ゲームホリック

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豪雨

2010年01月26日 | ゲーム
『HEAVY RAIN -心の軋むとき-』(公式)
HEAVY RAIN


「『HEAVY RAIN(ヘビーレイン) -心の軋むとき-』折り紙殺人鬼の狂気と3つの謎」(ファミ通)


発売が近づいてきました。発表当時のE3のムービーほどしか情報が無かった頃は、何だか良く分からず良くあるアドベンチャー程度に考えていましたが…

一見するとQTE的なシステムの存在から『シェンムー』のフォロワーに見えがちですが、どうやら『街』や『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』と言ったアドベンチャーゲームの系列の進化系なのではないかという思いが強くしてきました。あたっているかどうかはまだよく分かりませんが、あの系統を西洋的なリアルに引き付けた作品であるのかなぁと想像します。

物凄く細かな分岐を持った、しかも細かすぎてフローチャート化できないような『街』や『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』と言った具合に見えます。『アンチャーテッド』が一本道に絞って映画的アクションの快楽にのみ焦点を絞っていたのに比べると、全く間逆の手法で”映画的”なモノにアプローチを試みているような印象です。豊富な物語性と言った方向で。


「SCEJ、PS3「HEAVY RAIN -心の軋むとき-」開発者ショートインタビュー“ゲームは成熟しないといけない”本当の大人向けを目指した作品」(GameWatch)
Guillaume氏:「HEAVY RAIN」にはゲームオーバーがありません。キャラクターが死んでしまってもストーリーは続いていきます。ですがもちろん、キャラクターが死んでしまった場合、そのキャラクターが調査した結果は失われてしまいます。残った3人のキャラクターでストーリーが続いていきます。
 死んでしまったキャラクターと他のキャラクターとが他のシーンで出会っていた場合は、そのキャラクターが死んでしまったことを知ります。そしてストーリーが変わっていきます。


GAME Watch編集部:操作キャラクターが全員死んでしまった場合はどうなるのでしょうか?

Guillaume氏:それでもゲームオーバーではないです。単純に、物語の終点にたどり着くだけです。ゲームオーバーなのかエンディングなのかは些細な違いかもしれませんが、それもまたゲームオーバーではないです。  
 普通のゲームの場合、ゲームオーバーになったらそれは失敗であり終わりですが、「HEAVY RAIN」はそうではなく、全員が死んでしまったという結果にも物語があります。4人が死んでしまうのはすごく悲しい結末ですが、それもひとつのエンディングです。ちなみにそのエンディングはディレクターのお気に入りのエンディングです(笑)。
(上記記事より一部引用)


『HEAVY RAIN』のディレクターが語る:「アドベンチャーゲームは死んだ」(kotaku JAPAN)
「アドベンチャーゲーム」は、メカニクスで成り立っています。そのメカニクスは、探索、インベントリマネジメント、パズル、ダイアログ選択で構成されています。そしてキャラクターやストーリーは大抵一本道で、カットシーンを通じてゆっくりとしたペースで展開していきます。その定義で言うと本作は「アドベンチャーゲーム」ではありません。インベントリも、アイテムを組み合わせることも、パズルも、延々と続くダイアログもありません。ストーリーはプレイヤーのとる行動を通して語られます。(上記記事より一部引用)



ディレクターの現在の「アドベンチャーゲーム」に対する認識は明確です。私達の現実世界の行動にはゲームのようなフラグ管理は存在しません。けれどもゲームでは、ここではアドベンチャーゲーム、出来事の因果関係を”フラグ”と言う形で管理し、それをイベント発生の条件、スイッチとしていました。これは現実をゲームに落とし込んだ結果でした。

彼の問題意識は正にこの点であり、これまでの現実をゲームに落とし込む為の嘘を乗り越えようとした作品が『HEAVY RAIN』であるようです。現実をゲームにするために存在したフラグ管理やゲームの展開に起伏を与えるための不自然な要素、彼のインタビューを用いれば関連性の薄いパズルや不自然に長すぎる会話を排除しようとした試みが本作のよう。

それは所謂、ゲーム的な嘘です。謎を解くために何故か意味不明なパズルを解かされたり、一体この世界の時間の感覚はどうなっているのだと思わずには居られないほどの異常な長さの会話劇が繰り広げられたりします。特に後者は不自然です。ただそれらは表現力が足りなかった時代の苦肉の策であったはずで、表現力が上がった現代でそれらを無批判に行うことには疑問があります。

予算などの問題もあるのでしょうが、アドベンチャーゲームはこの根本的な部分をおざなりにしてきました。『街』や『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』といった革新的なシステムを兼ね備えたアドベンチャーゲームにしてもです。ただこれは予算や怠慢と言うよりも、そもそもがテキスト形式のアドベンチャーしか眼中に無い、リアリズムに興味が無かったと言うほうが正しいでしょう。

その点でこういった現世代機の表現力を生かした、リアリスティックな表現を標榜したゲームが海外のディベロッパーによって開発されたのは当然というか必然とも言えるものだと思います。こういったゲームを出せない日本のメーカーの必然をも感じさせます。次世代のクオリティを持った、それまでのアドベンチャーゲームと一線を画す大人向けというゲームを観てみたいと思わせます。

ただ少し心配なのはゲーム的な嘘は必ずしも悪ではないということです。表現力が上がったのだから、ゲームデザインもそれに伴ってリデザインされるべきだと思います。ただリアルにとらわれすぎるあまり、現実の面白い部分ばかりかつまらない部分まで忠実にゲーム化してしまうことが見受けれられます。(例えばPS2版『新世紀エヴァンゲリオン2』における尿意や清潔度の存在)



『Heavy Rain』はインタラクティブ・ストーリーテリングへの新たなアプローチをしています。それは(繰り返しの連続でプレイヤーを飽きさせる)ゲームのメカニクスに基づいたものではありません。リアルタイム3Dと時代の先端を行くヴィジュアルが融合し、ストーリーテリングとアクションが混ざり合う、そしてなによりも、プレイヤーが実際にストーリーに対して影響を与えることができるのです。
 
 ゲームの終わりに最後にひとつかふたつカットシーンを見るのとはわけが違います。これは、プレーヤー自らが、自らのストーリーの、脚本家、役者、そして監督となり、様々なストーリーを生きるということなのです。(上記記事より一部引用)




直感的な感覚として事前情報から考えると、『HEAVY RAIN』は従来のフラグ式アドベンチャーゲームとAIの中間ぐらいなのかなぁと。「本作は「アドベンチャーゲーム」ではありません。インベントリも、アイテムを組み合わせることも、パズルも、延々と続くダイアログもありません。」とは言うもののよく分かりません。スゴそうな気配はさせるものの。

主人公が死んだ場合、一体カメラはどこに向くのか。主人公キャラの遺族に当たるのか。それとも警察なのか。折り紙殺人鬼なのか。そこらへんが全くの謎。そこらへんが飛んでも無い完成度だった時、本当にゲームがゲームではなくなるのかもしれません。

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