州大学の公演にかぎらず、「学生演劇」においても、「福岡女学院大学」の『フローズン・ビーチ』でも述べたように、《表現者としての覚悟》を強くもって臨んで欲しいと思います。

   「観客」は、「演出家」や「キャスト(役者)・スタッフ」の「そのような《覚悟》」を、「舞台」上のあらゆるものによって感じ取ろうとしているのです。そして、その《覚悟》を支えているものこそ、演出者やキャスト・スタッフの “感性” にあることは言うまでもありません。(了)

   ◇『フローズン・ビーチ』/福岡女学院大学演劇部卒業公演-下


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ・人間を描く難しさ/九州大... | トップ | ・2作同時上演/九州大学演... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

●演劇鑑賞」カテゴリの最新記事