――ほな、ぼちぼち……。
喫茶ルームに入って二十分ほど経過しただろうか。初めてまともに口を開いた会長が、S常務を促した。うなずいた常務は、背筋を真っ直ぐに伸ばした独特の姿勢で立ち上がり、レジでの会計をすませた。そして三兄弟の前に歩み寄り、『すぐに戻ってまいります』と言って席を外した。
“すぐに”と言った割には、S常務の帰りは遅かった。言葉にこそ出さないものの、三兄弟の表情に多少苛立ちのようなものが感じられた。ことに何度も腕時計に目をやる専務は、講師(筆者)の手前、何とか気持を落ち着かせようとしているのがよく判った。
やっとS常務が戻ってきた。遅れたことを筆者や三兄弟一人一人に詫びながらも、おもむろに言葉を続けた。
――お三方に見ていただきたいものがあります。先生もお付き合いください……。
そう言って、常務は先導するような形で前を歩き始めた。事態がまだよく飲み込めていない三氏は、互いの顔を見合わせながらもとにかくソファから立ち上がった。
S常務は、ある部屋の前で止まった。三氏を振り返り、その部屋が社員達の寝泊りしていた一室であることを告げた。ドアに向かって軽く一礼をした常務の手には、鍵が握られていた。その鍵を、大切な蔵の扉を開けるかのように差し込んだ。そして三氏と筆者の方に向き直り、『どうぞ』といって入室を促した。“何が始まるのだろうか”……その想いが頭をよぎった次の瞬間、異臭が少し鼻をついた。
それは煙草やビール、それに酒のツマミなどが入り混じった臭いだった。八畳の二間続きの部屋は、窓が少し開けられていた。にもかかわらず、風がないために淀んだ室気が滞っていた。三兄弟の誰かが“ウーッ”という、呟きとも感嘆ともつかない声を発したのを今でも憶えている。
S常務は窓に近づき、機敏な動作で素早く開け放った。布団は、一組を除いた五、六組がすべて敷かれたまま。その上に脱ぎ棄てられた浴衣やバスタオル、それに枕が散乱していた。二つに折られたままの座布団が、何組もそのままになっている。昨夜、他の部屋からの“ビジター(社員)”が、枕か肘かけ代わりに使ったのだろう。それに加え、煙草の吸殻で溢れた灰皿が、座卓の上と敷きっぱなしの布団の間に一つずつあった。しかも布団や畳のところどころに、こぼれた灰を無造作に拭い去った跡が見えた。
いろいろなものが眼に飛び込んで来た。……赤鉛筆で印がつけられた競馬や競輪の新聞。男性向けのピンクスポット案内。何冊もの漫画雑誌や成人雑誌。不動産物件のチラシや情報紙等々。それらが乱雑に放置され、灰皿代わりのビールの空缶が、あちこちに置かれていた。異臭の元凶は、缶ビールの残りに浸った煙草だった。
――この部屋に、中堅・ベテラン諸君を中心に十数人が集まっていたようです。
S常務の声が、三氏に聞こえていたどうか定かではない。三氏は、常務と筆者に聞こえないほどの声で何やら囁き合っていたようだ。その表情には困惑と失望が感じられ、自信に満ちた先ほどまでの表情は、微塵もなかった。