2020年1月
和気清麻呂を祀る京都の護王神社(ごおうじんじゃ)で手を合わす先は、大聖寺であることの重要性が分かって、以前、皆さんと一緒にツアーでも行きました。
大聖寺の不動堂で手を合わす先は、見事にイエス・キリストの墓でしたが、空海様の墓と大聖寺と剣山が基本形の2:1:√3の直角三角形を描きます。
このことからも、剣山の重要性が浮かび上がります。
もちろん大事な空海様の墓に大聖寺、剣山から手を合わす大勢の念が繋がり届くようにとの願いも含まれていることでしょう。
そして、剣山と亀座池と藤原不比等の墓は、1:1:√2。 亀座池と藤原不比等の墓を結ぶ霊ラインには、イエス・キリストの墓が見事に位置しています。
亀座池と藤原不比等の墓と弘法大師廟は、正五角形の一部をなす直角三角形を描きます。
そして亀座池と藤原不比等の墓とを結んだラインを底辺として正五角形の一部を組み合わせたポイントに豊岡市の祥雲寺があります。
祥雲寺は地域名のようですが、この地域には由緒ある神社や寺院があり、おそらく奈良、平安時代には、栄えた寺町があったのではと推測できます。
もっと古くは、丹後王朝など素戔嗚系王族が暮らす地域のように思えてなりません。
古代史研究家の市川慎さん的に言えばこの但馬(たじま)地域は、古代、遠くはペルシャはタージから来た人たちが多く住んでいた地域だと言われます。
市川慎さんが、2月1日(土)のセミナーにも来ていただく予定です。
綺麗な図形は、重要な古代史を教えているようです。
2020年1月8日(水)
西宮市の夫婦岩は、もう一つ重大なことを教えていた。
それは、六甲山山中に墳長200mほどの第五十代桓武天皇の前方後円墳の存在である。
この前方後円墳は、見事に桓武天皇の墓に向けて造られているが、弘法大師廟と蘇我入鹿の墓と綺麗な直角三角形で造っている様からは、桓武天皇が蘇我入鹿の陵墓として造ったと私には響いてくる。
一つの情報から、神戸の北 六甲山の裏側の丹生山一帯に、それはそれは壮大な大伽藍を擁していたという明要寺があった謎にも結びつきます。
丹生山山頂には未だ登っていませんが、年末、古代史研究家の市川慎さんと会うために、聖地神河へと行く途中に麓まで行って情景を見てきました。
地理院地図の等高線からは、丹生山山頂から陵墓の一部が見て取れることが推測できますし、明要寺が存在していた理由も成り立ちます。
そして、空海様が遣唐使船に乗る前と帰ってきてから立ち寄ったという謂れが在り、空海自作の亀石がある再度山大龍寺が山中の陵墓の南に位置することも納得できます。
空海様の空白年間と行動もこれで完全に説明できます。
私は、神戸淡路大震災も体験しましたが、いよいよ『神の戸』が神戸から開かれるということのようです。
イエス・キリストの墓と藤原不比等の墓と、夫婦岩と夫婦岩が教える桓武・蘇我の陵墓とは直角三角形を描いている。
蘇我入鹿の墓と弘法大師廟と桓武・蘇我の陵墓は、直角三角形を描いている。
そして、蘇我入鹿の墓と天武天皇の墓と天武天皇勅願によって法道仙人開基と言われる日光寺は、2:1:√3を描いている。
桓武・蘇我の陵墓から桓武天皇の墓までと生野の地下神殿入口までは1:1:√2の直角三角形である。
いよいよ世界は『夜明けの晩』に突入です。
かごめかごめの唄は、夜明けの晩に鶴と亀が統べった!と、・・いよいよ最終章です!!
2019年9月13日(木)
「明日、広渡廃寺跡へ行ってきます」と7日(土)のセミナーの時に皆さんに私は伝えました。
それは、「絶対に先延ばしにしません、明日行きます!」という神様へのコミットメントでした。
先日のセミナーは、完全に話す、話している・・その内容は、今までとは話しながら自分で気付くほど違っていました。
誰かが私の口を使って喋っているような感覚でした。
・・
それで・・、「市川さん、一緒に行きませんか」と古代史研究家の市川慎さんを誘って行くことにしました。
カーナビに電話番号を入力して広渡廃寺跡へと行きました。
だんだん近づくと、「あれ~~!? よく来ていた記憶にある風景だな~~!???」と思いきや、よく来ていた生乳検査所の真ん前なのでビックリもビックリした私でした。
・・
それにしても、猛暑でしたぁ。
あまりにもの暑さなので、市川先生には冷房の効いた展示館に残っていただいて、ジリジリと焼きつけるような暑さの中を一人で歩いて廻りました。
建物は無くても、残された礎石から確実に読み取れるものがあります。
私が知りたかったのは、建物の角度でした。
わくわくしてコンパスグラスを覗く私でした。
建物は朽ちて消えても、礎石があれば先人の思いはそこにキッチリと残されているものなのです。
歴史の真実を解き明かすには、現地現場に残された証拠の数々を自分の目で確かめ、その点と点を繋いでいく地道な作業を欠かすことはできません。
んん~~ん、不思議です。
この不思議な歴史探索の前までは、岐阜から熊本までの広範囲で、酪農家の数にして40軒ほどで牛の数にして2000頭ほどを使っての10日に一回の乳質検査のデータの収集に明け暮れていました。
「なんで私が酪農の現場廻りをしているのだろう??」と。
私は建築を30年ほどやっていて、「シックハウス症候群(化学物質過敏症)」の探求から、気が付けば私のフィールドは酪農の現場にありました。
牛さんと共にありました。 それは、「水と生態」の探求でした。
私から求めたのでなく、目に見えない何者かに操られていたとしか思いません。
古代史の探求も私から求めたものでもありませんでした。
私の人生を振り返ると、どうも最初から何者かに操られているようです。
その節目を思わせる、思い出させる広渡廃寺跡でした。
いよいよまた、次のステージへの転換点に来たような予感です。
西塔の礎石には穴が掘られていましたが、東塔の礎石には穴は在りませんでした。
このことが教えることは、おそらく・・、三重塔が東西にあるのは、デザイン的なものであって、他の場所との基点となるのは西塔の位置だと聞こえてきます。
〇田さん、昨日の勉強会は楽しかったですねぇ。又、教えてくださいね!
2019年7月7日(日)
昨日のセミナーが始まるほんの少し前に、来られる人の名簿をみると・・!
なんと、静岡県の南伊豆からの人が居られるのにビックリ!
前回もそうでしたが、これはもう私へのメッセージと捉えてすぐさま地理院地図を開いてみて見ました。
するとすぐさまその答えを見つけることができました。
南伊豆の山中に綺麗なベンチマークの山があり、その地点とイエスの陵墓との関係を見ると、その二点と等距離になるポイントに八祢宜山です。
八祢宜山の重要性が浮かび上がる山ですから、南伊豆のその山がいかに重要かを教えるできごとでした。
いつも、いつのときも、いつまでも声なき声のメッセージを受け取れる自分でありたいと思う私です。
セミナーでも市川慎さんの話す内容にも、古代史を紐解く重要なカギとして「ズーズー弁」や「山窩(サンカ)」から紐解けるという強いメッセージでした。
いつも、いつのときも、いつまでも・・、皆さんに感謝です。
セミナーに来ていただいて「ありがとう!!」
2019年6月13日(木)
私は昨日のブログにホキ集落という言葉を書きましたが、「ホキ ホキ集落」という言葉とその意味を御存じの方がどれだけ居られるでしょうか。
ちょっと不安にもなりました。 だってネットで検索しても出てきません。
唯一出てくるのは、古代史研究家の市川慎さんのHPだけです。
それで・・、7月6日のセミナーに急きょ、市川慎さんをお招きして詳しく教えていただきたいと思います。
来場者には、市川先生から「ホキ」のことを詳しくまとめた小冊子がプレゼントされる予定です。
席数にも限りがありますので、完全予約とさせていただきます。
2019年4月25日(木)
兵庫県神崎郡市川町に、イエスの陵墓に手を合わす 曹洞宗 大通寺 があります。
以前、ガイドとして内藤さんが関東から来られた川辺さんご夫妻と行かれたお寺さんです。
私は今年の春分の日に、古代史研究家の市川慎さんに連れていってもらいましたが、それはそれは重要な役割を担っているお寺さんであることが理解できました。
この場所には間違いなく空海様が長く留まった臭いがプンプンしてきます。
空海様の像に手を合わす先には、竜野市亀山にある七福神ならぬ九大竜王を乗せた宝船の磐座です。
その磐座は、イエスの陵墓を教えるラインの角度であり、そのラインに直角のラインの先が空海様の高野山です。
いわゆる、この隠された日本の歴史の真実を解き明かす重要なカギがここ大通寺さんに残されていました。
そして・・住職さん曰く、「春日灯篭の鹿の部分に空海様が全て彫られています」と。
そしてそして・・、四国八十八か所を祀る石佛もですが、なんと! 住職さまが背中に負ぶって山頂や道中に七福神さま達を祀って居られます。
これはもう間違いなく私が導かれたのは間違いありません。
本堂で手を合わす先には、キッチリと南小田山中に眠る、大国主命であり大黒様でありイエス・キリスト陵墓に手を合わすようになっていますから、他の七福神様たちに手を合わせても、それぞれの本当のお墓に手を合わすように向きを整えなくてはなりません。
又、山頂に登れば、本当のお墓の山も遠くに眺められる場所ですから、木の伐採なども必要です。
いよいよ私と武部さんとで本格的な依頼に応えなくてはなりません。
テラファイトコアの組み立てに追われていてなかなか行けませんでしたが、29日午後から武部さんと伺うことになりました。
空海様の臭いプンプンの素晴らしい大通寺さんです。
・・
27日東京セミナーでは、ショップでテラファイトコアが購入できるとのことです。
2019年3月28日(木)
播磨国風土記に記された埴岡の里で、大国主命=イエス・キリストの墓に手を合わすようになっている神社は、神河町杉地区にある大年神社でした。
お寺も絶対にあるはずと思っていましたが、ありました在りました。
やっと出会いました。
神河町の南に位置する市川町に、大通寺さんが在りました。
ここのお寺でご本尊様に手を合わせると、なんと神河町南小田山頂に存在するイエス・キリストの墓に手を合わすようになっていました。
そしてここのお寺で、本堂に向かって左手に空海さまの像が立っていますが、ここで空海さまに手を合わせると、なんと!竜野市の亀山にある船形石積の磐座に手を合わせるようになっています。
もう見事!としか言いようがありません。
また、大通寺さんとイエス・キリストの墓のライン上に第四代懿徳天皇の陵墓も重なります。見事です!
そしてそして・・、神様に捧げる女神像が彫られた幻の亀ヶ壺が在りますが、この亀ヶ壺からイエス・キリストの墓までの距離と大通寺までは同距離で二等辺三角形を描きます。
もう、見事です!!
3月21日の春分の日に古代史研究家の市川慎さんに連れて行ってもらいました。
このことから隠されていた秘密の扉が開くなんて、思いもしませんでした・・、の発表は明日!
2018年12月22日(土)
武部さんは宍粟市の宝珠岩から大阪府太子町の「神山(コウヤマ)」が気になると言っています。
宝珠岩から正福寺までと赤穂の宝珠山までとは47㎞と同距離で、それで私はメッセージと思い、赤穂の宝珠山から神山までと御神山までの距離を測ってみると、117㎞と同距離です。
不思議な感覚です。
宝珠山と正福寺と御神山の三点を結ぶと、54度 36度 90度の正五角形の一部となる直角三角形を描いていました。
それで、その三角形を元に正五角形を描きだすと、即座に正福寺と宝珠山とのラインで御神山の対照地点を求めると、なんとそこには「行基の墓」がありました。
宝珠山から御神山までの距離も、行基の墓までの距離も同距離で、「えっ!」と驚きです。
そして高知のポイントには、今は在りませんが、地名としても残るぐらいの行基が創建したという「円行寺」があったことを知ることになりました。
御神山と行基の墓との間には宝珠山があり、この宝珠山から神山までとの距離はみな同じで、宝珠山のすぐ下には、秦河勝の墓である生島が綺麗に眺められる宝珠山妙見寺があります。
ここのお寺は行基の開基で、空海様も来ている大事な場所で、神仏習合時代は宝珠山麓に鎮座する大避神社の神宮寺でもあり、同神社と祭神である秦河勝とは縁が深い寺であったとのことです。
そして、建物の蛙股には東西南北の方角に合わせた十二支の彫刻が目を楽しませてくれます。
ここから眺めることの出来る瀬戸内の眺望は、生島、宝珠山霊場、大避神社と併せた坂越のパワースポットとして注目されているようです。
私以前、市川慎さんに妙見寺に連れて行ってもらいましたが、そこから生島や瀬戸内を眺めていたら、秦河勝と行基と空海さまは同じ血筋だと響いてきました。
2018年11月12日(月)
岩上神社 巖石神社へと古代史研究家の市川慎さんに連れて行ってもらった日、意外な名前の神社にも連れて行ってもらいました。
桓武伊和神社です。
桓武天皇を祀る神社に出会ったのは初めてでした。
この神社には、早良親王も祀られていて、石碑の由来にはここ都多が、桓武天皇と早良親王の母である高野新笠の出身地とも記されています。
んん~~ん、不思議な神社です。大変な場所かもしれません。
以前に早良親王の墓だという淡路島へも行っていたことがありましたので、いつもながら地理院地図にポイントすると不思議にいろいろと関連性が浮かび上がってきました。
昨年、台風で舞殿が壊されたことで春日神社の秘密を教えられましたが、ここにきて一層その意味を教えられます。
春日神社の本殿に手を合わすと、桓武天皇の墓である高雄山(428.4m)を拝むようになっていますし、御参りして帰る途中に二つの鳥居がありますが、二つとも角度が違います。
この二つの鳥居の先が桓武伊和神社と伊和神社になっています。
そして、桓武伊和神社のご本尊さまが見つめている先に、石宝殿古墳があり、淡路の早良親王の墓から石宝殿古墳と伊和神社までの距離は同距離です。
石宝殿古墳の真北には、桓武天皇の墓である高雄山があります。
南北ラインで思い出すのは、天武天皇・持統天皇陵の真北に天智天皇の墓があるという兄弟親子の南北ラインと、桓武天皇の墓とを結んだ先に平安南道があります。
桓武天皇も兄弟の南北ラインをお墓で形成しているとすれば、石宝殿古墳は早良親王の墓となります。
その南北ラインに直角に西へ行ったところに春日神社があり、その延長部に伊和神社が位置しています。
これらの関連性が偶然に布置する確率ってありうるのでしょうか。
これはもう計算に計算されつくしたものです。
桓武天皇が生前、自分が眠る山と決めた高雄山の真南に早良親王の墓を作らせたと聞こえてきます。
お墓の位置をたどると、又、お墓の位置を探すことも先祖のルーツもお墓のネットワークから知ることができます。
先人達の知恵は、半端ではありません。 凄すぎます!!
2018年11月
日曜日、古代史研究家の市川慎さんと懿徳天皇の陵墓近くにある喫茶店で情報交換し、「そこへ連れて行ってください」と言うことになり、いつものように車を寺前裏の駐車場にもどして、市川さんの車で重要な場所へと連れて行ってもらいました。
行った場所は、先ずは宍粟市にある岩上神社でした。
ここの神社の大きな巨石は、川の縁側は火を焚いた跡で赤く変色していました。
神社の由緒にもそれを思わせる文言も書かれていました。
神社の狛犬は獅子ではなく狐さんでした。
そして彫り物には、ウサギやサルや軍鶏など意味あるものが彫られていました。
そこら中、神社の名前そのもので、岩ばかりでした。
帰って地理院地図で調べると、大きな岩の切り落とされた面は方位を表していて、それはイエス・キリストの墓とその先の卑弥呼の墓まで一直線になっていました。
このことは、そのラインを東へと伸ばすと、比叡山延暦寺の根本中堂へと行きつくことが分かります。
つまり、比叡山延暦寺でご本尊様に手を合わすと、卑弥呼の墓、イエス・キリストの墓・・そしてここ岩上神社へと一直線になる位置にこの岩上神社は配置されています。 見事です!
又、ソロモンの墓から卑弥呼の墓までとこの神社までとは綺麗な二等辺三角形を描きます。 偶然でしょうか。
あまりにも綺麗な配置に驚くばかりです。
・・
早速、武部さんから連絡が入りました。
狛犬は狐ではなく、狼とのことです!
そのことから又、大変な秘密が分かりました!! 又また二等辺三角形が・・。
そしてもう一つ、徳島の太龍寺大師堂の彫り物の意味も・・パチン!と閃きました。