ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

大谷本廟

2017年12月03日 | 日記

 

 今日は宇部市の〝俳句の集い〟で一日忙しく疲れましたので、その報告はまたにしますね。 

 まだ京都の続きがたくさんありますから、その一つ「大谷本廟」の写真を今日はお見せしましょう。次に「大谷本廟」の沿革が書いてありましたので、どうぞ。

 「浄土真宗(じょうどしんしゅう)を開かれた宗祖親鸞聖人(しゅうそしんらんしょうにん)は、弘長2年11月28日(1263年1月16日)、弟の尋有僧都(じんうそうづ)の住坊(じゅうぼう)「善法坊(ぜんほうぼう)」(現在の角坊(すみのぼう))において90歳でご往生(おうじょう)になり、鳥辺山(とりべやま)南辺(現在の本廟(ほんびょう)の「御荼毘所(おだびしょ)」)で火葬され、ご遺骨は鳥辺野北辺の 「大谷」 に納められました。親鸞聖人のご往生10年後の1272(文永9)年の冬、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の末娘である覚信尼(かくしんに)公が諸国の門弟の協力を得て、ご遺骨を吉水の北辺に改葬し、六角の廟堂(びょうどう)を建て、ご影像(えいぞう)を安置されました。廟堂建立の地は、現在の知恩院(ちおんいん)の山門の北に位置する崇泰院(そうたいいん)付近とされています。この土地は、覚信尼公の夫である小野宮禅念(おのみやぜんねん)の所有する土地でありましたが、廟堂建立の翌々年、1274(文永11)年にこの敷地を覚信尼公(かくしんにこう)に譲ったとされています。その後、覚信尼(かくしんに)公は1277(建治3)年から3度にわたって、ここを宗祖の墓所として寄進することを東国の門弟たちに通達し、遠方にいる門弟にかわり直接廟堂(びょうどう)を護持(ごじ)する任に就きます。これが後の「留守職(るすしき)」です。

 この廟堂は「大谷影堂(おおたにえいどう)」とも呼ばれ、後に「大谷本願寺(おおたにほんがんじ)」となり、第8代蓮如上人(れんにょしょうにん)時代の「寛正(かんせい)の法難(ほうなん)」(1465年)により破却されるまで、およそ200年間、諸国の門弟や同行によって護持(ごじ)されてきました。以後、第12代准如上人(じゅんにょしょうにん)時代の1603(慶長8)年、現在地に移転し、この地を「大谷」と呼ぶようになり、今日まで多くの門信徒の方々により護持されています。」

 写真は ①総門への入口 ②総門への参道の紅葉 ③総門の傍の親鸞像 ④読経所からの桜紅葉 ⑤大谷本廟内石窟の説明 ⑥大谷廟内石窟(親鸞聖人が学問をされた所だそうですよ。)

 

 

 

 

 

コメント (2)
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