2024年4月12日(金)
法隆寺の謎 その4 夢殿と鎌足の移し替えられた墓 ・・ 動画がUPされました。
これは特に「先祖は藤原です」と言われる方には重大な話です!いえいえ、日本国民全ての方にとって重大な話なのです。
夢殿で手を合わす先には、藤原鎌足の墓があり、なんとその先には、藤原直系である第50代 桓武天皇の墓があるという、どこにも書かれていない重大な秘密を公開しました。
2024年4月12日(金)
法隆寺の謎 その4 夢殿と鎌足の移し替えられた墓 ・・ 動画がUPされました。
これは特に「先祖は藤原です」と言われる方には重大な話です!いえいえ、日本国民全ての方にとって重大な話なのです。
夢殿で手を合わす先には、藤原鎌足の墓があり、なんとその先には、藤原直系である第50代 桓武天皇の墓があるという、どこにも書かれていない重大な秘密を公開しました。
2024年3月13日(水)
鹿嶋神社には阿弖流為の首が持ち込まれたと私は思っている。
阿弖流為が斬首された場所は、大阪府枚方市の交野山だと思っている。阿弖流為が斬首されるより前の話であるが、桓武天皇が冬至の日に北に向かって2度も郊祀を行っている交野が無関係とは思わない。いや大いに関係していると思っている。1度目の郊祀は、藤原鎌足の墓を鎌足公古廟からすぐ麓に移し替えていると思っている。そのお墓はフェニックスコードで読み解いているが、この藤原鎌足の墓と阿弖流為の首が持ち込まれた鹿嶋神社と同距離となる中間点を見ると、先ず北から「皇子首」「祖父岳」「経ヶ岳」「聖岳」「駿府城」である。地名にわざわざ「皇子首」とは、私には偶然とは思われません。「経」「聖」そして、家康の最後の城である「駿府城」これらは全て、大地に書かれた願いであり経典のようにも私には響いてきます。
藤原一族の阿弖流為に対する祟り封じにも見て取れる。これらのフェニックスコードから間違いなく鹿嶋神社には阿弖流為の首が祀られていると私には響いてくる。
2023年6月17日(土)
見てください、みてください!
どうして隣の人を銃で撃ってしまうの? 考えられないことが起きましたね。
左利きスナイパーも安倍さんの命を殺めた訳ですから、今度はやった左利きスナイパーの命が召し上げられるか・・その関係者が・・、分かります?
安倍元首相銃撃事件にも赤十字山は絡んでいましたが、今回も移し替えられた藤原鎌足の墓から自衛隊小銃乱射事件現場までと赤十字山までの距離は共に122㎞と同距離で二等辺三角形を描いています。
偶然では絶対にありえないと私は思うんですがねぇ。安倍さんの銃撃現場から崇神天皇の墓が浮かび上がりましたが、崇神天皇も怒って居られるような感じもする私ですがぁ・・。
2022年6月6日(月)
博士学位論文
百済王氏の成立と動向に関する研究
A Study on the Formation and Historical Trend of Kudaranokonikishiuji
滋賀県立大学大学院
人間文化学研究科 地域文化学専攻
崔 恩永
2017年 8月
乙巳の変から壬申の乱、そして平安京遷都の深層を探るには、百済の最後の王、義慈王と百済王氏の動向を知る必要があると思い、ネットで調べると一つの研究論文が見つかりました。
今の世の中、調べ物をするには大変便利な時代ですね。
220ページの内容をやっと読み終えました。
そこには全く知らなかった世界を見ることができました。
そして、交野市の歴史を知ることも出来ました。
桓武天皇がどうして交野に10回も行幸したのかの確たる答えはありませんでしたが、先に私は答えは持っていましたから、その情景が浮かび上がるようでした。
それは、百済王氏である善光こと藤原鎌足の墓(鎌足公古廟)を交野に移し替えて大々的に鎌足の墓を造営していることが証明される日が来ることでしょう。
今、「不死鳥のあしあと」のパート2を一枚一枚矢野さんが纏めていますが、その本が出たらそこにビックリする隠された歴史の真実が飛び出すことでしょう。
2022年5月8日(日)
藤原鎌足の墓は、鎌足公古廟から東南東14.88㎞の場所に移されている。
その移し替えられた藤原鎌足の墓から天智天皇の墓までは、36.52㎞。舒明天皇陵までは35.52㎞。斉明天皇の墓までは38.16㎞。
これら4点の関係図はコンパスを想起させる。
そして、四天王寺から手を合わせ崇める山が長老ヶ岳であるが、その長老ヶ岳と藤原鎌足の墓と、その二点から求められる2:1:√3の地点に赤十字山がある。
偶然にしてはあまりにも・・なのです。
フリーメーソンリーのシンボルと言えば、コンパスと定規ですが、やっぱり藤原君がフリーメーソンの核になっていましたねぇ。
2022年5月7日(土)
藤原鎌足の墓は、鎌足公古廟から東南東14.88㎞の場所に移されている。
おそらく第50代桓武天皇の命で動かされたと私は思っている。
その藤原鎌足の墓から天智天皇の墓までは36.52㎞であり、斉明天皇の墓までは38.16㎞であり、凡そ同距離で二等辺三角形を描いている。
斉明天皇が最初に産んだ子は、大海人皇子(天武天皇)であり次が漢皇子(役行者)。 二人の父親は、蘇我入鹿である。
斉明天皇が次に産んだ子が、中大兄皇子(天智天皇)。その次が中臣鎌足(藤原鎌足)である。この二人の父親は、杉山古墳に眠る百済の31代、最後の王、ウィジャ(義慈王)であり舒明天皇である。
その義慈王と斉明の間に生まれた子が豊(豊璋)であり中大兄皇子(天智天皇)。
その弟が勇(百済王善光 くだらのこにきしぜんこう)であり、中臣鎌足(藤原鎌足)である。そして舒明天皇との間にもう一人、女の子を授かっている。
斉明天皇は重祚していない。蘇我入鹿が中大兄皇子と中臣鎌足に殺された時、彼は皇極天皇だった。
上の絵をよ~~く見てほしい。
これは、談山神社の祭神、藤原鎌足(614-669)の伝記をまとめた多武峯談山神社の縁起絵巻のデジタルデータとして公開されています。
蘇我入鹿は、天皇が座る一段高い御座に居たのです。彼は皇極天皇だったのです。
2022年2月7日(月)
昨日、JR摂津富田まで行って、そこからタクシーに乗り込み、「阿武山古墳までお願いします」と私。
「京都大学の阿武山観測所になっていて、入れない可能性がありますよ」と運転手さん。
「入口まで行ってダメだったら帰りますから、とりあえずお願いします」と言うことで発進してもらいました。
車が止まった場所は、運転手さんのいう通り門が閉じられていましたが、門の前で関係者らしき男性が居られたので、「阿武山古墳に行きたいのですが、入っても良いですか」と尋ねると、「良いですよ」と。
「行ったら分かりますかね」
「分かりますよ」
「何分ぐらいで行けますか?」
「10分か15分ほどでしょうかね」と丁寧に教えてもらいました。
それでタクシーの運転手さんに40分前後で帰ってきますから・・とお願いして、門の横から入って急ぎ足で坂道を上がって行きました。
教えてもらったとおりに迷うことなく辿り着くことができました。
早速、御参りを終えて、リュックの中から金探査機のコア・ロッドを取り出して、黄金を探るとすぐさま強くヒットしました。
墓室正面右手に墓室と同じほどの広さが綺麗に整備されていましたが、その場所に黄金の反応です。
時間が無いので急ぎ足で調べましたが、7m×10mほどの範囲に黄金が埋められています。
古墳の説明板の内容からすれば、3mほど掘り下げて墓室をにわか仕立てで造営していますから、黄金も同じ深さほどに埋められていると推測します。
この黄金は、誰の財宝か!?
もちろんこの墓ににわか仕立てで埋葬された、聖徳太子と尊ばれた蘇我入鹿であり第35代皇極天皇の財宝である。
埋葬されていた骨の状態も、埋葬品もそれらのことを物語っている。
おそらく石室の内部には、埋葬者について書かれた文字が遺されていた筈である。
一刻も早く黄金を取り出して、しかるべき遺言の場所に安置し祀らなければなりません。
藤原鎌足の墓は鎌足公古廟であって、そこから第50代桓武天皇が交野に移し替えています。
いつでも立証できます。
夜明けの晩が近づいています。 急げ! と天界から響いてきます。
2021年4月6日(火)
昨日、4月5日(月)朝9時前に、宮崎君から電話。
「今日は、山ですか?」・・と。
「今日は、事務所です」と私。
「昨日は赤穂に泊まることになりまして、どうしても上森さんにお会いしたいという方が居られまして・・、お連れしてもよいですか」・・と宮崎君。
「良いですよ」
・・と言うことで、お昼過ぎに宮崎君がやってきた。
それからほどなくして、ご夫妻がやって来られた。
出された名刺には、『大倉正之助』。
やってこられて、挨拶もそこそこに、近くの焼き肉店へと昼食に。
すぐさま事務所にもどり、話は勝手に進んでいました。
昼食の時もそうでしたが、事務所でも、
「あなた!失礼でしょう・・」と奥様。
何度でも、ご主人様は、シータ波に近いスローα状態で・・。
「良いんですよ、今、神様が来て居られますから・・、私はいつも事務所に来たら眠らされるんです。失礼でもありませんよ」と私。
気遣う奥様に何度となく同じ言葉を言う私でした。
んん~~ん、ドラマは急展開の模様です。
大倉さんが見せてくれた家系図の始まりには、『秦河勝』の名前が書いてありました。
丁度一週間前のブログに、秦河勝の墓である赤穂の生島と、聖武天皇の墓と弘法大師廟と卑弥呼の墓のことを書きましたが、そのことから話が始まったようでした。
大倉さんは、昨日4日、日曜日に大避神社での和楽の奉納演奏に来られたとのことで、生島へも渡られたとのことでした。
間違いなく、ルーツを辿れば「秦河勝」のようでしたから、私はいろいろと伝えてあげました。
「秦河勝のご先祖様である弓月王のお母さんの母の墓はどこにあるかご存じですか」
・・「知りません」。
「弓月王のお祖母さんの妹さんの陵墓は、宮内庁が管理しています」
「その方たちの母親の墓は、ここです。2:1:√3の直角三角形を描きます」
「その方は、安栖里から卑弥呼さんの息子の嫁に嫁いで来られました」
「卑弥呼には男の子が一人居ました。そこにモーセの直系の家系であるお姫様が嫁いでこられまして、女の子が二人できました」
「下の娘さんには、女、女、男が生まれまして、その男の子が応神天皇です」
「上の女の子には、女、女、女・・」もう話はついていけませんよね。
「上のお姉さんの子供が、高句麗の王様に嫁がれまして、生まれたのが弓月王です」
「弓月王の母方は、卑弥呼に繋がりイエスの四男で第四代懿徳天皇に繋がり、父方もイエスに繋がり・・」
・・このような話・・、到底、話についていけません。
意識はもう、もうろうとしてしまいます。
当然至極の状態なのでした。
私はこの時、秦河勝と、そのご先祖様である弓月王とを混同して喋っていました。
それをきっかけに次々と大きな発見へと繋がっていきました。
昨日の会話を綴ると、小冊子一冊が出来上がる内容でした。
でも、話の内容から分かったことは、間違いなくバチカンは、イエスの直系である人物たちのことを知っているようです。
本人が知らなくても、バチカンは知っていますね。
だって、ご夫妻は、バチカンの大事な節目の年に、日本代表でバチカンに呼ばれています。
ご本人様たちは、「どうして私たちが招待されたのか分からない」と言って居られましたが、私には十分にそれは理解できます。
八木さんの数霊の予告、当たってますよ。
藤田さん、メールありがとうございます。
藤田さんのルーツにまで話は行きつきました。
私との会話からすぐにその方へ電話して居られました。
「電話が通じませんので、メールを入れておきました・・」と。
皆さん、かごめのドラマの中で、台本通りに演じて居られますねぇ。
鎌足公古廟から移し替えられた藤原鎌足の墓の話から、「赤十字山って!?・・あるんですかぁ・・」と驚いておられましたねぇ。
「長老ヶ岳では、宮崎君は不思議な体験をしています。四天王寺で手を合わす先は、その長老ヶ岳です」と。
この国の長老って藤原鎌足であり、その子孫が赤十字と大いに関わっていることを教えています。
2020年12月24日(木)
あった! 藤原鎌足のピラミッド。
山つつじでしょうかぁ、そこには春をまちきれづにもう綺麗な花を咲かせていました。
石室は4m×5mほどありそうで、深さは28m。
石室への通路は、1mほどの幅です。
鎌足公古廟から計算されつくした場所に間違いなく移し替えられています。
2020年5月19日(火)
藤原不比等の墓と、移し替えられた藤原鎌足の墓は、私の頭の中では、ゆるぎないものとなりました。
後は、その場所から証拠のものを出して、『祀る』という段階に来たと思っています。
このことを藤原氏の子孫の方々に伝えたく、どのような方々が一番にその場所に行って御霊に手を合わせなくてはならないかをネットで調べてみると・・。
「日本赤十字社」の名誉社長で五摂家の筆頭、近衛家の現当主、近衛忠輝氏という情報を知り得ました。
赤十字と言えば、
不思議な名の赤十字山(407.6m)と長老ヶ岳と、移しかえられた藤原鎌足の墓が、見事に2:1:√3の直角三角形を描いていることを思い出しました。
そして、藤原鎌足と長男の定恵、次男の不比等の三人の墓には、大いなる強い意志が表されていたことも思い出しました。
そしてこの日本の大地に神々の計画を読み解くことができることも・・教えられていました。
一般的には・・不比等君は、藤原家の次男ということになっていますが、実は、天智天皇の落胤で、兄 の定恵は孝徳天皇の落胤だったということを大地に遺された三角法では教えています。
私は、藤原鎌足公の移し替えられた墓と、藤原不比等公の墓を特定できました。
一刻も早くこのことを立証し、二人の御霊に子孫たちが手を合わせ、供養し祀っていただきたいと願います。
どなたか私のこのブログを読まれた方で、近衛忠輝様、又は五摂家の方々と懇意にされておられる方が居られましたら、どうぞ私に御引き合わせくださいませ。
このことこそが実は、世界を平和に導くための岩戸開きなのです。
今、毎日このブログを見ている方が、平均1200名ほど居られます。
この中に、世界を平和へ導く扉の鍵を必ずお持ちの方が居られると私は信じます。
どうぞこの情報がその方々に届きますように拡散していただきたいと、今日は私からの緊急のお願い事です。
どうぞ、よろしくお願い申し上げます。
2019年12月7日(土)
今日、藤原不比等公のお墓に全国から集まられた方々をご案内します。
さぞかし見えない世界の方々は、向こうから見て居られ喜ばれることでしょう。
何枚もの図形を時系列で並べてみましたが、どのような流れでお墓を発見し、そのポイントがゆるぎないものになって行ったかを知ることができます。
思い起こせば、法隆寺の謎解きから四天王寺の謎解きへと発展して行き、そこで武部さんのブログの「太安万侶の墓」が四天王寺と天照大神の墓である神野山を結んだライン上にあるという内容がきっかけでした。
太安万侶は古事記を編纂した人物ですから、不比等君と時間をかけていろいろ画策していると思われますから、太安万侶の墓が必ず不比等君のお墓を教えてくれると思いました。
そしてその閃きは正しいものでした。
それは、この大地に三角法で全てが網羅されていますから、父である藤原鎌足の墓や、同じ時代に生きた大友皇子(弘文天皇)の終焉の地や、先人先輩たちが残してくれた歴史の真実を全てしっていた空海様が開いた高野山の金堂や大師廟とを結べば必ず浮かび上がることが想像できましたからそれは、いともたやすいことでした。
求めるお墓の位置は、すぐに求められました。
これら一連の流れから、素晴らしい神々の計画を垣間見ることができます。
今日、勇気ある方々と真っ先に感謝の足跡を残してきます!
2019年12月2日(月)
長老ヶ岳のコンターラインは、「鎌」の形になっています。
四天王寺で手を合わせて祈る先は、この鎌ヶ岳です。
四天王寺の設計の最大の意図は、鎌ヶ岳に人々が手を合わせて祈る配置でした。
又、 法隆寺五重塔の相輪には1.2mの4本の鎌が飾られていました。
そして法隆寺の八角堂の夢殿は、藤原鎌足公古廟から移し替えられた藤原鎌足の墓に手を合わせるようになっていました。
これら二つの寺院は、藤原鎌足を尊崇する設計となっています。
藤原鎌足は、「長老」であり、長老ヶ岳と鎌足の長男定恵と次男不比等の墓の三点は、正三角形の一部をなす36度54度90度の直角三角形を描きます。
そして移し替えられた藤原鎌足と定恵と不比等の三人の墓は、夜空に輝く夏の大三角形の角度の配置となっています。
これらのことが描ける配置を作るには、偶然ではありえず、時間をかけた大いなる強い意志が伝わってきます。
2019年11月30日(土)
藤原不比等公のお墓参りまであと一週間となりました。
不比等公のお墓への上り口には、嵯峨天皇勅願で空海様開基の真言宗の阿祇園寺があります。
下の図を見ていただきたいと思います。
法道仙人開基という真言宗の法道寺と、藤原不比等公の墓とを結んだ左右の図形は、完全なシンメトリーを描きます。
法道寺から真言宗のお寺である岩間山正法寺までと、真言宗の観福寺の上の山に眠る不比等公の兄の定恵の墓までも61㎞と同距離です。
不比等公の墓から正法寺までと定恵の墓までも32㎞と同距離です。
法道寺から加茂遺跡までと鎌足公古廟から移し替えられた藤原鎌足の墓までの距離も40.9㎞と同距離で、不比等公の墓から加茂遺跡までと藤原鎌足の墓までも36.41㎞と同距離です。
綺麗な図形を空海様が浮かび上がらせました!
2019年9月8日(日)
岐阜県御岳山の西に、日月神示が教える「日月の山」があります。
この日月の山と空海様の墓とを結んだラインの中間点に、三日月駅があります。
町村合併で三日月町が消滅するまでの歴史を見ると、由緒ある土地柄を感じます。
一昨年前、佐用町に泊まった時、武部さんと近くの駅まで行って、隣の駅が三日月駅となっていましたから記憶に残っていました。
その三日月山の西へ凡そ5㎞地点に赤十字山(407.6m)があります。
不思議な名の赤十字山と長老ヶ岳と、移しかえられた藤原鎌足の墓は、見事に2:1:√3の直角三角形を描きます。
んん~~ん、誰かに謎解きゲームをさせられているような感じですねぇ。
不思議と言えば、昨日のセミナーでは、しゃべっている私が喋りながら不思議な感覚でした。
いつも話さないような不思議なあの世とこの世の仕組みを何度でも皆さんに伝えていたようでした。
そして・・、「両親に感謝!」なのです。
そして・・、「皆さんに感謝!」いたします。 ありがとう!!