ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

今日は〝啄木忌〟なんですよ!

2020年04月13日 | 俳句

 今日も小雨が昼過ぎまで降っていましたが、やっと止んで明日は晴れそうです。でも気温が低くって最高でもやっと11度だと。朝食卓に座ると背中からいやに温い風が…と思ってみると、なんと主人が暖房を入れてるじゃありませんか。イヤだあ~。だってもう4月も半ばでしょう!すぐに消しましたが…夜になるとちょっと寒いかな…。

 昼前に電話がかかり、先日あげた筍と蕨で〝山菜おこわ〟を蒸したから取りにおいでとおばあちゃんから…。すぐに主人が貰いに行って、早速お昼に食べました。ああ、おいしかった!でも、食い気の方が先で、また写真撮るのを忘れてしまいました。ゴメンナサイ。せっかくのおばあちゃんの手作りなのに…残念。それにしても99歳、なんと元気なことでしょう。スゴいでしょ!

 ところで、この4月13日は石川啄木の忌日、「啄木忌」で春の季語なんです。

 名前ぐらいは皆さんもよくご存じでしょうが、簡単に説明しますね。啄木は本名を一(はじめ)といい、明治19年(1886)岩手県南岩手郡日戸村のお寺の子として生まれました。与謝野鉄幹・晶子夫婦に師事し、若くして「明星」浪漫派の新進歌人として注目を浴びますが、生活は困窮しました。また、詩人や小説家も目指し、代用教員、新聞記者などをしながら北海道などを転々とし、その後上京して明治42年に校正係として東京朝日新聞社に入社します。翌年、口語体の三行書きの歌集『一握の砂』を出版。しかし、明治45年に26歳で亡くなりました。

 では啄木忌にちなんで、下の三つの短歌と俳句をそれぞれ見比べて鑑賞してみましょうか。歌は啄木のよく知られたもの、俳句は、きっとその歌を思いながら詠んだのではと思われるものを抜き出してみました。  

  不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心

  城の堀いまもにほへり啄木忌    山口青邨

  ふるさとの訛(なまり)なつかし停車場(ていしゃば)の人ごみの中にそを聴きにゆく

  靴裏に都会は固し啄木忌      秋元不死男

  はたらけどはたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざりぢっと手を見る

  啄木忌いくたび職を替へてもや   安住敦

 〈不来方のお城〉とは盛岡城のことで、15歳の頃の啄木は盛岡中学校を抜け出しては城跡を散策したり、文学書や哲学書を読み漁ったりしていたんだそうです。青邨も盛岡が出身ですから、この城跡へ来ては啄木のいた頃と今も同じだなあとしみじみと偲んでいるのです。

 不死男は横浜の出身ですから啄木のように〈ふるさとの訛なつかし〉ということはなかったかも知れません。が、父親が早くに亡くなって母子家庭となり弟妹もいたので、高等小学校を卒業するとすぐに働きに出ます。その都会での苦労や辛さが啄木の心情と通じ合ったのでしょう。

 最後の敦の句も、やはり父親の事業の失敗で上級学校へ進学できず、早くから働きに出ますので転職も何度かしたようです。職を何度替えようとも生活は少しも楽にならない…。あの手をじっと見る啄木の気持ちがいやというほど身にしみての感慨を詠んだものなんですね。

 以前忌日の句を詠むのは難しいと書いたことがありますが、このように世間によく知れ渡っている人の忌日ならば読む人も素直に納得できるでしょう。また、この啄木忌のようにその人の生き方や境涯が重なってより深く句を鑑賞してもらえるという良さもあります。そういうことをよく理解した上なら、忌日の句に大いに挑戦してみて下さい。頑張って!

 山口県のコロナは、ちょっと目を離したすきにあっという間に24人になっていました。新たにというのではなく前に感染した人と接触した人から出たようです。でも、もうどこから移ってくるかは分かりませんので私も気をつけます。みなさんも気をつけてくださいね。

 写真は、〝シャクナゲ〟。「石楠花」と書いて、夏の季語ですが…もうこんなにきれいに咲いていました。

  


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4 コメント

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Unknown (ちわき)
2020-04-15 16:29:41
ああ、〝猿も木から落ちる〟、〝弘法も筆の誤り〟、〝釈迦も経の読み違い〟などなど…
さて、風の盆さんはどれ?
もしかしたら〝河童の川流れ〟かな?芥川龍之介は…短命(35歳)といっても、自分で命を断ったんだし…、太宰治も短命?39歳、でもこれも入水自殺だし…
「昭和の啄木」といわれた寺山修司は47歳、これは病死…。あの淡谷のり子さんは92歳…アハッ
とうとう宇部にも出ました。コロナに気をつけましょう。
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記憶と記録 (風の盆)
2020-04-15 13:12:29
記憶にございません
と国会で述べた者がいたが
者とは言わないか
小佐野賢治だったな
甲州出身で、まあ怪物だったな
田中角栄とともに学歴が無くて、立ち上がった稀有な人物だったな

>それでも十和田湖は何度か行きましたが…確か〝乙女の像〟はここにあったかと、田沢湖のは〝たつこ像〟では?まあ同じ乙女でしょうが…

記憶違いと言うか勘違いだったな
どちらかと言えば勘違いだな
記述していて、後で可笑しいなとも思ったが、案の定違っていたな

事実と真実は違うと誰かが言ったが、違っていた
昨今は勘違いがある。昔は字引もあり、人名辞典もあった。
電子辞書が現れて、物を調べる場合もパソコンが多くなった。
特に人名だな。確認するためのインターネットを覗く。
このインターネットが正しいか、誤りかは一種の感だな。感性に頼ってしまう。
Googleに作用されることが多い。あるいはGoogleに支配されるおそれもあるんだな

田沢湖は辰子像だったな。辰子とは民話の人名でもあり、地名でもあったようだ
十和田湖は乙女の像だった。高村光太郎の遺作にもなった。高村光太郎たちが作ったようだ。

>まあ同じ乙女でしょうが…
同じ女性像でも中身は違うし、作者の製作意図は違うな

乙女の像にはモデルがいたらしい
モデルと言えば、淡谷のり子は青森県の出身。ブルースの女王とも言われたが、モデルもやていたと。

モデルは何時間もじっとしているんだな
青森では短歌をやった寺山修司もいた
ブルースとは金が無い時に分かると

もう一つ、やはり違っていたな
ふるさとは 遠きにありて 思うもの
そして かなしく うたうもの

うたうか

昔の人は短命であった。短命が多かったな
いわく幕末、あるいは夭折であった芸術家
長生きするのは珍しい

長生きするのも芸の内
と噺家がいたがな

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Unknown (ちわき)
2020-04-15 01:51:05
風の盆さん、コメントありがとうございます。
啄木は26歳で亡くなりますが、その履歴をみるとなんと中身の詰まった人生だったんだろうという感じを受けます。
昔から人は〝細く長く〟生きろといわれていましたが、啄木はまさに〝太く短く〟の人生でしたね。こちら山口の中原中也のようです。
往々にして明治・大正頃の有名な文人を調べると、なんと早熟な…と思うことが多いんですが、風の盆さんはどう思われますか?
啄木は20歳頃にはもう詩集を出して結婚もしていますし…同じ頃の自分を思うと、ああ幼稚だったなあと思いますもの。そうでないと詩や小説は書けなかったのかしら…
ところで、花巻の高村山荘を訪れたことがあると…
実は2年前、北上市にある日本現代詩歌文学館で「水原秋櫻子展」が開催されるのにからめて、馬酔木で〝みちのく吟行〟が3月から5月にかけ3回に分けて行われたんですよ。花巻の宮沢賢治ゆかりの施設や遠野など
もありましたので、是非行ってみたかったのですが、なんせ遠すぎて…諦めました。その時にこの山荘にも寄ったという人の話も聞きました。私は去年の東北旅行で福島へ行き、安達太良山の麓に泊まりましたし、野口英世の生家も外からですが見ましたが、慎ましい暮らしですよね。
昔から東北はあこがれの地で、行きたいところがたくさんあるのですが、こちらからはちょっと遠すぎ。
それでも十和田湖は何度か行きましたが…確か〝乙女の像〟はここにあったかと、田沢湖のは〝たつこ像〟では?まあ同じ乙女でしょうが…
〈爺さんは、光太郎には…〉の爺さんって…誰?もしかして風の盆さんの?また、いらぬ一言を…ピクルスとは西洋の漬物ですが……アハッ、失礼!
返信する
花巻 (風の盆)
2020-04-14 18:55:07
>この4月13日は石川啄木の忌日
4月13日では、桜を見ずに逝ったか
盛岡に石割桜がある
桜前線は例年、ゴールデンウイークの頃、青森の海を渡る
花巻に宮沢賢治がいた
同じ南部出身で、啄木と賢治とどちらが好きか聞かれるんだな
小生はどちらも余り詳しくないな
賢治は出身地の花巻を出なかったな
啄木は岩手から渋民から外に向かっていた。また大逆事件にも興味は持ったが、上昇気運はあったな
また啄木は短歌、賢治は童話とか広かったな

ふるさとの訛(なまり)なつかし/停車場(ていしゃば)の人ごみの中に/そを聴きにゆく
この歌は成程とも言えるな

ふるさとは 遠くにありて思うもの
ここまでは誰でも、うたうな
そして・・・そして かなしく思うもの
さすがは犀星だな
凡人との違いだな

花巻には高村光太郎の山荘があった
数十年前になるかな
高村山荘を訪れた
説明の奉仕員がいるんだな。
その説明員は良かった
美術館の学芸員もそうだが、良く知っている者の説明は有難い
花巻の温泉地には軽便鉄道が走っていた
花巻だけでなく、全国に軽便鉄道が走っていた
その温泉地を巡る駅と駅の中間に光太郎は山荘を構えた
粗末な家なんだな。しかし雪国だけあって、窓のガラスは二重、玄関も内に二重になっていた
光太郎は背が高かったと
住民が駅を作りましょうかと問うたら、断った
一人では不自由でしょうから、女をつけましょうか
それも断ったと

山と言うか岡なので熊も出ると
夕方になると、安達太良山に向かって、いつも毎日、智恵子と叫んでいたと
住民には聞こえてくるんだな

畑には洋物のピクルスなどを栽培していたと
ある賞を受賞して金が入ったら、近くの小学校にその賞金を寄付したと

爺さんは、光太郎には小学校の時に出会ったと

田沢湖だったかな
乙女の像を制作していた頃だったと

人は様々だな
光太郎も一時は戦争協力者と言われた時もあった

啄木も賢治も盛岡が生んだな
あの日本のチベットと言われたな
山から海辺に範囲が広いが、民話の故郷と言われた遠野もあったな




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