「平和と公正をすべての人に(Peace, Justice and Strong Institutions)」
澤田さんが毎日送っておられた「ケメコ通信」2002年8月15日に頂いたメールからの転送です
翌年8月21日にこのEHAGAKIでも紹介しております
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2002年8月15日■ケメコ通信 VOL.381 敗戦記念日特集
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これは震災のあった年に死んだ親父(澤田好造)のはなしです。
親戚の叔父さんが書いてくれました。
明治43年生まれで小学校だけで
組み紐やに丁稚奉公に上がったおやじです。
ケメコはうすを遺してくれました。
こういう時間をくぐり抜けてぼくが生まれた。
■好造さんのしてくれた話
「海没」
戦争中自分の乗っている船が沈み海に投げ出された状態を海没と言う。
戦争も始めの内は堂々の輸送船団とニュース映画に見られたように
輸送船に護衛艦がついていたものだ。
主に水雷を積んだ駆逐艦がその任に当たった。
水雷とは潜水艦を攻撃するための水中で爆発する爆雷である。
その内に日本の護衛艦は減少しアメリカの潜水艦は増加する。
子供が勤労動員で造りに行った笠戸丸は造船所を
出て行ったら直ぐにやられてしまった。
戦地で弾に当たって死んだ人よりも、
輸送船が沈んで死んだ人の方が多いのではあるまいか。
学校の成績が良いばっかりに
四修で三高文科へ行った一中の同級生は
殆どが輸送船で死んだ。実にもったいない。
好造さんはこの海没に2度合っている。
そして2度とも死ななかった。
軍曹に迄なった器量がそうさせたのか
「かんながら」の御守りが利いたのか。
応召の時、好造さんは原田の叔父を訪ねた。
その時叔父は
困った時は「かんながら」と称えよと教えたという。
輸送船に魚雷が当たると電灯が直ぐに消えて暗くなる。
輸送船に乗ったら、直ぐに出口は何処か
何処に何が有るか等を
しっかり見て、暗闇でも行動の出来る様にしておく。
船に備え付けの浮きが有ったそうだが
これは役に立たなかった。
ゴムを引いた布で出来た大きい枕のような物だったが
文字通り兵隊がこれを枕代わりにした。
兵隊の頭の脂でゴムがやられ
いざという時には浸水して駄目になる。
ドンと来て電灯がパッと消えたら
かねて目を付けておいた周囲の水筒を
出来る限り手ばやく集め一目散に脱出する。
水筒は初めは水の補給、空になると良い浮きになる。
海に浮かんだ時、周囲は水ばっかりだが
いくら喉が乾いてもこれは飲めない。
水筒の水は命をつないでくれる。
甲板に出たら船は大抵もう傾いている。
甲板の高い方に行く。
水面迄もの凄く高いが、思い切ってお先にと飛び込む。
船の沈む時大きい渦が出来るので船から出来るだけ離れる。
自分で泳ぐのはこの時だけである。
泳ぐと体力を消耗する。
ホンチヤンの将校が
金太郎のように刀を背負っているのを見たと言う。
伝家の刀かも知れず、その気持ちは判らぬでもないが
重い刀を持っていたのでは生き通せない。
船が沈むと必ず板切れか材木かが浮いてくる。
それに捕まってじっと浮いている。
夜が明けてまわりを見渡すと
それは酷いもので、見える限り死体。
不思議に皆うつむいている。
そのうちに小便がしたくなり、便所は何処かしらと思う。
ソーダ、海の中で便所は不要だと気着く。
尿意のある内は良いが
やがて小便が何時出たのか判らなくなる。
こうなるとぼつぼつ危ないのだそうな。
1日か2日浮かんでいたら
海軍の喫水の浅い船が救助に来てくれる。
一度海没の経験を経ると、うんと賢くなる。
輸送船に乗る前になると、色々の準備をする。
鰹節に孔を開け、そこに紐を通して肩から掛ける。
鰹節は海水に1~2日漬かっていると
丁度良い程度にふやけて塩加減も適当になる。
煙草とマッチを油紙に厳重に包み服にしのばせる。
海に浮かんだらこれは頭の上に移動さす。
喫煙は気持ちを落ち着かせる。
しかし海の上で煙草の煙を上げている奴を見ることは
周囲の人々にとっては羨望の極みであろう。
その次は小さいナイフを用意する。
海没にあっても助かるのは海水の温度の高い南方の話である。
タイタニツク号のように北極に近い海にはいると
瞬く間に死ぬらしい。
南方の海は温かい半面、太陽は物凄く強い。
しかも顔には塩が着いている。
一日もすると日に焼けて顔がずるずるになる。
ナイフを持っていると
自分の服を切り裂いて細い紐を作る事が出来る。
浮かんでいる適当な木切れをナイフで切り割り、
この紐で編んで簾を作り、頭の上に乗せる。
時間は幾らでもある。
木切れを枕に、頭の上には簾
適当な硬さと丁度ほどよい塩加減の鰹節をしがみ
ちぴりちぴりと水筒の水を飲み
時々燈草を吸って、たゞ助けを待つ。
友軍の水上飛行機が偵察に来たことがある。
着水しなくても良いのにこの飛行機が下りた。
兵隊たちがこの飛行機に群がる。
遂には飛行機が沈みそうになる。
止むを得ずエンジンをかけ、飛行機は報告に帰る。
前後の事情の
判断の出来無くなっていた人たち何人かゞ犠牲になった。
畳一畳程で周囲にロープの看いた浮きが有ったが、
周囲に捕まるべきものを、楽だと思うのであろう
其の上に乗る奴が有る。
浮きはひっくり返って皆が体力を消費して
生き延びることが出来ない。
沢田軍曹の何と合理的で沈着なことよ。
海軍の船が救助に来て、甲枚からロープを垂らしてくれる。
それだけで何もしてくれない。
喫水の浅い船と言っても、疲れた体で
しかも自力で甲板迄上がるのは並大抵のことではない。
好造さんは之を上った。
すると海軍の兵隊が好造さんの顔を二つ三つ殴った。
何をするか、自分は沢田軍曹だ。
失礼しました。
確りしていらっしゃいますね。
一椀のお粥を貰って食べて寝たが
2昼夜ばかりは何も知らなかった。
この様にして好造さんは生還した。
好造さんは海軍の船で、何処かの港へ行く迄の間
海軍の人達から色々の話を聞いたのであろう。
ロープを自力で上がってくる人でないと
船に上げても直ぐに死んで終うそうだ。
上がってきても、一度海の中に突き落とす程だと言う。
甲板にむしろが二三枚敷いてあったが
助け上げた人だとそのむしろ迄、コテコテと逼って行って
ころりとむしろの上に寝たと思ったらもう死んでいると言う。
連獅子の様だが、上がってきても突き落とす。
また上がってきたら殴りつける。
なお反抗するぐらいに元気でないと助からないらしい。
ビルマに死者の街道と言うのが有った。
戦いに敗れ、隊伍をくんで帰るのだが
道脇に坐っている人の隣に坐りたい。
道脇の人は皆死人なのだ。
そこに坐れば直ぐに死ぬ。
坐りたがる人を
皆で列の中央に入れて引きずる様にして歩く。
ピルマの場合は死の願望に近い。
海没の場合はホッとした安心が死につながる。
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震災の年(1995)に88歳で死んだ父親は
ぼくにはあまり戦争の話をしませんでした。
毎年15日の「戦没者慰霊祭」のテレビ中継を見ながら、
肩を震わしながら涙を流していたことが記憶に残っています。
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ということでした
澤田さんは、バンド仲間
我々の「大坂城JUG BAND」にてバックバンドをしておりました
また
「ケメコ通信【おやかまっさんどす】」として
ほぼ毎日メルマガをだしておられました
その数なんと6843号
このお話も複数回“敗戦記念日”に読んでおりますが
内容を知っていても、引き込まれてしまいます
国の勝ち負けではなく
その時
個人に何がおこったか、何を考えていたのか
そんなことに思いをはせる8月15日にしたい
と、愚考する次第です
皆様におかれましても心の栄養補給は怠らない様ご自愛下さい
ではまた
澤田好宏さんが7月20日にご逝去されました
昭和22年(1947)11月1日生れ
享年75歳
一時期は「澤田好宏と大坂城ジャグバンド」としてかなりの頻度で
あちこちでご一緒に演奏していました
もう一度ケメジャンのステージを一緒にやりたかったですが
これも自然の中の出来事、心よりご冥福をお祈り致します
澤田さんとは色々思い出がありますが
お会いして数回目か
MCEI大阪というマーケティング勉強会の役員になられた時にされた挨拶で
「泥棒に金庫番させるをさせるとは、、、」と
「かえって安心かな」的なことを仰って
「変なオッサンやなぁ」と思ったのが第一印象です
その後、ご縁がありバックバンドを務めさせて頂き、改めて思ったのが
「変なオッサンやなぁ」
ここ数年お会いしてませんでしたが
最後まで“変なオッサン”を全うされたのではないかと勝手に思っております