2022年6月10日(金)
上森社長
お疲れ様です。
表記の件、つまらない話ですが。。。
昨朝のブログで称徳天皇と道鏡について語られてましたが道鏡の”弓削”が気になり
想ったことです。
近所にも、備前の和気やイエス王家のお墓の近く(熊山遺跡の麓)にも弓削という
地名があったので・・
1.道鏡の俗性とされる弓削氏は、弓を製作する弓削部を統率した氏族で、物部氏
の一族、物部守屋が母性を仮冒...偽称して弓削守屋を称してからその子孫が
弓削氏を称したとありました。
道鏡の出自については天智天皇の皇子である志貴皇子の落胤という異説も
あるようですが、
古法皇山のある弓削島との関係から道鏡の出自は弓削氏にあると想います。
この弓削氏が、物部守屋公と繋がりがあるならば、道鏡も守屋公のDNAを
継ぐ人物だったのではないでしょうか?
(つまり用明天皇のDNA)
また、弓削は、弓矢で”弓”と”半月”で、弓月を示唆するという情報も目に
しました。
弓月と言えば、弓月の君にも繋がると想います。
*九州から瀬戸内(山沿い、川沿い)、そして近畿に集中する弓削という
地名は、弓月の君が東遷していく順路のように見えます。
2.一方、称徳(孝謙)天皇は、壬申の乱後、天武帝の直系としては最後の天皇
にして女帝と言われています。
3.身分の低い道鏡が、称徳天皇に取り入って朝廷で出世し、あろうことか皇位を
狙った一連の行為に尾ひれがついた風説が一般化されていますが...
上記のことを考えると、称徳天皇は、道鏡が皇位を持つにふさわしいDNAを
持つことを知っていたのではと想われます。
(もしかして、当時の周囲の人はみんな知っていた)
*このことが、藤原仲麻呂の乱の背景にあったのかも?
4.ただ、道鏡自身は皇位に対して、それほど積極的ではなかった。
しかし、称徳天皇はご自身に後継者(子供も居なかった)が無かったことも
あり、高貴なDNAを持つ道鏡を見出したときに、
そこに天武系と言うか、それに近い血脈に皇位を継がせる可能性を求めて
どんどん道鏡に執心していった...というようなことがあったのでは
ないでしょうか?(もちろん男女の関係も含めて)
5.称徳天皇という後ろ盾がなくなった後、道鏡自身は死罪等の重罪に問われること
なく、清麻呂公からも次代の光仁天皇からも死罪等重罪に問われることなく
ただ下野へ配流・左遷されるだけにとどまったことを考えると、
道鏡自身は、称徳天皇の想い(天武系の継続)に翻弄されただけと想えて
なりません。
6.いずれにしても、称徳天皇が亡くなった後、天智系の光仁天皇を迎え、
朝廷から道鏡も居なくなり、いよいよ桓武天皇の時代を迎えることに
なる。。。その幕開けの事件だったように思います。
いよいよ平安の時代に入っていきますね。
以上です。
大西
この大西さんからのメールを見て、すぐさま弓月王の墓と古法皇山とを結んで、そして空海コードでその一点を探しました。
その一点は、複数の空海コードと重なるか否かで「道鏡の墓である」と判定しました。
沢山の空海コードが一点に重なることは、偶然にしてはあり得ないものです。(うえもり)