2020年5月19日(火)
藤原不比等の墓と、移し替えられた藤原鎌足の墓は、私の頭の中では、ゆるぎないものとなりました。
後は、その場所から証拠のものを出して、『祀る』という段階に来たと思っています。
このことを藤原氏の子孫の方々に伝えたく、どのような方々が一番にその場所に行って御霊に手を合わせなくてはならないかをネットで調べてみると・・。
「日本赤十字社」の名誉社長で五摂家の筆頭、近衛家の現当主、近衛忠輝氏という情報を知り得ました。
赤十字と言えば、
不思議な名の赤十字山(407.6m)と長老ヶ岳と、移しかえられた藤原鎌足の墓が、見事に2:1:√3の直角三角形を描いていることを思い出しました。
そして、藤原鎌足と長男の定恵、次男の不比等の三人の墓には、大いなる強い意志が表されていたことも思い出しました。
そしてこの日本の大地に神々の計画を読み解くことができることも・・教えられていました。
一般的には・・不比等君は、藤原家の次男ということになっていますが、実は、天智天皇の落胤で、兄 の定恵は孝徳天皇の落胤だったということを大地に遺された三角法では教えています。
私は、藤原鎌足公の移し替えられた墓と、藤原不比等公の墓を特定できました。
一刻も早くこのことを立証し、二人の御霊に子孫たちが手を合わせ、供養し祀っていただきたいと願います。
どなたか私のこのブログを読まれた方で、近衛忠輝様、又は五摂家の方々と懇意にされておられる方が居られましたら、どうぞ私に御引き合わせくださいませ。
このことこそが実は、世界を平和に導くための岩戸開きなのです。
今、毎日このブログを見ている方が、平均1200名ほど居られます。
この中に、世界を平和へ導く扉の鍵を必ずお持ちの方が居られると私は信じます。
どうぞこの情報がその方々に届きますように拡散していただきたいと、今日は私からの緊急のお願い事です。
どうぞ、よろしくお願い申し上げます。
2020年5月3日(日)
ちょうど1年前の5月3日でしたね。藤原不比等公千三百年御遠忌に行って、不思議な体験をしたのは・・。
その日からさかのぼること2ヶ月半ほど前でしようか・・。
藤原不比等公の墓を特定できたのは、武部さんが昨年2月21日のプログに四天王寺のことを書いたことがきっかけでした。
そのブログの中で、太安萬侶の墓のことを武部さんが書いていたことでした。 そこから一気に不比等公の墓が特定できました。
昨年の3月の中ほどだったと思います。
私の2019年3月17日のブログに、『藤原不比等の墓もあった!』と書いています。
そして、3月19日、20日のブログに初めて藤原不比等公の墓の位置を示した図形を載せました。
今日で一年かぁ・・、龍神様~~~、弥勒様~~~、「もうおうちから皆さんを出してもらっても良いのではないでしょうかねぇ」。
2020年5月1日(金)
武部さんが賣太神社のことを書いているので、私に響いてくることを書いてみます。
下の赤い図形は、藤原不比等の墓と四国八十八番札所の大窪寺と賣太神社(めたじんじゃ)の三点を結んだ直角三角形です。
黄色い図形は、藤原不比等の墓と八十八番札所と不比等の長男である藤原武智麻呂の墓とを結んだ2:1:√3の直角三角形です。
青色の図形は、藤原不比等の墓と八十八番札所と高野山弘法大師廟とを結んだケプラー三角形です。
これらの三つの図形は、藤原不比等終焉の地と藤原不比等の墓を教えています。
藤原不比等公の終焉の地は、稗田の環濠集落である。
・・・
昭和47年、当時本社が西宮北口駅前にあった住宅会社に入社して私が社会人となって初めて赴任した現場が、奈良県大和郡山市の稗田環濠の入り口でした。
当時は稗田村と呼ばれていました。
入社して最初の会社の寮は、西宮市の仁川の近くでしたが、次が大和郡山でした。
会社が借り上げた文化住宅でしたね。
そこから稗田の入り口にあった完成予定1000戸ほどの分譲住宅地入口にあった事務所へと、自転車で10分ほどの田んぼの中が第二の住まいでした。
その当時、稗田環濠には一度も行ったことがありませんでしたが、三年前、武部さんと初めて稗田へと行くのにドキドキし、そして何か懐かしく、でも不思議で不思議で仕方ありませんでした。
・・
んん~~ん本当に不思議です。
藤原不比等の墓と藤原武智麻呂の墓と三郎岳の三点が直角三角形を描くことも・・。
藤原不比等と私、どんな繋がりなのだろうか。
私の人生、あまりにも不思議すぎます。
藤原不比等公の千三百年御遠忌に呼ばれてあれからもう一年が経ちますねぇ。
2020年4月2日(木)
私は住宅建設に携わった経験が30年ほどありましたが、「鬼門・裏鬼門」という言葉にかなり振り回された経験があります。
住宅建築にあたり、プランから施主と打ち合わせをして設計図が出来上がり、着工寸前で親や親せきの方が登場して、「玄関が・・トイレが・・台所が・・、鬼門に当たっています。 裏鬼門にも・・」となって、着工間際になって全て一からやり直しという経験も何度となくありました。
少なくとも、部分的に間取りの変更などは沢山ありました。
この 鬼門 裏鬼門 とはいったい何なのでしょう。
私は方位に関して、良い方角、悪い方角などもともと無いと思っています。
その地域、地域の気象の特性などは当然としてありますが、日本列島一律に 鬼門 裏鬼門の方角が悪いものとすることは、そろそろ止めるべき重大な偏見と思っています。
ちょっと違いますが、菌でも 「良い菌、悪い菌」とはもともと存在しないと思っています。
全てはバランスだという認識をしています。
コロナウイルスの問題も全く同じで、騒ぎ立てる話ではありません。
人間社会が・・、特に先進国と言われるリーダーの想念が自分中心で、嘘を平気で押し通している様に現人神たちがNOとレッドカードを出しているのです。
今、世界のトップが何を密かに進めているかを誰も知りません。神様はちゃんと見ているのです。
日本のリーダーも他の国の愚かな行動に引きずられるようなことをすれば、
確実にコロナウイルスでの死者の何十倍、何百倍と自殺者が出ます。
コロナウイルスで死ぬ人はまだ幸せです。自殺で死ぬ人とその家族は永遠に苦しみから逃れられません。
自分で自分の命を絶つということは、輪廻のレールに永遠に乗れません。
話は戻しますが、
鬼門(きもん)とは、北東(艮=うしとら:丑と寅の間)の方位のことであり、鬼門とは反対の、南西(坤、ひつじさる)の方角を裏鬼門(うらきもん)と言い、この方角も鬼門同様、忌み嫌われます。
この鬼門思想がもし中国から伝来した考え方であるとすれば、中国と日本の古代史においての関りがありそうですが、中国にはその思想はないようです。
又、陰陽道では、これらの方角を鬼が出入りする方角であるとして、万事に忌むべき方角としているようですが、陰陽道が盛んだったころの時代背景にその謎を解く鍵がありそうです。
そのようなことで、鬼門・裏鬼門が現代まで語られる由縁とは何なのか、先人達は何を現代の私たちに語り継いでいるのかに耳を澄ましてみたいと思います。
陰陽道とは何か。その起源は紀元前二千年の古代中国にまでさかのぼると言われたりしていますが、私には起源は日本であり、その発祥の地は兵庫県の中央部に位置する播磨国風土記に記された埴岡の里と聞こえてくる。
卑弥呼は鬼道を操り・・と、魏志倭人伝に記された『鬼道』こそ道教のことであり、その発祥の地は、埴岡の里であり現在の生野、神河町を中心とした中播磨地域で、その中でも神崎郡福崎町にある七種山(なぐさやま)の、南麓一帯は重要な拠点であったと思っています。
ところで・・、雷さんや鬼のパンツはなぜトラ柄?それは、この国の歴史を教えているようです。
鬼にさせられた人たちの歴史こそ、御霊こそ、今崇め祀らなければなりません。
この方々の御霊が今、お怒りなのです。
国の長が、国民を代表して鬼門・裏鬼門を開放しおごそかに迎え入れ、そのためにこの国の建国者であるイエス・キリストや、その墓守をしていた卑弥呼の墓に早急に墓参しなければならない。
まだあります。この真実を知っていた、蘇我入鹿(皇極天皇) 、天武天皇、藤原不比等公、桓武天皇、空海らの墓参を急がなければなりません。
かれら現人神たちはそれを望んでいます。
その仕事は三権の長と、天皇陛下の司です!
2020年2月24日(月)
桜井駅からタクシーに乗って、桜井市役所を見て・・道路標識を見て、駅に引き返さず、文殊院~談山神社大鳥居~聖林寺~談山神社~明日香を廻って、その日大事な目的の久米寺へと連れて来てもらいました。
TRACES OF THE PHOENIX
記紀に書けなかったものがこの情報である!と藤原不比等公。
2019年12月27日(金)
藤原不比等公のお墓参りに皆さんと行ってから、急激にいろんなことを教えられています。
そして、私が住む神戸市の事務所からさほど遠くない場所に、重要なベンチマークポイントとなる場所として、西求女塚古墳があることを教えられました。
西求女塚古墳 ・・とは、西に女性のお墓(塚)を求める古墳 と、私には聞こえてきました。
それで卑弥呼の墓との関係で重要なポイントを見つけると、五色塚古墳、上島が即みつかりました。
それで早速、21日(土)午後から西求女塚古墳へと行きました。
私の事務所から阪神電車の新在家駅から西へ二つ目の駅の西灘駅から南へ歩いて数分の場所にありました。
「知らないとは言え、遅くなって申し訳ありませんでした。やっと来ることができました・・」と私。
そうしたら・・どうでしょう。
「西にはマリアの墓もあったでしょう」・・と。
それでいつものようにもう一点を求めると・・と。
な~~んと、以前バド・シェバのお墓もあると教えられていた近くに二等辺三角形のポイントがくるのです。
バド・シェバのお墓は以前思っていた場所より西南西へ190m行った場所で、ダビデ王の墓、ソロモン王の墓とで二等辺三角形を描く場所にあるのです。
もう驚き! 驚愕!! なのです。
武部さん、これはもう大変ですよ~~! ここから・・伊勢へと話は繋がっていきます!!
凄い すごい スゴイ!!
浜田さ~~ん、いよいよ陰謀論の核心へと行きそうですよ。
2019年12月23日(月)
藤原不比等の墓と丹生津姫を祀る丹生山と卑弥呼の墓は直角三角形を描く!
「なぜ、うちの家の後背地にある丹生山に「藤原不比等」と「丹生津姫」が合祀されているのか、わからない」との情報を目にしました。
これは今、私が不比等君に卑弥呼の墓の情報をより詳しく教えてもらっている時なので、この情報は重要なことを教えている予感がし、地理院地図にポイントを落とすと・・。
どうでしょう、予感的中です!
予感が的中と言いうより、これも神計らいですね。
「藤原不比等」と「丹生津姫」が合祀されていると言われる丹生山と藤原不比等の墓と卑弥呼の墓は、40度50度90度の直角三角形を描きます。
偶然でしょうか・・、地下神殿があるという生野の姫宮神社と藤原不比等の墓と、紀伊国一宮である丹生都比売神社とは直角三角形を描きます。
そして、その姫宮神社と丹生都比売神社とを結んだライン上に丹生山が位置しています。
これでやっと長年のモヤモヤであった丹生都比売神社の丘に立つ二つ鳥居の謎が解けました。
一つの鳥居は卑弥呼 もう一つの鳥居は藤原不比等でしたね。 これで長年のモヤモヤがすっきりしました。
丹生都比売神社の丘に立つ二つ鳥居は、並んで西に向かって立っていましたが、
丹生都比売神社と淡路島で一番高い山である諭鶴羽山と卑弥呼の墓は直角三角形を描きます。
丹生都比売神社と友ヶ島水道を望む淡路島の由良のピラミッドの山と藤原不比等の墓は、2:1:√3の直角三角形を描きます。
丹生都比売神社とピラミッドの山とを結んだライン上に「神島」がありますが、この神島と丹生都比売神社と藤原不比等の墓は直角三角形を描きます。
要するに、卑弥呼の墓の位置と藤原不比等の墓を教える場所として、丹生都比売神社の位置が決められたということです。
2019年12月19日(木)
私は先日の「藤原不比等公のお墓参り」ツアーには皆さんをその場所へと案内しました。
大変有意義な一日でした。
でも・・、あれから益々、毎日、不比等君からでしょうか・・、空海さまからでしょうか、何者かの代理になったように地理院地図と向き合っています。
向き合っては睡魔に襲われ眠り込み、起きては地理院地図に向かい合う日々が続いています。
下の図には、3人の名前が基本形の綺麗な2:1:√3で表されています。
壬申の乱で滅ぼされた大友皇子(第39代 弘文天皇)。
古事記や日本書紀の編纂に携わった太安万侶。
そして、第40代 天武天皇 、41代 持統天皇、42代 文武天皇、43代 元明天皇に仕えた藤原不比等。
今でもこの3人は、仲良く語らっているように強い絆を感じます。
上の図で、書写山円教寺摩尼殿から大友皇子終焉の地であると言われる鞍掛神社までと、太安万侶の墓までは同距離です。
又、大和郡山市にある外川八幡神社から大友皇子終焉の地までと藤原不比等の墓までも同距離です。
そして、書写山円教寺摩尼殿と外川八幡神社と大友皇子終焉の地までは直角三角形を描き、書写山円教寺摩尼殿と外川八幡神社と藤原不比等の墓も直角三角形を描きます。
そして下の図は、藤原不比等の墓と外川八幡神社との関係から正三角形となる点を求めると、神戸市北区の山に「双子山」。
京都に空海さま所縁の乙訓寺がありますが、双子山と藤原不比等の墓は見事に直角三角形を描きます。
大友皇子終焉の地と藤原不比等の墓と弘文天皇陵の三点は直角三角形を描きます。
大友皇子終焉の地と藤原不比等の墓と天智天皇陵の三点も直角三角形を描きます。
そして・・、不比等の墓と天智天皇陵との三点で直角三角形になる点に「神呪寺」があります。
これらの図形の関係性から、あなたは藤原不比等君の叫びが聞こえますでしょうか。
三津谷くん、前田さん、何を言ってるか分かりますかぁ!?
ヒントは、外川八幡神社の地に眠っている方は、記紀編纂に関わった人物です。
そしてその方と不比等君は双子と言ってますよ。
このドラマは、必ず皆さんが辿り着くご先祖様のお一人の無常の人生を教えています。
2019年12月13日(金)
滋賀県には近江富士と呼ばれる綺麗な三上山があります。
太古の昔から多くの人達が道しるべとしたり、心を癒されたことでしょう。
小治田安萬侶(おはりだのやすまろ)は、その三上山と藤原不比等公の墓とケプラー三角形となる場所に自分の墓を決めたようです。
近江と言えば、壬申の乱の戦場の舞台でもあります。
その壬申の乱で大友皇子が自害したと言われる場所へと、先々月、醍醐寺へと行ってお祈りした後、そこから皆さんで大津にある鞍掛神社へと行きました。
そこから遠くに綺麗に見えていた山が、三上山でした。
太安万侶の墓も藤原不比等と大友皇子の終焉の地とで2:1:√3の地点にありましたねぇ。
そして、イエス・キリストの墓とも綺麗な直角三角形を描いていました。
歴史が面白い!と言えば、その時代を命をかけて生きた先人達に申し訳ありませんが、この世のドラマの終焉の地をどこにするかまで決めて、その霊ラインの最終地点がイエス・キリストの墓に辿り着けるようにしていました。
2019年12月10日(火)
7日(土)、だれも知らない、知る由もない藤原不比等公のお墓へと、登っていただきました。
沖縄や宮城、福岡、広島、岐阜、滋賀、奈良、京都、大阪、兵庫と遠方より集っていただきました。
地元、南丹市からも参加していただきました。
皆様の足跡は、日本の歴史、・・そして世界の歴史を大きく変える第一歩となることでしょう。
感謝申し上げます。 ありがとうございました。
2019年12月7日(土)
今日、藤原不比等公のお墓に全国から集まられた方々をご案内します。
さぞかし見えない世界の方々は、向こうから見て居られ喜ばれることでしょう。
何枚もの図形を時系列で並べてみましたが、どのような流れでお墓を発見し、そのポイントがゆるぎないものになって行ったかを知ることができます。
思い起こせば、法隆寺の謎解きから四天王寺の謎解きへと発展して行き、そこで武部さんのブログの「太安万侶の墓」が四天王寺と天照大神の墓である神野山を結んだライン上にあるという内容がきっかけでした。
太安万侶は古事記を編纂した人物ですから、不比等君と時間をかけていろいろ画策していると思われますから、太安万侶の墓が必ず不比等君のお墓を教えてくれると思いました。
そしてその閃きは正しいものでした。
それは、この大地に三角法で全てが網羅されていますから、父である藤原鎌足の墓や、同じ時代に生きた大友皇子(弘文天皇)の終焉の地や、先人先輩たちが残してくれた歴史の真実を全てしっていた空海様が開いた高野山の金堂や大師廟とを結べば必ず浮かび上がることが想像できましたからそれは、いともたやすいことでした。
求めるお墓の位置は、すぐに求められました。
これら一連の流れから、素晴らしい神々の計画を垣間見ることができます。
今日、勇気ある方々と真っ先に感謝の足跡を残してきます!
2019年12月6日(金)
藤原不比等公のお墓参りを明日にして、夫婦岩(西宮市)の謎が完全に解けたようです。
昨日は、午後から深い眠りに陥っていました。
いつものように目が覚めて、デスクトップに写しだされていた地理院地図に素直にポイントを打ち、作図に入りました。
「イエス・キリストの墓と藤原不比等公の墓を結んで、タレスの定理で直角三角形になるポイントに何があるか」と言われているような「気」がして円を描いたライン上を見ていくと・・!
なんと! 甲山近くにある謎の磐座である夫婦岩が浮かび上がりました。
それで、以前まとめていた図面を引張だし、私が表示していなかった重要な岩の方角を、現地で測って角度を記入していたノートと見比べると・・!
藤原不比等公の墓を教えていることが分かりました。
「やっと完成したぁ!」と凄く嬉しくなりました。
そうすると・・、それももうビックリするタイミングで、久しぶりに武部さんからの電話です。
「近くまで仕事で来たんですが、居られますかぁ」と。
あまりにものタイミングなのです。
そして・・、事務所にやって来られた武部さんに、「夫婦岩の秘密が分かりました!」と伝えると・・、「たった今、夫婦岩に行ってたところです」と武部さん。
あまりにも不思議すぎる共時性の世界を垣間見た瞬間でした。
タレスの定理から、神戸市北区山田町に烏帽子岩や天狗岩など重要な磐座があることを教えます。
そしてその近くには、以前、矢野さんが発見していた墳長200mほどの前方後円分が山中に隠れています。
いったい誰のお墓なのでしょう。