ゲームホリック

ゲーム大好きぃ!!でゲーム脳なのであること無いこと書き散らします。

HUD廃絶運動

2006年03月21日 | ゲーム
 HOTWIRED記事『HUD表示をやめればゲームの臨場感は増すのか?』


 テレビゲームのゲージなどの表示のことをHead Up Display(HUD)と英語では呼ぶのだという。欧米諸国で画面に表示するゲージなどをなくそうという行動が運動の形で存在しているとこの記事は伝えている。そして一方でHUDの持つ優位性を持って文末を締めくくっている。


 ハードの性能向上によって、製作者の意図するグラフィックが表現できるようになった。それまでのハードでは性能の低さによって制限されていた表現が可能となる。ドット絵はもちろん、ポリゴン数の低いモデルも使わなくていい。そして高度に洗練されたグラフィック表現の前ではHUD、ゲージ類は無粋でしかない。故にHUDはゲーム画面から廃絶される。
 技術の進歩、そして人間の情として至極当然の帰結であるといえる。ましてやその発信地が西欧であるとすれば、なおさらだ。


 では日本のゲーム業界を見るとどうだろう。ほとんどといって良いほどにこのような発想は見られない。『ボクサーズロード』を始めとしたNEW(現GRANDPRIX)開発のボクシングゲームやSCEの『ICO』ほどしか思いつかない。スーパーコンピューター並とこの10年、家庭用ゲーム機が評価を得てきたにもかかわらずだ。
 確かにHUDの優位性は記事で述べられているとおり真実である。自分のプレイ状況を簡潔に把握することが出来る。またそれによってゲームへの没入が促進されることもある。だけれども全てのゲームにHUDが”合う”かといえば、首を傾げたくなる。

 
 大変に写実的で美麗なグラフィックを尽くして、物語を描こうとも、そこにたった一つでも異質なものが介在すれば、物語の労力は水の泡と化してしまう。いくら美麗なプリレンダムービーを挿入しても、先頭画面に一々体力ゲージが描かれれば萎えてしまう

 もちろん逆のことも言える。HUDが”合う”表現もあるはずである。製作者が”ゲーム”を意識していれば、HUDが必然になるし、望まれるはずだ。


 書いてきてよく分からなくなってきたが、言いたいことはHUDにもHUDの利点があり、その点では記事の著者に賛成であるが、やはり適材適所ということが大事なのではないかということだ。